【おまけ】黒犬とシャンプー(前)
よお、人間さん。俺の話が聞きたいなんて、あんたも物好きだねぇ。神父サマに説教されちまうぞ?
まあいいや、ちょうど暇してたんだ。今ならあのヘタレ天使もいないし、面白おかしい地獄の話でも聞かせてやるよ。なーに、そう警戒しなさんな。俺は悪魔にしては珍しく怠け者だから、行きずりの人間を片っ端から誘惑したりはしないさ。
何が聞きたい? 古式ゆかしい七つ頭の赤竜についてか、火の池か、煮え立つ大釜か。それとも、来たるべきハルマゲドンに備えて休みなく続く軍事教練の過酷さかな? いやいや冗談。あんたがこっちに来るとしても、そんなに酷い場所には送られないだろうさ。天国の退屈さに比べたら、地獄は愉快なところだとも。
それとも、あのヘタレ天使の失敗談を教えてやろうか? ヒヒヒッ、いやーなかなか傑作だぞ、ほんと思い出し笑いが……え? それより俺のことを知りたいって? よせやい、照れるじゃないか。
あーはいはい、わかった、わかってるよ、シャンプーの話だろ。まったく、おまえさんも悪趣味だねぇ。さて、どうしたもんか。
……よし。じゃあ、これから話すのはあくまで“お話”だ。本当のこととは限らないから、そのつもりで聞けよ。
※ ※ ※
知っての通り、俺たち悪魔は天使の邪魔をするのが仕事だ。
俺の担当はあのボンクラなわけだが、だからって四六時中べったり張り付いてるわけじゃない。あいつがほかの悪魔の邪魔をしてる時は、俺は休ませてもらったりもする。あんなヘタレ天使に二対一の戦いをさせるのは気の毒だろ? いや、嘘。単に悪魔同士で共同戦線張るのはどうにも苦手ってだけ。ほら、悪魔ってやつは信用ならねーからさ。
とにかくまぁ、そんな感じのオフ期間があったわけだ。
とある時代のとある国。俺は街をぶらついて、適当にちまちま人間をおちょくって遊んでいた。
チンピラの路駐バイクにマーキングして怒らせてやって、不運な通行人に八つ当たりさせてやったり。公園の木陰でいちゃついてるカップルの間に割り込んで、片方にだけ愛想良くして喧嘩の火種を蒔いてやったり。
でもって次は、夜のバス停で泥酔してるおっさんの足元から鞄を失敬してやろうと狙って、抜き足、差し足。
あとちょっと、ってところで、物陰から飛び出してきたやつにかっさらわれた。おっ、やるじゃねーか、と思って見たら、これがまぁ汚いガキでね。発育が悪くて痩せっぽちで、ほんの七歳かそこら、男か女かもわからない。
でもって鞄を取ったはいいが、逃げるより先に俺に気を取られて、馬鹿みたいににっかり笑いやがった。
「わんわん!」
おいおい、でかい声で喜ぶなよ。そら、酔っ払いが起きちまった。逃げるぞ、ほら来い!
身を翻した俺を追いかけて、ガキも走る。酔っ払いのダミ声が後ろで響いたが、じきに静かになった。それもそのはず、
「つーかまーえた!」
路地に滑り込んだ俺を、ガキは両腕でがっちりホールドした。要は鞄を投げ捨てやがったわけだ。せっかくの獲物を放り出して、犬に夢中になるとは情けない。
「わんわん! かぁいいねー!」
おう、ありがとよ。気が進まないながら、礼にぺろりと頬をひと舐め。泥くせぇな。
俺を抱きかかえて撫でくりまわしていたガキは、しばらくしてやっと、鞄を放り出してきたことを思い出した。
「あっ……あー、なくしちゃったぁ。どうしよ……」
いまさら萎れてその辺の地面を見回しても、もちろん、落ちてやしない。やれやれ。
俺が付き合ってやる義理はないんだが、たぶんこいつ、手ぶらで帰ったら大人に折檻されるんだろう。どう見ても、自分の意志で自分が食うために盗みをしてるクチじゃない。
「おうち入れない……」
案の定、しょんぼりうなだれてぽろぽろ涙を落としだす。まったく、世話の焼けるやつだ。俺は鼻先を宙に上げて獲物の匂いを探すと、込み入った路地の奥に歩を進めた。
いたいた。酔っ払ってふらつきながら、鞄の口を全開にしたままだらしなく歩くご機嫌な女。連れの女とおしゃべりに夢中だ。ほーら、通りすがりの野郎の視線が、むき出しの財布に吸い寄せられて……取ったな、よし。
男が足早に女の横をすり抜けてこちらに来たところで、物陰から飛びかかる。黒犬ってのはこういう時に便利だねぇ。
驚いて竦んだ拍子に落っことされた財布を素早くキャッチして、煙のように退散、っと。うまいもんだろ?
