主よ、みもとに(7月4日 木曜日)
えーっと。工具類はまた使う機会もあるだろうから、持ち帰り。チューブ漆喰は固まってしまいそうだけど、どうするかな。
『なんだよ、もう撤収準備してんのか? もうちょっと杉田家の様子を見てたほうがいいんじゃねーの』
「そうだな、あと二、三日というところだと思うが……あ、しまった」
戸棚の中を確認して、オリーブオイルの小瓶を発見する。手に取って矯めつ眇めつし、首を傾げた。カプレーゼの呪いがかかっていたにしても、なぜこれだけ買ってしまったんだろう。
まぁ、食用以外にも使い道があるから、無駄にはならないだろうけれど。とりあえず持って帰るものに分類しておこう。
ほかに持ってきた物は衣類と文房具が少々。いつでも手早く鞄に詰め込める程度の量だ。
……やっぱりちょっと寂しいな。わたしがもう護り導かなくても大丈夫だと離れられるのは、本来、喜ばしいことだけれど。
窓から差し込む夕陽が、古びた室内を茜色に染め上げているのも、わびしさを誘う。あ、駄目だ、切なくなってきた。
これから先、この部屋にまた別の司祭が住むことがあるだろうか。礼拝堂でミサが執り行われる日は来るだろうか。
喜美子さんが、あるいは福貴の誰かが、家族と連れだって祈りに訪れることは……?
『ボロ屋で黄昏にしょぼくれる中年ひとり。なんとも終末感漂う風情だねぇ』
「うるさい」
感傷を一刀両断して傷口に辛子を塗り込みやがって。これだから悪魔は。
わたしはため息をついて窓の外を見やった。ちょうど栗の木が見える。あの下にガーデンベンチやテーブルを置いて、喜美子さんたちとランチパーティーとか、してみたかったなぁ。
『ため息ついてるぐらいなら、おつとめを外れて何でも好きなことをすればいいじゃないか。美味いもん食って、酒飲んで、人間たちと下世話で薄っぺらなおしゃべりをして』
「おまえと一緒にするんじゃない」
言い返したものの、苦笑いになる。ああ本当に、時々そうした地上の生活がひどく愛しくてうらやましくて、離れがたく感じるよ。人間の暮らしが基本的には灰色の労苦で埋まっているとしても、だからこそ。
わたしは黙って犬の頭を撫でると、片付けの続きに戻った。
さほど面倒な作業でもなかったけれど、これでいいか、と手を止めた時には外は真っ暗だった。夏至が過ぎて少しずつ日が短くなってきたのを実感する。
わたしは何気なく掛け時計に目をやり、ふと、妙な胸騒ぎをおぼえた。
――不穏な予感。何か悪いことが起きそうな。
眉をひそめると同時に、遠くサイレンが聞こえた。救急車だ。坂道の下から近づき、教会への横道を通過して、猛スピードで山手のほうへ上がっていく。福貴の集落へと。
『珍しいな、ここに来て初めてだ。誰か熱中症にでもなったかね』
「喜美子さんに何かあったのかもしれない」
『警告があったのか?』
「いや……それが、妙な感じなんだ」
守護の対象である人間に危険が迫っていたら、はっきりわかるはずだ。少なくとも、過去のケースではそうだった。事故、急病、災難が近付いていたら警告が降る。でも今は、なぜか漠然とした感覚しかない。
まさか、もう守護の役目を解かれたのか? それとも、喜美子さん自身ではなくまわりの誰かが怪我をしたとか……くそ、推測していても埒があかないな。
わたしはそわそわと室内をうろつき、机上のスマホを何度も見た。浩平さんに安否確認をすべきだろうか。心配性と笑われるだけなら構わない。ただ、もし取り込み中なら邪魔してしまうだけだ。わたしは唇を噛んだ。
「現実には他人でしかないんだよな……」
隣近所というには少々遠い教会に住む、つい最近知り合ったばかりの他人。司祭で、魂の導き手で、友人でもあるつもりだけれど、それはあくまでこっちの“つもり”だ。
いっそ今から犬の散歩を口実にして杉田家まで行こうか、と考えた時、ふたたびサイレンが鳴った。今度は逆向きに、山手から駅方面へと下っていく。
『誰が倒れたんだか知らないが、とりあえず病院に搬送されたんなら、おまえさんの出る幕はないだろ。あとは現代医学に任せて、せいぜい無事を祈っとけよ』
「……ああ」
気の抜けたような返事しかできなかった。ふらつきながら礼拝堂に向かいかけ、そうだ、念のためスマホを持って行かないと、と思い直した直後、着信が入った。
