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雨夜の侵入者

 門を出てから背後を振り返る。天使の知覚の中で、喜美子さんともう一人、陽美さんの存在が来た時よりも明瞭に感じられるようになっていた。

 ああ、なるほど。そういうことだったのか。わたしは納得し、傘を傾けて空を仰ぐ。ぱらぱらと降る雨の雫が、街灯や門灯の光を受けて宝石のように光った。きれいだな。遙かな天の国の光を、夜の地上に運んできたように見える。


「導く相手は、喜美子さんだけじゃなかったみたいだな」

『ちぇっ、上手いことやりやがったな天使サマ。あー、犬は便利だけどやっぱ口八丁が使えないぶん、損だなぁ。つーか心理学と医学の話で、なんで神様に興味が増すんだよ。理系長女の趣味はわからん』


 尻尾を垂らしてとぼとぼ歩きながら、ぶつくさぼやく悪魔が一匹。ふふふ、今のわたしは負け犬に優しいぞ。


「あえて聖書の話を避けたのが、逆に良かったんじゃないか? あと、神父で科学者というのがいる、と教えたのも。神や信仰に関心がありつつも、そういうものは非科学的だ、と一線を引いていたのが、両立可能だと知らされたのなら、親近感が増すだろう」

『そうは言っても最近の科学者の信仰心には、俺ら伝統的な存在の出番はないんだぞ。天使も悪魔もいない。神さえも、時間やエネルギーの問題にされちまう。あーやだやだ。もっと素朴に悪魔と地獄を信じてくれる人間たちのところに行きたーい』

「そういうところは我々天使の力も強いぞ。聖人たちも大活躍だ」

『前言撤回。俺は日本でダラダラしてる。だからおまえさんも仕事は手抜きして、出世しないで、仲良くスローライフしようぜ。夏は風通しのいい縁側でスイカ食って昼寝、冬はこたつで餅食ってゴロゴロ。給料も出ないのに、あくせく働くこたぁない』

「怠惰とスローライフの違いは横に置くとして、天使は給料だとか関係なく神に仕えるものだし、そもそもわたしはおまえと仲良しじゃない」

『つれないなー、長い付き合いじゃないか』


 減らず口を叩きながら前を歩いていた犬が、不意にぴたりと足を止めた。鼻を上げ、くんくんと風の匂いを嗅ぐ。視線の先に、教会へ向かう横道があった。


『お客さんが来たみたいだな』

「昨日と同じ人間か?」

『おう、小汚い野郎だよ。どうせなら美人のお姉ちゃんが一夜の宿を借りに来たんなら、面白かったのにな。司祭に迫る甘い誘惑の罠!』

「悪魔に言ってもしょうがないが、その下世話な発想は本当に、なんとかならないのか?」


 げんなりうめいて首を振り、深いため息をひとつ。わたしは屈んで、犬の首輪からリードを外した。もし荒っぽいことになったら、傘とリードで手が塞がっているのは困る。


『おっ、番犬に活躍をご期待ですかね? いいとも、中年オジサンには無理させられないからな! 急に激しい運動して肉離れでも起こされちゃ大変だ』

「おまえこそ、勢い余って礼拝堂に飛び込むなよ。……しまった、余計な事を言わなければ上手くいったかもしれないのに」

『ひでえ!? もし本当にヤバい奴でも援護しねーぞ!』

「悪魔に援護されるぐらいなら、天に還るほうを選ぶさ」


 馬鹿馬鹿しい。思わず失笑が漏れた。お互い、人間相手に苦戦することなどないと承知しているのに、このやり取り。認めたくはないが、長年の付き合いで確立したお約束の様式だ。上司に知られたら強制的に天界へ召還されて謹慎処分だろうな、やれやれ。


「冗談はともかく、本当にただ雨宿りに来た気の毒な人間かもしれないんだから、いきなり噛みついたりしないでくれよ」

『へいへい。可愛いダミアン君の評判を落とすような真似はしませんよ』


 ひそひそ話しながら、教会の門に着く。いつものように門扉は開け放しだ。門灯に照らされた地面に目を凝らすと、わたしのものではない靴跡が、ぬかるみに残っていた。その場でうろうろ逡巡した後、司祭館ではなく教会のほうへまっすぐ向かっている。

 正面扉の前に着くと、黒犬はポーチの石床に残る泥靴の跡に鼻を近づけて嗅ぎ、くしゃみをした。


『礼拝堂に入っちまったかー。残念。なんなら放り出してくれたら、くわえてポイしてやってもいいぜ』

「おまえは大人しくここで待ってろ。ステイ。吠えて脅かすのもなしだ、いいな」


 指を突き付けて命令してやる。黒犬はつまらなさそうな顔をして、わざと激しく身体を揺すって水滴を飛ばした。くそ、後で洗濯機を回す時、一緒に突っ込んでやる。


 気を取り直し、ひとつ深呼吸してから、そっと扉を押し開ける。

 中は暗かったけれど、明らかに誰かが身じろぎした気配が感じられた。


「どなたか雨宿りしていらっしゃいますね? 電気を点けますよ」


 穏便な口調で一声かけて、スイッチを入れる。堂内が明るくなると同時に、人影が慌てて会衆席の間に身を沈めた。ふむ。どうやら、いきなり襲いかかってくるような凶悪犯罪者ではないようだ。

