和解の一歩
説明するうちに陽美さんの表情がすっきりと晴れる。理解がつながった、というしるしだ。母親とケンカして怒って泣いて混乱していた感情が、理性の思考によって鎮められたのがわかる。
わたしが黙って微笑むと、陽美さんはうつむいて考えを整理しはじめた。しばらくして、長々とため息を吐き出し、抱えた膝にごつんと額をぶつけた。
「なんか、馬鹿らしくなっちゃった。なんでテスト前日にこんなことやってるんだろう。要するに、オカンが怒ったのに巻き込まれただけじゃん」
「冷静に考えたら、どうしたら良かったのか、ちゃんとわかりますね」
「はい。……ていうか疑問なんですけど、大人は前頭葉が成熟してるんなら、なんでキレるんですか」
「そこは様々な要因がありますから、なんとも。ただ、ストレスがかかると前頭葉のはたらきは弱まってしまうんですよ。あとね、実は四十代からもう、脳は少しずつ衰え始めているんだそうです」
わたしの言葉に、陽美さんは愕然とした。えっ、と低く驚きの声をもらしたきり、絶句してただわたしの顔を見つめる。
「もちろん、すぐに駄目になるわけじゃありませんけどね」
「……そうなんだ」
ぽつりと漏らしてまた少し思案。親に対する見方が少しは変わるといいけどな。
そこへ、下から痺れを切らせた黒犬の声が届いた。
『おーい、いつまでまじめなお話してるんだよー。お姉ちゃんも腹減ってるだろ? もういいじゃん、どうせ親子関係なんて上手くいきゃしねーんだから、適当にやりすごすのが人生の処世術だって。さっさと家を出て縁切りしちまやいいんだよー』
投げやりな暴言だというのに、耳に届くのはクーンクーンといかにも寂しそうな鼻声だけ。ああ、この言い草が人間には聞こえないのが口惜しい。陽美さんは笑みを広げて下を覗き込み、ついに気持ちを切り替えて立ち上がった。
「ぐずぐずして、すみませんでした。悩むのやめ! オカンの不機嫌なんか知らない!」
「そもそも何が原因だったんです?」
「いろいろです。なんか、いろいろ。最初はテスト勉強の話だったのに、途中からぐちゃぐちゃになって」
はあっ、とため息をついて頭を振る。それから彼女はやや申し訳なさそうな顔でわたしを見た。
「昨日、おばあちゃんに聞いてみたら、って言われた話も、結局まだなんです。正直、オカンの理屈なんて、昔の話とか聞いてもわかんないんじゃないかって思うし。今日だって、あたしに怒ってたはずなのに、そもそも教会なんか行ってる暇ないでしょ、とかおばあちゃんにまで八つ当たりしだすんだもん。ほんと、なんなのって感じ」
憤然と陽美さんが言った内容に、ちくりと胸を刺される。ああ、やっぱり美里さんは何かが気に入らないんだ。教会そのものか、喜美子さんが教会に行くという行為についてか、わからないけれど。
陽美さんがぴょんとトラックの荷台に飛び降り、こちらをふり仰いで、わたしの表情を誤解した。
「下りるのはちょっと危ないですよね。脚立、いりますか?」
「ああいえ、大丈夫です」
笑みをつくり、よいしょ、とオジサンなりに危なげなく下りる。倉庫から出ると、黒犬が尻尾を振って陽美さんにじゃれついた。
「ダミアン、お待たせ。……やっぱり犬って序列つけるんですね。希美が相手だとすごいはしゃぐのに、あたしの前だとわりと行儀がいい感じ」
『おっ、やっと序列の不満を自覚してくれたかい? しょーがないさ、先に生まれちまったもんの宿命だよ』
「陽美さんはランニングコーチですからね。犬も敬意を払っているんですよ」
『おい。せっかく人が煽ってんのに台無しにすんな』
どのみち聞こえていないんだから、台無しどころかそもそも形無しだろう。わたしはこっそり肩を竦めて、恨みがましい黒犬の視線をスルーした。
陽美さんはひとしきりダミアンを撫でてから、ふとわたしを見て言った。
「神父さんって、変わってますよね。普通こういう時って、聖書の話で言うこと聞かせるものじゃないんですか? 脳がどうとか、科学的ですよね」
「ふさわしい機会があれば、いくらでもお話ししますよ。でも今は、理系の陽美さんが、すっきり理解納得できることが大事だと思いましたから。それに神父で科学者という人も、昔から結構いるんですよ」
「えっ、マジで?」
「マジです」
だんだん素が出てきた陽美さんにあわせて、わたしもおどけた返事をする。陽美さんは一瞬変な顔をしてから、ぷっとふきだした。うん、やっぱり子供は笑っているのが一番いい。
静かに雨が降る中、パシャパシャと足音がいくつも近付いてくる。浩平さんと喜美子さんが帰ってきたのだ。
浩平さんがまだ心の落ち着かない様子で、まずはわたしに頭を下げた。
「こんな時間に雨の中、娘のために来てくださってありがとうございました」
「どういたしまして。お役に立てて何よりです」
わたしは笑顔で応じたけれど、浩平さんは難しそうな顔になって娘を見た。謝らせようかどうしようか、彼がためらっている間に先制する。
「陽美さんとはじっくり話をしましたから、これ以上、なにも必要ありません。叱らないでください」
「……ですが」
「わたしは自分から、皆さんの友人として、そうしたいと思ったからここへ出向きました。何ひとつ不愉快な思いもせず、迷惑も被っていません。それより、怒って泣いて傷ついた陽美さんにこそ、思いやりが必要ですよ」
わたしが言い終わるより早く、陽美さんが「もういいから」と小声でぶっきらぼうに遮る。家族の前でいたわられるのは恥ずかしいようだ。思春期は難しいなぁ。
話し声を聞きつけて母屋から美里さんも出てくる。こちらもまた複雑な、どんな感情を表していいのか決められずにいる無愛想さで、娘に相対した。
「ごはん食べる?」
「うん」
素っ気なくて短いやりとりだけれど、和解の第一歩だ。浩平さんと喜美子さんがほっとして笑みを交わした。ひとまず安心していいだろう。
わたしは置いてあった傘を取り、一家に辞去の挨拶をした。
「では、わたしはこれで失礼します。陽美さん、明日のテスト、頑張ってくださいね。主のご加護があるように、お祈りしておきますから」
わたしが冗談めかして励ますと、陽美さんは何とも渋い顔になって「はい」とだけ答えた。喜美子さんと浩平さんが笑って、美里さんも苦笑いする。
わたしは会釈をすると、犬を連れて足取りも軽く杉田家を後にした。




