新天地へ
礼拝堂の外では、黒犬が涼しい日陰にだらしなくひっくり返り、姉妹に腹を撫でられていた。微笑ましいというより気が抜ける光景だ。まったく、いいご身分だな。
「さあ二人とも、帰るわよ」
美里さんに呼ばれ、姉妹がこちらへやってくる。陽美さんは母親と目を合わせないまま、ぼそぼそ言った。
「先に帰ってて。歩くから」
相変わらず、いろいろ省略した無愛想さだ。美里さんは呆れ顔をしたが、もう怒らなかった。
「日陰を歩くのよ。しんどかったらすぐ電話しなさい」
「うん」
「……ほら希美、神父さんにご挨拶して」
母親に背中を押され、希美さんが潤んだ目をぱちぱちさせながらぺこりとお辞儀する。
「ありがとうございました。さよなら。……ぐすっ」
「はい、さようなら。いつかまたお会いしましょう。それまでどうぞ、お元気で」
ぽんぽん、と頭を撫でてあげると、希美さんは我慢できなくなったらしく、ぱっと身を翻して犬に駆け寄った。くっ、敗北感。
「ダミアン、また会おうねー!」
『苦しい苦しい、妹ちゃん、首しまる! ギブギブ! 俺が地獄に還っちまったらもう会えないぞ、闇堕ちしてくれない限り……あ、それいいな萌える』
またあいつは何を言ってるんだか。
若干呆れ顔になったわたしと陽美さんを残し、美里さんが希美さんを車に乗せて、ゆっくりと門を出て行く。黒い軽自動車が木立の向こうに見えなくなると、陽美さんがふうっと息を吐いた。
「あの子が犬を飼いたい理由、あたしと全然違った」
「そうなんですか?」
「はい。家族がどうとか、考えたこともなかったです。……別の問題、なんですね」
ぽつりと付け足した一言は、わたしが屋根裏で説いたことだ。陽美さんは表情を改め、わたしに正面から向かい合った。
「あの時に教えてもらった、別の問題だって切り分ける方法。あれで、ちょっとだけ整理できるようになった……気がします。難しいけど。でも、希美ばっかりとか、あたしの時は駄目だったのにとか、比べて怒るのは、なんかズレてるっていうか、違うっていうか」
「問題の本質ではない?」
「それです。別々の人間が別々の時に、全然違う気持ちで行動してるんだから、結果も違って当然で。だから……好き勝手やってた馬鹿な弟が歓迎されるのと、まじめにやってた自分がご褒美もらえないのとは、別々の問題なんですよね。やっぱ不公平だよなっていうのはあるけど」
「陽美さんの考えを深める役に立てたようで、良かったです」
その『考え』を評価することは避け、わたしはただ笑顔で受け止めた。陽美さんはこちらの本心を探るような目つきで沈黙し、それからふいと横を向いた。礼拝堂の中に視線をやり、つぶやくように言う。
「神父さん、行っちゃうんですね。……さすがにここも閉めていきますよね」
「ええ。助けを求めて来られても、司祭がいませんから。施錠しておかないと、台風などで雨風が吹き込んで建物が傷みますし」
説明を受け、陽美さんはうなだれる。まるで、よちよち歩きを始めた途端に手を離されてしまった幼子のような頼りなさだ。うん、ひとつ道標を置いてあげよう。
「喜美子さんの病院は、キリスト教系だと知っていましたか? あそこは修道院があるんですよ。もちろん礼拝堂もね」
「えっ。マジで?」
「マジです」
以前と同じやりとりを繰り返し、わたしと陽美さんは顔を見合わせてぷっとふきだした。
「聖書の話に興味があるなら、お見舞いのついでにあちらのミサに出てみるのも、ひとつの手ですよ。それに、神に近付く方法は教会だけではありません。ミッション系の学校を探して進学するのもいいし、大学に行けば、学部学科にかかわらず教養として宗教学や哲学を選択できるでしょう」
「哲学? って、なんか難しい理屈こねるやつですよね?」
「まあ、おおむねそうなんですが。なぜ、と問い続け、物事を考えるための知識を磨き続けている学問ですから、人生や神とも付き合いの長い分野なんですよ。あるいはただ、自分で聖書を読んでみてもいいですし」
「……読んでみたんですけど」
おや。渋い顔だ。いつの間にか足元に座っていた黒犬が茶々を入れる。
『まぁベストセラーのわりに面白くないわな』
「なんか読みにくいし、えぇー何それー、って感じで全然納得いかない話ばっかりで。やっぱり神父さんに解説してもらわないと駄目なのかなぁって諦めました」
