杉田家の人々
教会のある丘よりは明白に高い山のほうへ向かうと、麓の斜面にビニールハウスが連なり、その向こうに人家が集まっているのが見えて来る。
ハウスの中はブドウ棚だ。たまに『ブドウ直売 ●●農園』といった看板が見られるものの、いわゆる観光農園は無い。
道は狭くて、対向車がすれ違うのもギリギリの幅しかない。所々に待避所があり、その端っこや、あるいは耕地にはみ出して、似たような軽トラックがぽつんぽつんと止まっている。持ち主は畑で作業しているんだろうか。
畑の間を抜けて集落に入り、曲がりくねった道を注意しながら進む。見通しが悪くて危険でも、住民は勝手知ったる道だし交通量も少ないものだから、結構な速度で飛ばしてくれるのだ。
むろん天使は、絶対に交通事故に遭わない。
しかし誰がどこで見ているか知れないので、行儀よく運転しなければ。
昔ながらの農家らしい大きな日本家屋が並び、作業場を兼ねた広いガレージや、小さな倉庫の数々が隙間を埋めている。
似たような構えの家が多いし、新興住宅と違って表札も見えにくいうえ、古い集落にありがちなことだが同じ苗字の家が何軒もある。外部の者が初めて訪れるなら、目的の家の番地まで事前にしっかりチェックしないと間違えてしまうだろう。
その点についても、天使にぬかりはない。信者の居場所はいつだってわかる。神を求める魂はどこにあってもほんのり光っているものだ。その中でも、守護すべき相手は簡単に見分けられる。
というわけで、難なく目指す杉田家に到着。邪魔にならなさそうな場所に車を停めて、住居に隣接する作業場へ足を向けた。
一般的な住宅の1.5階ほどの高さがある、広々とした作業場だ。軽トラックが道路に向けて顔を出しており、その横を通ってツバメが出入りしている。子育てシーズンだから、外にまで賑やかな声が響いてくる。
そっと覗いてみると、壁際に何百と積み上げられたブドウの箱にまず圧倒された。あれ全部に詰めて出荷するのか……それも手作業で。ちょっと気が遠くなりそうだ。
奥に目をやると、段ボール板の束もぎっしり積まれていた。床にマットを広げて、二人の少女がその板を折って箱を作っている。つまり、今ある分だけではまだ足りないということだ。
農業というと、野外で土を耕し作物に触れるところを想定しがちだけど、実際にはこういう、なんとも煩雑な、かつ同じ作業の繰り返しという部分が結構あるんだよなぁ。300年ほど人間の営みを見てきて、つくづく我慢強いものだと感心させられる。
段ボールのほかにも何やら資材の箱が多数。大きな結束機のそばには、中身を詰め終えた箱が行儀よく整列している。それらに囲まれた作業机では、大人たちがラジオ放送を背景に、せっせと仕事を続けていた。今はデラウェアが最盛期のようだ。
トラックの荷台から下ろしたブドウを形や重さで仕分けしている老婦人と、そのブドウをパックに分けて箱詰めしている中年の男女。全員がてきぱきと作業に集中しており、邪魔するのがはばかられた。
遠慮しながら、声をかけようと一歩進み出る。足音に気付いたのか、床に座っている少女の片割れが、ぱっとこちらを見上げた。中学生ぐらい、ということは喜美子さんの孫だな。姉の陽美さんのほうだろう。短髪で、シンプルなTシャツとハーフパンツから伸びる細い手足はよく日焼けしている。活動的な印象だ。
「おばあちゃん。神父さん来たよ」
思春期にありがちな、ぶっきらぼうで愛想のない口調。ただ、おばあちゃん、という呼びかけには親愛が感じ取れる。良い徴候だ。
ちなみに、大雑把に言うと神父はカトリックで、プロテスタントは牧師。この区別は日本でもだいぶ一般に知られてきたけど、さっきの吉田さんや陽美さんがそこまで意識しているのかどうかはわからない。元々近所にあったのがカトリック教会だから、自然に神父さんと言ったんだろう。
呼ばれた老婦人が手を止め、さっと立ち上がった。小柄で細い体に、柔和な顔つき。喜美子さんだ。髪はすっかり灰色だが、年齢を思わせない機敏な動作で、いそいそこちらへやってくる。
「はいはい、吉田さんから聞いてます。はじめまして」
「はじめまして、坂上と申します。お忙しいところ、突然すみません」
「ここではなんですから、どうぞ家のほうに」
「ああいえ、長くはお邪魔しません。今日はご挨拶だけ」
わたしはまず失礼を詫び、奥の男女にも頭を下げた。手は止めないまま、二人も会釈を返してくれる。喜美子さんの娘の美里さんと、その夫の浩平さんだ。
美里さんは母親より父親に似たらしく、がっちりした体格と気の強そうな面立ち。浩平さんは大柄で、見るからに善良で優しそうだ。二人とも、働き者らしい実直な人柄が窺えるが、今はうっすら不審と警戒のいりまじった気配を漂わせている。