《トゥルルル……》
自分では設定していない、一般家庭の電話機によくある呼び出し音。LEDランプが虹色に点滅する。天界を経由した地上の通信だ。
引っ掴むようにして取り、画面の発信者表示を確認もせずに出る。
「はい、坂上」
「つながったー!」
名乗りに被せて涙声が叫んだ。陽美さんだ。
「良かった、古いホームページだったから、もう使えないかと。神父さん、おばあちゃんが」
「さっきの救急車ですか」
「はい。昼間にハウスの支柱で頭ぶつけて、晩ごはんの用意してる途中で手に力が入らないって言って。やばいんじゃないって言ってる間にもう……」
ああ。高齢者によくある事故だ。ぶつけた直後は大丈夫でも、内部で次第に出血が進んで脳に障害をきたすケース。
「病院はどちらに」
「田端恵慈総合病院です。ここらで脳外科のある大きい病院ってあそこだけですから。場所わかりますか」
涙声で、それでもきびきびと冷静に必要な情報を伝えようとしていた陽美さんが、不意に大きくしゃくり上げた。
「おばあちゃん、司祭様を呼んでって言ったんです。救急車が来るの待ってる間に、どんどんおかしくなって、ろれつ回んなくなっちゃって、でも確かに司祭様って言ったのに、お母さんがそんな場合かって怒鳴りつけて……っ! そんな場合かって、どっちがよ! なんでこんな時にまで怒鳴るの、信じられない。神父さん、お願い、病院に行ってあげて。おばあちゃん、ぜったい待ってるから」
「もちろん、すぐに行きます。陽美さんは希美さんと留守番を?」
「わ、わかんない、です。救急車にはお母さんが乗ってって……お父さんも今、出る準備してるんですけど。あたしたち、連れてってくれるかどうか」
「……そうですか。大丈夫、すぐに救急車を呼んだのならきっと助かりますよ。気持ちを強く持ってくださいね」
励ましの言葉を添えて通話を切り、取るものも取りあえず司祭館を飛び出す。車のドアを開けて、乗り込みながらキーを差し込んだところで、
『おい! これだけでも持ってったほうがいいんじゃないのか』
犬が走ってきて、くわえたものをわたしの膝に落とした。オリーブオイルの小瓶だ。
すぐにはその意味がわからなくて、呆然とする。そして、理解した途端に叫びだしそうになって、歯を食いしばった。臨終の秘蹟に必要な聖油として使え、というのだ。
ああまさか、神よ、そのためだったのですか?
わたしは無言で小瓶をダッシュボードに投げ込み、犬の鼻先でドアを閉めた。
乱暴にハンドルを切り急発進、一時停止も無視して本道に飛び出すと、駅方面に向けて加速する。病院は駅を通り越してまだずっと先だ。暗く見通しのきかない夜道を、脇目も振らず急いだ。そうとも、天使は絶対に交通事故に遭わないのだから。
間に合ってくれ。間に合ってくれ、どうかせめて手術に入る前に一言励ますだけでも!
神よ。どうか、そもそも最初からわたしの役目がこれだったのだとは、仰せられないでください。喜美子さんの魂を天国に“導く”ためだったとは。
――これはいよいよ、お迎えが近いかしら、って……
冗談めかして言った喜美子さんの笑顔が、脳裏によみがえる。小さな声で歌われた『主よ、みもとに』の旋律も。
あれらが全部、天からの示唆だったのなら。わたしがしるしを見落としていたということなら。
ならば、どうすれば良かったんだろう。
後悔の火に翼を焼かれる思いでアクセルを踏み込む。
病院に着くと、オイルの小瓶は車内に残して走り出た。もし必要になるのなら、わたし自身が手に取ったはずだから。悪魔が届けにきたということは、少なくとも今は使わない。そのはずだ。そうであってくれ。
時間外受付の前を通り過ぎ、天使の知覚に導かれて廊下を進む。誰にも咎められないのは天使の幸運か、司祭服の効果だろうか。
たどり着いた廊下の最奥に、喜美子さんの気配を見付けた。手術室の中だ。もう緊急手術が始まっているということは、一刻を争う状態だったんだろう。
間に合わなかった。意識朦朧としながらもわたしを呼んでくれたのに、司祭を必要としていたのに。あとはただ、祈るしかないのか。
廊下のベンチに座っていた美里さんが、ふと顔を上げてこちらを見た。途端、その顔が歪む。憎悪と悲痛に歪んだ顔のまま、彼女は拳を握りしめてつかつかとわたしに近づき、震え声で言った。