念のためにぐるっと大回りしてガキのところへ戻ると、感心なことに、せめて小銭が落ちていないかと這いつくばって排水溝を探していた。何枚か、網の隙間からほじりだした泥まみれの硬貨が手元にある。みみっちい稼ぎだ。
「あっ、わんわん! お帰りぃ!」
……なんでそんな無邪気に笑えるのかね。哀れなこった。
俺はくわえてきた財布を渡してやった。ガキはきょとんとして、それから財布を開いて中身を確かめ、ぱあっと笑顔になる。
「うわぁー、えらいね、すごいねぇ! ありがとう。よぉし、おうち帰ろう!」
俺の頭を撫でまわして、当然ついてくるだろう、という態度で立ち上がる。どうせ暇だし、このガキの元締めんとこに行けば悪徳を積み増しさせてやれるってもんだ。
そう思って、ついてったのが運の尽き。
『ギャー! てめえコラやめろそれ人間用だろ芳香剤くせえ鼻が曲がる! 頭にまでかけんじゃねえ耳に入っ、ギャー! 目が、目がぁー!!』
「あぁー! だめだよぉ、ちゃんとキレイキレイしなきゃ! “きたないのらいぬ”はおうち入れないんだよ!」
ガレージでホースの水を浴びせられ、問答無用でいきなり丸洗いの憂き目に遭った。そもそもガキ本人がそういう“しつけ”をされちまってるらしく、こいつも泡まみれだ。
家は一戸建てだが築何十年だってぇ代物でガタガタボロボロ。ガレージにも車なんかなくて、ガラクタ置き場。帰ってきたガキはまずこのガレージに入って、戦利品を棚に退避させると、服を着たまま頭から水をかぶったのだ。色あせたボディソープの容器から、正体不明の泡立つ液体を全身につけてブラシで洗い、しかるのち、唖然としていた俺にタックルかまして巻き添えにしやがった。
『やめろやめろ離せぇぇ!』
「あはは、たのしいねー!」
危うく地獄に還るところだった……。
ずぶ濡れになった俺が何度も身体を揺すっている横で、ガキも服を脱いでぎゅうぎゅう絞る。棚に置いてあったバスタオルでごしごし頭と全身を拭いて――おいそれ余計に汚れるんじゃねえのか?――じっとり湿った服を着直して、
「キレイキレイしゅーりょー!」
嬉しそうに笑って財布を手に取り、やっと玄関に向かった。
手招きされたが、俺はついて行かないぞ。こいつの元締めが何様だろうと、本物の野良犬なんぞが御前に出たんじゃ、蹴り出されるのは目に見えてる。
「ただいまぁー。おかーさん、はいこれ!」
「あぁ? これだけ? ……ん、まぁいいだろ。そら食いな」
ドアの隙間から漏れる酒の匂い。転がる瓶や缶、床に落ちたピザソースが腐った臭い。うへぇ。悪魔的にはおなじみの心安らぐ汚穢だが、犬の鼻にはちょっとたまらん。
「わーい、ごはん! あれ? わんわん、入っておいでよ。ごはんだよー」
「……は? 何言ってんのオマエ。犬?」
「うん、あのわんわんがねぇ……」
「うっせえ! きたねえ野良犬連れてきやがって、捨ててこい! 出てけ!」
そら、言わんこっちゃない。