床から興味津々の視線を向けてくるのは、陽美さんと妹の希美さん。姉と違って妹はインドア派らしい印象で、長い髪を可愛らしくツインテールにしている。
わたしの背後から黒犬が姿を現すと、姉妹は途端にぱっと笑顔になった。
「あっ、わんこ! 可愛い!」
希美さんが反射的に立ち上がる。待ってましたとばかり駄犬は尻尾を振り、ひっくり返って腹を見せた。陽美さんのほうも、平静を装いつつ急ぎ足で、妹の後からやって来る。
『お嬢ちゃんたちも可愛いネ~。ほらほら、お手伝いなんか放って、楽しいことしようぜ』
ああくそ。純真な姉妹が簡単に釣られて、嬉しそうに撫で始めてしまった。
むろん動物愛護の精神は良いことだ。それが普通の犬だったら、の話だが。言っておくがわたしだって本来、犬は好きだ。あいつのせいでその感情に負のバイアスが入ってしまうようになって、どれほど悔しいか。
ええい、あいつの下品な誘い文句が、彼女たちの耳にも聞こえたらいいのに。
腹立たしいものの、ここで犬を追い払ったりすればわたしが悪者だ。ため息をこらえて、背後を気にしないふりを装い、喜美子さんに向き直る。
「上のほうから、福貴教会を維持するため手入れするように言われまして。その際に杉田さんのことも伺いました。司祭の巡回がなくなった後、何年か、ひかり台のほうにいらしていたそうですが……」
確認のために間を置くと、喜美子さんは気まずそうに目をそらして「ええ、まあ」と曖昧に答えた。
ひかり台というのは、この福貴を含む田端町の隣町だ。電車で一駅しか離れていないけれど、ベッドタウンとして後から開発されたので、歴史の古い田端とはだいぶ様子が違う。
人口もここよりは多く、ひかり台教会には司祭が一人常駐している。ささやかながらハンドベル楽団まであって、活動が続いているのだ。
「最初はスクーターで行ってたんです。わたしもまだ元気だったし……でも一度転んで、乗るのをやめました。向こうの信徒さんが車で送迎してくださってたんですが、毎週ご厚意に甘えるのが心苦しくなって」
「そうでしたか」
なるほど、とわたしは納得したようにうなずいた。
うん。半分は真実、半分は嘘だ。
天使パワーを使って心の中まで読まなくても、そのぐらいの判別はできる。というか、天使じゃなくても察しの良い人なら想像がつくだろう。
たとえ熱心な信徒であっても、毎週欠かさず問答無用で迎えに来られてミサに連行されるとなると、重荷に感じることだってあるだろう。人間だもの。
天使でさえ、延々とただひたすらに主を賛美し続けるのに飽きて、堕天したやつがいるというのだから、責められやしない。
わたしは彼女が罪悪感を抱かないように、共感をこめて穏便に言った。
「遠くなってしまって、ご不便でしたね。これからしばらく……と言ってどのぐらいかかるかわかりませんが、あの教会におりますから、何でもご相談ください。ひかり台のミサに参加されたい時は、わたしが車を出しますよ」
「わざわざご親切に、ありがとうございます」
喜美子さんが頭を下げる。遠慮、というにはどこか少し硬いものを含んだ声音で。
そこへ、奥から浩平さんが質問を挟んだ。
「吉田さんの話だと、あそこでまた何かするってわけじゃない、ってことでしたが、勧誘とかは……?」
「いたしません。ご心配なく」
勧誘じゃなく伝道をいたしますので、だとか返してもいいんだけど、冗談だと理解してもらえないだろうな。
大方の日本人は、生活になじんだ仏教や神道は平気でも、それ以外の宗教に対しては忌避感が強い。実際に性質の悪いカルト集団もはびこっているから、警戒するなとも言えないのがつらいところだ。
こちらの返事を受けて、浩平さんはあきらかに安堵の表情になった。わたしは苦笑して言い添える。
「もちろん、この機会に興味関心を持っていただけたなら、大変喜ばしいことですが。いずれにしても、当面あの建物に人を入れられる状態ではありませんので、何かあれば遠慮なく呼び出してください」
言いながらスマートフォンを取り出して見せた。もちろんこれは支給品で天界との交信が可能な特別製だが、普通に地上の通信機器としても使える。
喜美子さんは自分のものを持っていないらしい。かわりに浩平さんがわたしの連絡先を登録し、ふと顔を上げて道路にいる娘たちを見やった。
呆れたことに黒犬は、まだ腹を撫でられていた。すっかり夢見心地に目を細めて舌を鳴らしながらも、前足は陽美さんの手にかけてしっかりホールドしている。おい駄犬、調子に乗るなよ。
残念ながら、二人の娘の父親にとっては、心和む情景でしかない。浩平さんは目元を緩めて悪気なく問うてくれた。
「ところで、あれは神父さんの犬ですか?」