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心の重荷を下ろして(7月7日 日曜日)

 旅立つ時だ。

 朝日が昇ると共にその確信が降った。既にまとめてあった私物の箱や鞄を車のトランクに積み込み、最後の掃除に取りかかる。

 つかのまの仮住まいとはいえ、それなりに愛着の持てる教会だったから、去るのはやっぱり寂しい。それでも、心は穏やかに凪いでいる。


 今日で、なすべきことのすべてが終わる。

 それがわかっていたから、慌てることも急ぐこともなく、丁寧に時間をかけて、家具のひとつひとつまで雑巾がけしていく。


『おまえさんには呆れるなぁ。まともな人間暮らしをして汚したわけでもなし、放っといても構わないだろ。どうせじきにまた、埃だらけ蜘蛛の巣だらけになるだけじゃないか』

「おまえにとっては雨風をしのぐだけの場所かもしれないが、わたしにとっては違うんだ。邪魔だから外に出ていてくれ」

『へいへい。あー、哀れな宿無し犬に逆戻りか……』


 悪魔の皮肉も、感情にさざ波ひとつ立てない。

 司祭館に続いて礼拝堂の掃除を終える頃には、もう昼を過ぎていた。


「これで良し、と」


 掃除道具を片付け、司祭館の中をもう一度回って忘れ物がないか確かめながら戸締まりをする。そうしてこの一ヶ月の思い出を胸に畳み、外に出た時、ちょうど黒い軽自動車が門から入ってきた。


「こんにちはー! ダミアン、元気?」


 車が止まるなり歓声を上げて飛び出してきたのは、希美さんだ。礼拝堂のポーチで涼んでいる犬に向かって、まっしぐらに駆けていく。


『やっほーぅ、妹ちゃん! いいねぇ、おっさん神父は華麗に無視してワンコに突撃とは、実に素直で素晴らしい。ダミアン君は元気ですよー!』


 途端に黒犬はこれ見よがしに喜び、ちぎれんばかりに尻尾を振ってはしゃぎまくる。やりすぎだ、馬鹿。

 わたしが表情を取り繕うのに苦労していると、後から降りてきた陽美さんと美里さんが挨拶してくれた。


「神父さん、こんにちは」

「すみません、希美がご迷惑を……あら? もしかして、今からお出かけでしたか」


 頭を下げた美里さんが、司祭館の雨戸が全部閉まっており、わたしの手に鍵があるのを見付けて眉をひそめた。わたしは当たり前の態度で軽くうなずく。


「ええ、今からそちらへご挨拶に伺おうと思っていたところなんです」

「うちに?」


 美里さんが繰り返し、陽美さんも不審げにわたしを見る。彼女たちが来るのは、実のところわかっていたのだけれど、わたしはそれを隠して説明した。


「急な話ですが、次の赴任先へ向かうように辞令が届きまして。ここを引き払うことになりました」

「えっ! そんな、まさか今日これからですか?」


 美里さんが声を上げ、犬と遊んでいた希美さんも慌ててこちらへやって来る。陽美さんは無言で、けれど痛いほどにわたしを凝視していた。

 わたしは姉妹それぞれの頭に手を置いて祝福を授け、にっこりして見せる。天使パワーを少しだけ使って、安心効果をプラス。二人の不安が和らぐのを確かめてから、わたしは美里さんの質問に答えた。


「しばらくお話しする時間はありますよ。何かご用でいらしたんでしょう? 司祭館のほうは戸締まりしてしまったので、礼拝堂のほうで伺います。その間、陽美さんと希美さんはダミアンとたっぷり遊んでやってください」

「待っ……」

「えぇー、じゃあダミアンは!? もう会えないの?」


 引き留めようとして声を詰まらせた陽美さんを遮り、希美さんが不満の声を上げた。途端に美里さんが叱りつける。


「わがまま言うんじゃないの! うちでは飼えないって言ったでしょ!?」

「やだ! ダミアンとお別れするの、いやぁ!」

『あーあー、妹ちゃん可哀想に、俺も悲しいよ。父ちゃんも母ちゃんも、なんにもわかってくれてないよなー。末っ子のわがまま扱いするばっかりでさぁ』


 希美さんが爆発し、泣きじゃくる。黒犬が鼻をクンクン鳴らしながらすり寄った。ええい白々しい悪魔め。言われなくても、どう慰めるべきかはわかっているさ。

 わたしはまず美里さんを目顔と手つきで制し、小言を封じた。それから希美さんの前に膝をつき、泣き顔を覗き込む。


「希美さん。ダミアンはわたしが責任を持って飼います。あなたの願いがとても切実なもので、ただのわがままではないことを、わたしは知っていますよ。でも、だからこそ、あなたにこのままダミアンを任せることはできません」

「なんで? ちゃんと世話するよ、散歩も行くしごはんも用意するし」

「誰が世話をするのかという、時間と労力の問題ではないんですよ。希美さん、あなたは家族のケンカが多くてつらいから、犬を飼いたいんですよね? 犬がいれば、もう少し家の中が穏やかになるかもしれない、と」