「帰ってください」
今にも爆発しそうな感情をぎりぎりで抑えた声。こわばった腕は、振り上げて殴りつける力を内に溜めている。わたしが何も言えずにいる間に、美里さんは拳でわたしを突き飛ばした。
「帰って! すぐに!」
悲痛な叫びと共に、心を読むまでもなく、荒れ狂う激情が雪崩れ落ちてきた。彼女の意識を占めるものが。
最初に強烈な衝撃でわたしを打ちのめした記憶は、大破したスクーターだった。それを見た時の美里さんの恐怖、二度とひかり台への道を通らないでくれという願い。そして、教会に対する忌避感と不信感が瞬く間に膨れ上がっていく。
「あなたの神様は人を死なせる。近付かないで。母を連れて行かないで!」
それは違う。
否定すべきなのに、言葉が出なかった。彼女がずっと抱えてきた不安と苛立ちと恐怖の大きさに圧倒されて。
なんてことだ。喜美子さんがあっさり「一度転んで」と言ったのは、それほどの事故だったのか。軽傷で済んだからこそ、あんな風に言えたのだろうけれど、一歩間違えたら死んでいた。美里さんはそれがトラウマになって、ずっと恐怖に縛られてきたんだ。
心の波が打ち寄せる。
あんな事故に遭っていながら、主のみもとにゆくなどと言って死を賛美する神経が、わからない。死んでも良かったというのか。冗談じゃない、やめてくれ……
だから怒鳴ったんだ。そんな場合か、と。呼ぶべきは医者であって、死を賛美する連中の一人などではない。諦めるな、生きろ――と。
ああ、違う。そうじゃない。
あなたのそれは誤解だ。
そう伝えなければいけないのに、声が出ない。
石になったように立ち尽くしていると、背後から誰かが急ぎ足にやってきた。
「神父さん? どうしてここに」
振り返ると、緊張した顔に驚きを浮かべた浩平さんがいた。美里さんがわたしを押しのけ、夫のそばに行く。浩平さんがその肩を抱き寄せ、さすって力づけた。
「スギちゃん。しっかり、大丈夫だよ。きっと助かる。お医者さんはなんて?」
「出血した、場所が……あんまり良くないみたい。頭蓋骨に穴を開けて、……なんだっけ、血腫を取るとかって」
切れ切れに押し出す言葉も、じき嗚咽に飲まれてしまう。
わたしが何もできず、ただ突っ立っている間に、浩平さんは美里さんを促してベンチに座らせた。そうして小さな声でささやき、励まし続ける。
しばらくして美里さんの嗚咽がすこしおさまり、ハンカチで押さえた口から問いがこぼれた。
「子供たちは?」
「戸締りをして、ちゃんとごはん食べて休むように言っておいた。陽美がしっかりしてるから、大丈夫。スギちゃんも、落ち着いたら談話室のほうで、おにぎりだけでも食べたほうがいい。途中のコンビニで買ってきた。徹夜になるかもしれないし」
そこまで言って、彼はわたしを見上げて思い当った顔をした。
「陽美がお知らせしたんですね。わざわざ来ていただいて、ありがとうございます。でも手術が何時間かかるか、わかりませんから。いったん、お帰りになったほうがいいと思います」
「……そうですね。手術が終わったら、夜中でもかまいませんから連絡してください。喜美子さんのために祈っておりますから」
わたし力なく答えた。赤い目で睨んでくる美里さんの前に膝をつき、どうか心に届いてくれと願いながら言葉を紡ぐ。
「美里さん。わたしたちは決して、地上の生をないがしろになどいたしません。教会に帰って祈ります。喜美子さんが回復され、ご家族とまた楽しく言葉を交わし喜びを分かち合えるように」
「……」
「信じましょう。病院の方々が最善の結果を出してくれることを。喜美子さんが、あなたのそばに戻って来てくれることを」
返事はなかった。美里さんは顔を歪めてハンカチに埋める。わたしは立ち上がって一礼すると、車のところへ戻った。
時間外駐車料金の支払いは現金だけだ。車内のコインケースに小銭を常備しておいて良かった。もちろん天使パワーを使えばゲートの機械をごまかすぐらいできるけれど、不正がどうの以前に、今はわずかな力も無駄にしたくない。
祈らなければ。残った力の全部を注ぎ込んで、奇蹟を起こさなくてはならない。
神よ、どうかまだもう少し、喜美子さんを天国に迎えるのは待ってください……!




