屋根裏談話
離れの前を通り過ぎ、立派な松の木の横を回って、敷地の奥へ。シャッターの下りた倉庫だ。
傘を閉じて隅に立てかけ、ガラガラとシャッターを開ける。むっと生温い空気が流れ出た。すぐ際にあったスイッチをパチンと入れると、白々とした蛍光灯の明かりが軽トラックを照らし出した。いつも作業場に入っているのとは別の車だ。
天井は低く、梁はいかにも年代物の丸太で、軽トラックがぎりぎり入れるぐらいの広さだ。恐らく昔の倉庫を外側だけ改修してシャッターをつけたんだろう。
左右の壁には様々な農機具が置かれていて、運転席に乗り込む最低限の隙間しか空いていない。うっかり勢いよくドアを開けたらぶつかるし、光の届かない足元には何が転がっているやら。トラックの脇をすりぬけて奥まで行っても、突っ立っているしかないだろう。
ぱっと見ただけでは、ここに陽美さんが隠れている、とは思われない。
後ろから美里さんがわたしに傘を差しかけて言った。
「ああ神父さん、そんな狭い所に入ったら服が汚れますよ。荷台も見ましたけど、そこにはいません」
「ええ、下にはいないでしょうね」
わたしは言って、首を反らせた。低い天井は、ちょうどトラックの運転席のあたりで切れていて、上に空間があるのがわかる。屋根裏だ。
わたしは「失礼」と一言断って荷台によじ登り、そこから梁に手を伸ばした。察した美里さんが慌てて声を上げる。
「危ない! 上がるのなら脚立を取って来ないと」
「大丈夫、いけますよ」
最後まで聞くまでもなく、わたしは身体を引き上げた。肉体的にはオジサンとはいえ、天使パワーをちょっと加えたら、このぐらい軽い軽い。中学生の陽美さんにできて、天使にできないなんてそんなことは。
「あいてっ」
立ち上がった途端に頭をぶつけてしまった。端のほうは屋根の傾斜で天井が低いんだ。格好悪い……。
頭をさすると同時に、奥の暗がりで小さくふっと失笑がこぼれる。わたしは苦笑いを返した。
「脚立を使えばここにいるのがばれるから、荷台から上がったんですね。さすが陸上部、身のこなしが軽い」
「神父さんも」
「いやぁ、ちょっと無理をしました」
ささやき声で話しながら、壁際を探す。電灯のスイッチを見付けて手をかけ、ふと思いとどまる。泣いていたのなら、顔を見られたくないだろう。
「つけないほうが、いいですか」
「……はい」
小さな声が、うなずく動作の音と共に答えた。下の蛍光灯から反射して届く薄明かりで、最奥の壁際にうずくまっている少女の輪郭がぼんやりと見える。それで充分だ。
「陽美、いるんなら降りて来なさい! 神父さんにまで迷惑かけて、いつまでふてくされてるの!」
美里さんの叱声が飛んできた。わたしはひょいと下を覗き、わざと軽口めかして言った。
「叱らないって約束ですよ、美里さん」
そんな約束してません、とばかり美里さんはしかめっ面をする。わたしは人差し指を立てて見せた。いったんここは口を閉じ、引き下がってくれというしるしに。
「少しわたしに話をさせてくれませんか? あなたは浩平さんと喜美子さんに、見付かったと連絡してください。お二人とも心配しているでしょうから」
「……わかりました」
渋々承諾し、美里さんはもう一度娘に釘を刺そうとしてか、仰向いて口を開ける。そこではたと気付き、不可解げにわたしを見た。
「どうして居場所がわかったんです?」
「主のお導きで」
おどけて答えたわたしに、美里さんはなんとも胡散臭げな顔をしてから、首をかしげつつ母屋へ戻って行った。下で成り行きを見物していた黒犬が、その後ろ姿を見送って愉快そうに尻尾を揺らす。
『そりゃそーだ、敷地内に何があるか詳しく把握してるわけでもないよそ者が、迷いもせず一直線にここへ来たんじゃあな。もっともったいぶっても良かったんじゃないのかい、天使サマ』
わたしは背後を振り返り、陽美さんから向けられる複雑なまなざしを感じ取って、肩を竦めた。
「実のところ、犬の鼻の導きなんですがね」
手柄を犬に譲って種明かしすると、陽美さんの気配がふっと緩んだ。ごそごそとこちらに這い出してきて、下を覗き込み、犬に手を振って苦笑する。
「ですよね。いくら神様でも、そんなこと」
「いえいえ、やっぱり本当に主のお導きかもしれませんよ? 昼間、希実さんと話していたんです。ダミアンはとても賢いし、ひょっとしたら天の使いかもしれないって」
『ぅおいそれはやめろっつってんだろ!』
届かないものだから、下からワンと一声吠える。わたしは笑顔で「ほらね」と陽美さんに駄目押しした。いやぁ気分がいいな。
陽美さんは微笑んだものの、すぐに沈んだ表情に戻り、沈黙の殻に閉じこもった。大好きな犬をもう見ようとせず、膝を抱えてうずくまる。
わたしはしばらく、かたわらにただ座っていた。