 こくりと末っ子がうなずく。姉と母がはっとなった気配を察しつつ、わたしは希美さんに語りかけた。


「確かに、だいたいの時、犬は人を幸せな気分にしてくれます。でもね、犬だって、自分の“群れ”の誰かが怒ったり泣いたりしていたら、つらくなるんですよ。犬を家族に迎えるのなら、犬に幸せにしてもらおうというばかりでなく、幸せにしてあげることも、きちんと考えられなければいけません」

「あ……そっか……そうだね。……ごめんなさい」

「わかってくれたのなら、いいんですよ」


 わたしが頭を撫でてあげると、黒犬が後ろから希美さんの足にべったりすり寄った。


『えぇー、もう納得するの? しちゃうんだ? もっとゴネないと、あっさり譲ってちゃ先々人生でも損するぞ。犬ならなんでもいいわけじゃないんだろ? 可愛いダミアンちゃんは二匹といませんよー』


 二匹いてたまるか、この駄犬が。

 わたしは優しい笑顔を維持したまま、犬の首輪を掴んで希美さんから引き剥がした。


「それに実のところダミアンは、希美さんの前ではいい子にしていますが、わたしと二人だけだと、わりと性格の悪いところがあるんですよ。もし本当にあなたが飼ってみたら、思ってたのと違う、となるでしょうね」

「ほんと?」

「残念ながら本当です。犬も単純な性格ばかりではないんですよ」


 ふう、とため息をついて見せる。希美さんは「そうなの?」と泣き笑いでしゃがんで、犬の首を抱いた。

 これでいいだろう。わたしは立ち上がって美里さんを振り向く。


「さてと、美里さん、中で話を伺います。喜美子さんのことで来てくださったんですよね」

「ええ。面会時間と病室番号を……でも、お急ぎなら」

「まさか。あなた方のための時間は充分ありますし、ここを離れる前に必ずお見舞いにも参ります。さあ、どうぞ」


 礼拝堂の扉を開けて促すと、美里さんは複雑な表情で、罠でも警戒するように恐る恐る中へ入った。背後から陽美さんが「あの」と呼びかける。わたしはうなずきを返した。


「はい、もちろん後で陽美さんのお話も伺いますよ。ダミアン、いい子にしてるんだぞ」

『意地悪神父の陰口が根も葉もない中傷だって証明するぐらい、完璧にいい子にしてるとも』


 ふん、と犬は鼻を鳴らしてお座りする。わたしは胡散臭げな目つきをくれてやってから、教会に入った。


 礼拝堂を通り抜け、奥の小部屋に美里さんを案内する。ミサの準備やちょっとした集まり、そして告解にも使われていた部屋だ。

 古い机を挟んで腰を下ろした後も、美里さんはそれこそ告解に訪れたかのように落ち着かず、なかなか口を開かない。 


 わたしは急かさず、窓の外を見やって「暑くなりましたね」と言った。

 梅雨が明けて一気に空は青の深みを増し、世界の陰影がくっきりと濃くなっていた。窓を開けていればまだ冷房は必要ないけれど、蝉の声が暑熱の予感を届ける。

 外から乾いた風が吹き込み、通り過ぎて、やっと美里さんは用件を切り出した。


「先日は、ありがとうございました。母も無事に今日、ICUを出られまして、意識もはっきりしています。こちらが病室の番号と、面会時間です」


 差し出されたメモ用紙を、わたしは礼を言って受け取った。


「お医者さんの説明では、どんな具合ですか」

「経過はとても良好だし、もうそんな心配することはないって。ただ、麻痺が残っているので、リハビリは長くかかるかもしれないと。幸いリハビリ病棟があるので、回復期に入ったらそちらで引き続きお世話になれるみたいです」

「そうですか。それなら一安心ですが、喜美子さんが抜けると農作業のほうが大変ですね」

「ええ……でもまぁ、泰子おばさんがいろいろと」


 言葉を濁して美里さんが首を竦める。わたしは察して、笑みを押し隠しながらうなずいた。


「ああいう方は、何かあった時に頼もしいですね」

「正直ちょっと困るところもありますけど、おかげで人手はなんとかなりそうです」

「それは良かった」


 それきり会話が途切れる。美里さんはどこかに話の接ぎ穂が転がってないかと探すように、室内に視線を巡らせた。ややあって諦めて居住まいを正すと、膝の上に手を揃えて頭を下げる。


「あの時は失礼なことを言って、すみませんでした」

「どういたしまして。誤解がとけたのなら喜ばしい限りです」


 わたしがやんわり受け止めると、美里さんはほっとして肩の力を抜いた。


「わかってはいるんです。クリスチャンが皆、天国のほうが素晴らしいからさっさとあの世に行こう、なんて考えてるわけじゃないってことは。ただ……やっぱり、怖くて。死にそうになった時、あっちのほうがいいところだって思ってたら、あっさり逝ってしまうんじゃないかと」


