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どうか地上で、もう少し

 教会に戻ると、礼拝堂のポーチで黒犬が待っていた。ここに入るなら俺を倒して行け、と言わんばかりに、ど真ん中で。


「喜美子さんのために一緒に祈ってくれる、というつもりじゃなさそうだな」

『まぁ落ち着けよ。おまえさん、ちょっと人界に毒されすぎじゃないか?』


 棘々しい嫌味にも悪魔は動じず、のんきな声を返す。わたしは無視して通り過ぎようとしたが、途端に足に噛みつかれそうになって飛びのいた。


「ダミアン! おまえの相手をしている時間はない!」

『あのなぁ……信心深い魂をひとつ天国に迎えられるのに、天使がそれを嫌がってどうするんだよ。ばーちゃんが生きるか死ぬかは神の御心次第。臨終の秘蹟を授けてやれなくても、天使がいれば問題なく天国まで直行ご案内だ。悪魔に横からかっさらわれる心配もない。天使業務としちゃ文句のつけどころがないだろうに、おまえさんは何を血迷って神に待ったをかけるんだ?』


 呆れた口調で現状を分析し、ありのままを突きつけてくる。まさに悪魔の所業だ。その思念が次第に重みを増し、暗がりの中でこちらを見つめる両眼の奥に、地獄の炎が揺らめく。


『本当に、こっちに来るのか? もちろん俺は大歓迎するが』


 次の瞬間、わたしは思いきり黒犬の頭を殴りつけていた。ギャゥン、と鳴いて犬が一瞬その形を失い、黒い霧になる。


「時間がないと言っているだろう!!」

『いってえぇぇー! 動物虐待だぞ、この暴力天使! 口で勝てないから殴るとか小学生かおまえは! 最低! アーリャ君なんか嫌い!』


 わざとらしい悲鳴を上げながら、前足で頭を押さえて床に転がる犬一匹。天使パンチの威力を思い知ったか。先生だって手が痛いんですよ!

 ……いかん思考が毒される。わたしは頭を振り、悪魔をまたぎ越えて礼拝堂の扉を開けた。


『待てって。なぁ、おい。神罰くらってもいいのかよ』


 立ち直った犬が背後からクーンと鼻声で鳴く。おのれ卑怯な。ちらりと振り向くと、いかにも心細げな飼い犬の風情で、黒いつぶらな瞳がこちらを見上げていた。苦笑するしかないじゃないか、まったく。


「そんな心配はしていないさ。けれど、もしわたしが気付かず傲慢の罪に染まっているのだとしたら、素直に罰せられるだけだ。それもまた神の愛だから」


 笑って応じたわたしに、ダミアンはミカンの皮を嗅がされた犬の顔をした。


『うーわ、やめて。そういうの無理。やっぱおまえら天使の感覚にはドン引きだわ』

「その言葉、そっくりそのまま返してやるよ。とにかく邪魔しないでくれ。喜美子さんの生死に興味がないのなら、こんな所で忠犬ぶってないで、さっさと寝床で丸くなってろよ」


 言うだけ言って、あとは構わず祭壇に向かう。

 蝋燭に火をともし、ひざまずいて手を組み、頭を垂れた。わたしに許された奇蹟の力をすべて、祈りに込める。


 ――神よ。

 どうか今しばらく、喜美子さんに地上の生をお与えください。


 陽美さんや希美さんは、喜美子さんと一緒に過ごした記憶が、ほんの十年ほどしかないのです。せめてもう少し、彼女たちに思い出を重ねさせてあげてください。


 美里さんの抱えていた恐れも、母を死なせたくないという切なる願いも、きっとまだ喜美子さんには伝わっていません。

 陽美さんが美里さんを理解し歩み寄るのにも、喜美子さんの助けが必要でしょう。

 親子の間には誤解が横たわったままです。どうか彼女たちに、心を開いて語り合う時間をお与えください。


 今まさに命を救おうと努力している医師たちの手に、お力を。

 死に抗い生きようと戦う命の火を、お守りください。


 ……祈るうち、様々な思いが浮かび上がっては消えていった。


 天国で永遠のいのちを得る喜びは、限りなく貴い。それは揺るぎなく確かなことだ。けれど、だから死んでも良い、という理屈は通らない。地上の生の価値はまったく別のもの。比べられるものではないから。