陽美さんから漂う緊張感が、少しずつ弱まり、緩んでいく。頑なに何も言うまいと引き結ばれていた唇が、ほどけて震え声を紡いだ。
「やっぱり、だめじゃないですか。家出どころか……ちょっと隠れただけで、余計に怒られる」
「放蕩息子のたとえですね」
意図を確認する。陽美さんはうなずいた。わたしはその頭をぽんと撫でてあげた。
「お母さんも、そんなのは作り話だと切り捨てましたよ。神様は大歓迎してくれても、普通の人間の親は難しいんでしょうねぇ。わたしは親になったことがないので、あくまで外から見ていてわかる範囲でしか、お話しできませんが」
それどころか実のところ、人間ですらないのだけれど。
「わたしがどうしてここにいると思いますか? 神のお告げで、雨の夜中に犬を連れて出てきたわけではありませんよ。もちろん、あなたのお母さんから連絡があったからです。そっちに陽美が行ってませんか、とね」
「……すみません。迷惑かけて」
「迷惑なんかじゃありません」
「だってみんな言うじゃないですか。他人に迷惑かけるなって。さっきも」
母親の叱責を反芻しているんだろう。わたしは頑なな心に染み込むよう願いながら、ゆっくり繰り返した。
「迷惑ではありません。心配しただけですよ。お母さんも、あなたを心配したからこそ怒っているんです」
「そんなの言い訳じゃないですか。ずるい」
「そうですね。本当は、心配したからって怒らなくてもいい。でも神様じゃない普通の人間は、心配しているという自分の状態が、不安で怖くて不快で、だから怒ってしまう。心配事も不安もどんと来い、と引き受けられる強い人間は、そうそういないんです。親ならできるはずだ、と求めてもね」
「……だから我慢しろってこと? 親だって弱い人間なんだから、我慢して思いやって優しくしてやれって言うんですか。隠れたのがあたしじゃなくて希実だったら、絶対、全然違う態度だったはずです」
語気を荒らげ、うつむいたまま早口に吐き捨てる。あっちは我慢も思いやりもしないのに、と口の中で罵って。
「子供にそんな要求をするなんて、まさか。ただね、理解できれば自分を守る助けになりますから」
「自分を、守る……?」
話の行き先が意外だったらしい。陽美さんは顔を上げて不審げな目をくれた。わたしは彼女に何かを強いないよう、あえて目を合わせないまま続ける。
「そうです。お母さんが不機嫌なのは、お母さんの心の問題で、それをあなたが全部受け止める必要なんかない、と割り切ることです。もちろんあなたが家事を手伝ったりして、余裕をつくってあげることはできるでしょう。でも、根本的にはお母さん自身が解決すべきことであって、あなたの問題ではない。そう理解できていれば、あなたは自分を守ることができる」
陽美さんはしばしぽかんとなり、ぱちぱちと瞬きしてから視線を落とした。
「あたしの問題じゃないって言ったって、怒られるのはあたしじゃないですか」
「一緒に暮らしている以上、誰かの感情の影響は避けられません。でも、他人と切り分けられることを頭の隅に置いておけば、自分まで同じ感情に巻き込まれて、全部を自分の問題にして、いっぱいいっぱいになってしまうことは防げる。その上で、解決すべき課題については……良さそうなタイミングを計って、あるいは間に他の人、たとえばお父さんに入ってもらって、話し合えば、前向きに進むのじゃないですかね」
「そんな風に……できたら、すごいですけど」
「そうですね。大人でも難しいのに、まだ中学生のあなたにはなおさら」
白々しく子供扱いすると、陽美さんはむっとした顔をした。わたしはちょっと笑って頭を下げる。
「失礼、今のはわざとです。陽美さん、前頭葉、ってご存じですか」
「えっ? えっと……脳の、場所ですよね。前のほう」
きょとんとしながらも、陽美さんは自分の頭を手で押さえる。話がどんどん予想外のほうに展開していくものだから、いつの間にやら腹を立てていたことも忘れているようだ。よしよし。
「そうです。理系に興味がおありで前頭葉をご存じなら、聞いたことがありませんか? そこがきちんと成熟するのは、やっと25歳ぐらいになってからだという話を」
「あ……なんか、前に授業でネットリテラシーをやった時に、記事を見ました。SNSにバカとかブスとか書き込んじゃうの、若いせいで衝動を抑えられないんなら、考え直すようにコメント出す機能つけたらどうかって実験したっていう」
「そうです。その機能ははっきりと効果がありましたよね。つまり、あなたが上手く感情をコントロールできなくても、ある程度それは仕方がない。でも、ちょっと待った、と止める何かがあれば大分ましにはなるんです。問題を分けて考える習慣が、そのきっかけになればいいと思って、お話ししました」