 追い出されることを恐れるホームレスか、あるいは空き巣に入って逃げ損ねた盗人か。


「お困りなのでしたら、どうぞ遠慮なくおっしゃってください。雨の夜中に追い出したりはいたしませんから」


 話しかけながら、ゆっくり通路を進んで近付く。

 いた。座席の下に身体を押し込んで、できるだけ小さくなろうと丸めた背中が震えている。わたしは足を止め、相手が身を起こすのを待ってみた。……だめだな、これは。


「どこか痛むのですか」


 びくっ、と背中がわななき、びしょ濡れの頭が揺れる。ようやく男性は顔を上げ、恐る恐る、本当にゆっくりと、こちらを振り向いた。


 顔を見た瞬間、思わず驚きの声を上げそうになり、すんでのところでこらえる。

 吉田さんだ。

 いや、トラックで教会に来たあの吉田さん本人じゃなくて、若い吉田さん。びっくりするほどそっくりで、身元を疑う気も起きない。十年以上音信不通という、息子さんに違いない。

 青ざめ、血色の悪い唇を震わせて、彼は湿った声を絞り出した。


「い、犬は……」

「外に待たせていますから、大丈夫ですよ。さあ、そんな狭いところに縮こまっていないで、こちらに出てきてください。顔が真っ青じゃありませんか」


 わたしが促すと、吉田さん(暫定)は震えながら立ち上がったものの、よろけて座席に座り込んでしまった。わたしは急いで手を伸ばし、背中を支える。冷たい。いったい何時間、雨に打たれていたんだろう。

 気付かれないように、背中をさすりながらほんのわずか天使パワーを送り込んで身体を温める。


「少し待っていてください、お白湯を持ってきましょう」


 言い置いて、雨の中へ走り出る。司祭館へ駆け戻ってバスタブに湯を張り、白湯を沸かして、バスタオルを一枚掴んで礼拝堂にとんぼ返り。

 震えている肩にタオルをかけて熱い湯飲みを渡すと、彼は涙ぐみながら白湯をすすった。


「ああ……」


 吐息を漏らし、くしゃりと顔を歪める。堰を切ったように涙があふれて頬を濡らした。時々しゃくりあげながら、声を殺して泣き続ける。

 わたしも無言で肩に手を置いたまま、ただ寄り添っていた。


 やがて彼が落ち着いたのを見計らい、わたしはそっと呼びかけた。


「吉田大樹(たいき)さん。ですね?」

「――!」

「ああやっぱり。いえ、あんまりそっくりでいらっしゃるから」


 ぎょっとなった吉田さん(確定)に一言説明を添えると、彼はなんとも複雑な表情をして、自分の顔に手を当てた。


「……そんな、似てますか」

「ええ。一目でわかりましたよ。さあ、もう歩けますか? 司祭館のほうでお風呂に入って温まってください」

「あの、でも、俺」


 うろたえる大樹さんの足下から、ぐっしょり濡れた古いショルダーバッグを拾い上げる。着替えなど身の回りの物が入っているんだろうけど、中身は無事かな。


「荷物はこれだけですね。それじゃ、行きましょう」


 促すと、彼は仕方なくといった顔をしながらも立ち上がった。わたしの後からおどおどついて来て、ポーチに一歩出るなり、こちらが驚くほどビクッと竦んで後ずさる。


「犬は苦手ですか」

「は、はい……うわ、ちょっと、来るな」

『へー、ほー、ふーん。吉田のおっちゃんの放蕩息子か。いろいろやましいこと、やってそうだなぁ? 地獄はおまえさんみたいなチンケな奴でも歓迎するぞ、ぜひ来い、こっちに来い』


 黒いつぶらな瞳で瞬きもせずじーっと見つめ、ぺろりと舌なめずり。黒ラブがこんな邪悪に見えることもあるなんて、愛好家が知ったら泣くな……。


「ダミアン、やめろ」

『俺は何もしてませんよー?』


 とぼけて明後日のほうを向き、白々しく伏せの姿勢をとる。意味ありげな視線を元不審者に送るのは忘れない。まったく、この悪魔め。


 大樹さんはできるだけ遠く犬から離れ、じりじり蟹歩きする。子供の頃に噛まれた経験があるのかもしれない。わたしは怖がる大樹さんをなだめて、司祭館の浴室まで案内した。


「ゆっくり入ってください。その間に、ご両親に連絡して迎えにきてもらいますから」

「……っ、それは」

「ここまで来たのだから、もちろん帰る意志があったんでしょう?」


 怯んだ大樹さんに逃げを許さず、わたしは強い声で言った。


「ご両親があなたに厳しく当たるようなら、わたしが仲裁します。ですが、ばつが悪いとか怒られるのが怖いとかいう理由で、先延ばしにするのはいけません。お風呂で温まって一休みしたら、最後の一歩を進む時です」

「……はい」


 うつむいて唇を噛み、ごくごく小さな声で承諾する。もう三十歳は越えたいい大人のはずなのに、人生に迷って故郷に帰ってきたその姿は、幼い子供のようにも見えた。

 わたしは表情を和らげて言い添える。


「たぶん、心配しなくていいと思いますよ。吉田さんはあなたをずっと気にかけて、帰ってくるのを待っていますから。わたしがあなたの名前を知っているのも、吉田さんから聞いたからですしね」


 大樹さんはいくぶんほっとしたような、けれどそれはそれで気まずいような恥ずかしいような、ややこしい顔をした。

 わたしは笑って浴室のドアを閉めると、部屋に戻ってとりあえず浩平さんに電話をかけた。吉田さんの連絡先を教えてもらうために。


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