「ははは。致し方ありませんね、いかんせん大昔の話ですから」
わたしはこっそり爪先で駄犬の前足を踏んでやってから、気を取り直して続けた。
「急いで決めなくてもいいんですよ。合わないなと思ったら、いったん置けばいいんです。教会も、聖書も。人生で必要になった時、何度でも立ち返り出会い直せるものですし、神様はいつだってそれを歓迎してくれますからね」
わたしの言葉を、陽美さんは噛みしめるように聞いていた。瞑目し、ゆっくりひとつ深呼吸。そして晴れやかな瞳をひらく。
「――はい。短い間でしたけど、本当にいろいろ、ありがとうございました」
姿勢を正して、体育会系らしい、ぴしっとした礼を披露してくれた。そうしてもう、踵を返して歩き出そうとする。わたしは慌てて確認した。
「家まで送りましょうか?」
「大丈夫です。歩きたいから」
爽やかに断った陽美さんは、けれど、ふと何かを思い出して、いまさら改めてわたしの顔をしげしげと眺めた。
「そういえば、ちょっと不思議なんですけど」
「……?」
「おばあちゃんが倒れた晩、あたし、この教会の固定電話にかけたんですよね。神父さんの連絡先、お父さんしか知らなくて、でもバタバタしてて訊けなかったから、教会を検索したんです。そしたらなんか古いホームページがヒットして」
「ああ、そんなことをおっしゃってましたね」
「駄目元でかけたらつながって、良かったんですけど。後でもう一回かけてみたら……現在使われておりません、って」
どういうことかと尋ねはせず、陽美さんはただ、じっと目を見つめる。わたしは無言でそれを受け止め、それから、ふっと微笑んだ。
「不思議なこともあるものですね」
「……本当ですね」
陽美さんは真顔で一言返し、軽く会釈すると、今度こそ振り返らず去って行った。
※ ※
「まぁまぁ、司祭様。来てくださって、ありがとうございます」
喜美子さんはベッドに横たわったまま丁寧に挨拶してくれたけれど、声はかすれがちで、言葉も発音しづらそうだった。経過は良好と言っていたけれど、やはり急激に衰えたように見えて痛々しい。こんな姿の母親に「神様に会い損ねた」なんて言われたら、それは怒るか泣くしかないよなぁ。
わたしは枕元に椅子を引き寄せて座りながら、静かに話しかけた。
「無理にしゃべらなくていいですよ。今日は、お見舞いとご挨拶に伺いました。急なことですが、新しい任地に向かうよう辞令が届きまして、福貴の教会を引き払うことになったんです」
「まあ……」
「ほんのひと月でしたが、皆さんと共に過ごせたことはこの上ない幸いでしたよ。喜美子さんとミサを執り行えたのも大変貴重な経験でしたし、いろいろと学ばせていただきました」
心細そうな喜美子さんの手を取り、そっと握って感謝を伝える。
「本当にありがとうございました」
「こちらこそ。司祭様のおかげで、少し……家族が、……良くなって」
訥々と言葉を選びながら、喜美子さんがわたしの手を握り返す。その手は細く骨張っていても、温かい。
「わたしでお役に立てたのなら、何よりです。ご存じかもしれませんが、この病院には附属の修道院がありましてね。毎日礼拝もおこなわれていますし、シスターたちが入院患者さんのところを回って、様々な要望を聞いたり話し相手になってくれたりします。しばらくしたら喜美子さんも、またミサに出られますよ」
「そうですねぇ……でも」
つぶやきかけ、ふと言葉が途切れる。わたしは首をかしげた。また何か人間関係で嫌な思いをするぐらいなら、と心配したんだろうか。
しばし沈黙したのち、喜美子さんは、ふふ、と小さく笑った。
「あの歌には、何も、かなわないでしょうね」
「…………」
「最後に、聞かせてくれます?」
赤面したわたしに、喜美子さんがやんわりと求める。ああ、参りました。
幸い個室だから、他の患者に気を遣う必要もない。ひとつ咳払いし、背筋を伸ばして。
「では――『しずけき祈りの』を」
声を抑え、ゆったりと穏やかな旋律を紡ぐ。心を静めて祈る喜び、なぐさめと幸いを想う歌だ。これからも喜美子さんが祈りと共に日々を過ごし、入院生活の支えとしてくれるように願いながら。
じきに喜美子さんは安らかな表情で目を閉じる。三番まで歌い終えた時には、ぐっすり眠っていた。わたしは起こさないよう慎重に立ち上がり、小声で祝福を授けると、そろそろと病室を後にした。