 そこまで言って彼女は顔をしかめ、いまいましげに続けた。


「今日もこちらに伺う前に病院に行ってきたんですけど、神様にお会いし損ねたわ、なんて言うもんだから、病室で怒鳴りそうになりましたよ」

「ああ……、あんまり気の利いた冗談ではないですねぇ」


 わたしは苦笑するしかない。クリスチャン同士ならまだしも、信者ではない、しかも娘にとっては、笑い事ではないだろう。美里さんはため息をついた。


「本当に、こっちの気も知らないで……」

「確かに喜美子さんは、ご存じないかもしれませんね。あなたがそんなにも怖がっているとは思わず、ただ少しでも気を軽くしようとして冗談をおっしゃったんでしょう」


 わたしは言って、まっすぐに美里さんを見つめた。今ならばわたしの言葉がちゃんと届くと、確信を抱いて続ける。


「喜美子さんは、自分があなたを苛立たせている、と感じてらっしゃいました。老いて衰えて、要領が悪くなったから。忙しいあなたの負担になっているのが心苦しそうでしたよ。きっと今も、入院したことで申し訳なく思ってらっしゃるでしょうね。あなたが心配しているとはっきり伝えていないのなら、本当に気付いていないかもしれません」

「それは……、まあ、実際イライラもありますから。昔は何でもてきぱき片付けていたし、父に怒られる前に先回りして気配りしていたのに、最近はどんどん鈍くなってきているので。何やってるんだと、つい苛立ってしまうんです」


 美里さんは、ばつが悪そうに言った。心配している、死なないで欲しい、という正直な気持ちを伝えていない――そのことから話をそらせようとしたのだろうけれど、彼女はふと瞬きして口をつぐんた。自分が一周回って元の場所に戻ってきたと、気付いたようだった。


 黙って窓外を眺め、目をしばたたく。それから彼女は、内省的な表情で静かに言った。


「……本音を言うと、わたし、ずっと母みたいにはなりたくないと思って育ったんです。毎日、夫や舅姑に言われるがままあれもこれもと働いて、それでも感謝なんかされず、むしろ怒鳴られて。だから自分が家を継いで主婦になった時、……母を元の立場にとどめておきたかったんだと思います。一番しんどいところを担っている人に。お母さんというのは、そういうものだと思い込んでいたから」

「でも、だんだんその“お母さん”は、否応なく“おばあさん”になっていく」


 わたしが話の流れに沿うように棹を差すと、彼女はうなずいて認めた。


「だからわたしは、いまさら怖いんでしょうね。とっくに二人の娘の母親なのに、まだ覚悟ができていないんですよ」


 最後には自嘲気味になったけれど、ようやく美里さんは自分の弱さの根幹を理解したようだ。それを包まず話してくれたおかげで、より良いほうへ導ける――それ自体は嬉しいんだけど。

 それにしても神よ、ここまで荒療治にしないと駄目だったんですか? いえ、異議申し立てというわけではないのですが。ただの感想です、お気になさらず。


 なんにしても、わたしは自分の仕事をするだけだ。神父らしく微笑み、彼女の恐れを肯定してあげるところから。


「親子というのはいくつになっても、そういうものですよ。子が親を介護する立場になってさえ、精神的には、親には親でいてほしいと願ってしまう。……今日こうして一度きちんと言葉にされたのですから、これから少しずつでも、喜美子さん本人に、あなたのその気持ちを伝えていけると良いですね」

「はい。……本当にいろいろ、ありがとうございました」


 深く頭を下げて、美里さんは晴れ晴れとした顔で腰を上げた。わたしも席を立ち、改めて一礼する。


「こちらこそ、ありがとうございました」

「いいえ、わたしは何も」


 定型の挨拶にしては気持ちがこもりすぎだと気付いたようで、美里さんは困惑して曖昧に応じた。わたしは意味ありげな笑みを返すだけで説明はしない。おかげで天使としてまたひとつ学ぶことができました、なんて言ったらどんな反応をされるやらだ。

 浩平さんや吉田さん、皆さんにもどうぞ宜しくお伝えください、とお願いを付け足すと、普通の挨拶として納得してくれたようだった。

 部屋を出ながら、美里さんはいつもの態度に戻ってせかせかと言った。


「娘たちも、本当にお世話をかけました。神父さんのおかげで、陽美も少し落ち着いたみたいです。前よりも、進路のことや学校のことをぽつぽつと相談してくれるようになりました」

「それは何より。では、次は美里さんの番ですね」

「……まあ、努力はしてみます」


 美里さんは苦笑いし、また怒っちゃいそうですけど、とつぶやいて背を向けた。その後ろ姿は、まだ消えない恐れを抱いてはいても、不安にまっすぐ向かい合う強さを感じさせた。

 うん、きっともう大丈夫だろう。あの日の様子からして、浩平さんが支えてくれるのは間違いないし。美里さんが不安と戦うなら、彼も力を貸してくれるはずだ。


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