 何よりも……そうです、わたし自身が、喜美子さんとこの地上でまた言葉を交わしたいと願っているのです。天上の安らぎと喜びのうちではなく、悩み苦しみの多いこの地上でこそ生まれる、人と人との複雑でうつくしいつながりを織るために。


 ――神よ。どうかお聞き届けください……


 祈りに没頭していたせいで、着信音に気付くまで時間がかかった。

 はっと我に返って顔を上げると、祭壇の蝋燭はとうに燃え尽きていた。


 急いで立ち上がろうとして、足が痺れてよろける。すぐに治そうとしたけれど、天使パワーが底をついているせいで効果がなかった。あいたた。

 ひょこひょこと不格好にバランスを取りながら、会衆席に置いたスマホのところへ急ぐ。浩平さんからだ。通話に出るより先に、暖かく幸せな安堵が胸を満たした。ああ神よ、ありがとうございます。


「はい、坂上です」


 声に喜びが出たんだろう。一瞬、困惑したような沈黙が落ちる。それから浩平さんが告げた。


「本当にまだ起きてらっしゃったんですね。手術が終わりまして、今、説明を受けたところです。無事に成功しました」

「ええ、良かった。本当に良かった」

「まだ意識は戻っていませんが、容態は安定していて心配ないという話です。……ありがとうございます」

「微力ながらわたしの祈りもお役に立ちましたかね。何よりでした」

「きっと、そうだと思います。これから僕らもいったん帰宅して、明日……もう今日ですね、改めて入院に必要なあれこれのために病院に戻ります。神父さんには、面会できるようになったらすぐ連絡を差し上げますので」

「はい。よろしくお願いします」


 スマホを持ったままお辞儀ひとつ。通話を切って天を仰ぎ、しみじみと息をついた。目を瞑り、感謝の祈りをつぶやく。


「恵みの与え主である神よ、わたしたちに命を与え、今日またひとりの信徒をお守りくださったことを、心から感謝いたします……」


 喜びが静かに打ち寄せ、天の祝福が降ってくる。ああ、なんて幸せだろう。

 ……あれっ。使った天使パワーが戻ってきた?

 ちょっと待て。いや、えっ、なんで。もしかして。


 そんな必要なかったのに(苦笑)


 ってことですか神様!? うわぁぁ!

 顔から火が出る勢いで恥ずかしくなり、しゃがみ込んでしまった。

 待ってくださいちょっと待って。もしかして全部、見越した上でのおはからい……あっ、あっあっ、無理だこれ恥ずか死ぬ。

 会衆席にしがみついたまま立ち直れない。うう……そうか、そういうことか。


 わたしがうかつにも、美里さんが心を開いてくれるきっかけがあれば、と願ったから。それが杉田家の皆にも結果として良い影響をもたらすと、見通されたから。

 そしてまた、わたしが天使でありながら地上の生の終わりを喜べないのなら、その理由をきちんと自覚し学ぶために。


 ――ああ。まったくわたしは、なんという未熟者だろうか。こんなにも、神に気にかけていただいて。


「お恥ずかしい……」


 声に出して嘆かざるを得ない。と同時にやはり、神の愛の大きさにあらためて感謝と畏敬の念を抱く。

 よろけながら立ち上がり、わたしは顔をこすって苦笑いした。やれやれ。こんなわたしでも主の御為に働けるのだから、これ以上ない幸いというものじゃないか。

 うん。無給だけど!


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