廊下に出た途端、シスターのひとりと鉢合わせする。おっと、ご同輩だ。
「お役目、ご苦労様でした」
「はい、では後はよろしくお願いします」
お互いぺこりとお辞儀をし、引き継ぎの言葉を交わす。余計な説明は必要ない。これからは彼女が、喜美子さんの守護天使だ。
これですべて、やり遂げた。
わたしは大きくひとつ息をつくと、気持ちを切り替えて歩き出した。
さあ、出発だ。
駐車場に停めた愛車のところへ戻ると、黒犬が勝手に外に出て近くの木陰で涼んでいた。人に見付かって通報されたらどうするんだ。まあ、そうなれば手間が省けるけど。
『そんな顔するぐらいなら、日陰を選んで停めるか、フロントガラスに遮光シート置くとかして窓に隙間を開けとけよ。このうっかり天使サマめ』
「自力で脱出して涼んでるやつが言うな」
『脱出できてなかったら中で煮えてるじゃねーか。だいたい、霧になってドアの隙間を通り抜けるのは、かなり気持ち悪いんだぞ。パスタマシーンにかけられる生地の気持ちがわかるか』
「心底どうでもいい」
わたしは小声で言い返し、ドアを開ける。途端に熱気があふれ出て、駄犬の言うとおりにしなかったのを後悔した。ハンドルを触ったら火傷しそうだ。とりあえずドアを全部開けて空気を入れ換える。
『へっへっへっ、そーら見ろ。疑似地獄体験ブースへようこそ、だ』
木陰で悪魔がせせら笑う。わたしは頭を振り、車内が冷めるのを待たずに乗り込んだ。ほかほか温かい運転席に腰を下ろし、ドアを閉める。
『あっ、こら、置いてくな!』
慌てて犬が走ってきたが、構わずエンジンをかける。窓を全開にしたままエアコンを入れたので、じきに冷えるだろう。黒犬はドアをカリカリ引っ掻いたが、わたしが無視して車を発進させたもので、急いでジャンプして窓から転がり込んだ。
『うわぁシートがぬっくぬく! 勘弁してくれよ、もう』
「嫌なら降りろ、ついて来るな。というか今度こそ来るな、失せろ悪魔」
『ひでえな、杉田家の皆様と仲良くなるのに俺がどれだけ貢献したか忘れたのか?』
「自分の目的で姉妹に取り入っただけのくせに、何を恩着せがましい」
まったく、馴れ合いすぎだ。新しい任地ではもっと毅然として対処しなければ。
『はー……やっと冷房が効いてきた。次はもっと涼しいところだと嬉しいんだけどなぁ。そんでもって、大物悪党と一緒に暴れたりできたら気分もスカッと爽快なのに。地味な不満憤懣を煽って天国行きの切符を破らせるのも楽しいけど、たまにはビッグでワイルドな悪事をはたらきたい! おまえさんも鬱憤溜まってるだろ、久しぶりに天使パワーで殴る蹴る斬るの大暴れしたいんじゃねーの?』
「昔の話はやめてくれ。鬱憤晴らしなら……そうだな、ドライブしながら大声で歌うっていうのが最高だ」
『ギャー! やめろ犬殺し!』
「季節外れのクリスマスソングをメドレーで」
『二重の意味で死ぬわ! つーかおまえらよく平気だな!? あんだけアレンジバージョンが無限に生産されて、同じメロディ同じ歌詞が延々と、街のどこに行っても聞こえてくる……まさにこの世の地獄! あぁぁ思い出しただけでハゲそう』
身悶えする悪魔がおかしくて、つい『サンタが街にやってくる』の一節を口ずさむ。途端に黒犬はシートに沈没した。
『オエェ最悪、聖歌酔いでゲロ吐くぞ』
「待て。わかった、歌はやめよう」
もちろんこいつは物質の肉体ではないけれど、シートに悪臭の染みをつけるぐらいはやりかねない。やれやれ。
代わりにラジオをつけると、適当な歌謡曲が流れてきた。
渋滞にも事故にも巻き込まれることなく、車は順調に走り続ける。
『なぁなぁ、次はどこなんだよ。そろそろ教えろよ』
「教えない。というか降りろ、本当に」
『いいじゃん、どうせ俺はおまえの行く先についていくんだから』
「来るなよ……」
『諦めなって、相棒』
わたしはため息をついて、まっすぐに伸びる道路の先を見やった。
連なる山々の上に入道雲が峰を重ね、群青の空に白く輝いている。ああ、彼方におわす我らが神よ、今後もわたしの道行きを見守ってください。そしてどうか……
『そうだ! このまんま行けば道の駅があるんだ、そこのご当地ソフトクリームがめちゃくちゃ美味いって評判なんだよ。ひと仕事終わったお祝いだ、寄り道して涼みがてら食おうぜ!』
――どうか、誘惑を退ける力をお授けください!
アーメン。
(終)