娘がいないんです
雑巾がけに精を出すこと数時間。気付けばすっかり日が落ちていた。雨がまだ降り続いているので、外はもう真っ暗だ。
「熱中してしまったな……」
つぶやいて、黒く汚れた雑巾をバケツですすぐ。すべての会衆席がぴかぴかになって、気分がいい。劇的に美しくはならなくても、きちんと片付けて清潔を保つことは大切だ。
バケツの水を捨てようと外に出たところで、司祭館から黒い影が走ってきた。
『おーい、呼んでっぞ神父サマ。電話だ』
「電話?」
聞き返し、スマホを部屋に忘れてきたと気付く。慌ててバケツをそこらに置き、傘を開いて走り出した。
「レトリバーらしく持ってきてくれたらいいのに」
『贅沢言うな、呼びに来ただけ感謝しやがれ。天界支給品なんかくわえたら舌がピリピリするだろうが』
「火傷するほどじゃないんだろう、いい子で仕事してくれたらドッグビスケットぐらい買ってやるぞ」
『わーい嬉しいなー。って言うと思ったか馬鹿! 働かせたきゃ、安全対策や労働条件を整えてからオファーしろってんだ』
たわいない応酬をしながら部屋に戻ると、着信音はもう切れていた。履歴を開くと、浩平さんからだった。こんな時間に作業の応援要請なはずはないし、何かあったんだろうか。
急いで発信すると、コール音一回で相手が出た。浩平さんではなく、美里さんが。
「神父さん? 夜分すみません、陽美がそちらにお邪魔していませんか」
「えっ」
とっさに返事ができず、詰まってしまう。室内の掛け時計を確認すると、既に七時すぎ。杉田家では夕食の時間だ。
「陽美さんが、いないんですか」
「ええ。夕方に、ふてくされて出て行ったきりで。勝手に戻ってるだろうと放っておいたんですけど、夕飯の用意ができて呼んでも来ないし」
せかせかした早口は怒りを装っているが、焦りと不安を隠せていない。いや、焦って不安だからこそ怒っているんだろう。
「こちらには来ていませんよ。家の中や近所は捜されましたか?」
「はい、まあ……もう一度こちらで捜してみます。本当に勝手ばかりして、あの子は……すみません、お騒がせしました」
言うなりもう切ろうとする気配だったので、慌ててわたしは呼び止めた。
「待ってください、わたしも今からそちらに参ります。犬を連れて、道々捜しながら行きますので」
「いえ、そんなご迷惑は」
「子供がこの時間にいなくなったら、捜すのが大人として当然でしょう。ただ美里さん、ひとつだけ。わたしが着くまでに陽美さんを見付けたとしても、絶対に叱らないでください。お願いします」
返事はなく、プツンと通話が切れた。わたしはため息をつき、急いで支度する。
「聞いてたろう、ダミアン。行くぞ」
『へいへい、家出娘の捜索に犬の鼻の出番ってね。いやぁ、お姉ちゃんも順調に反抗期らしく自立心を養っているようで何より、めでたいじゃないの』
「ふざけてる場合じゃないぞ。反抗期が親離れのプロセスというのは一理あるとしても、子供は外界の危険をまだ学習していないんだから、ひょっとしたら本当にこの雨の中、一人で外をさまよっているかもしれない」
十代の子供はそういうことをしがちだ。いや、子供に限らない。充分に分別のついた大人になった後でさえ、怒りや悲しみにとらわれた人間は、身の安全を顧みなくなる。
風邪をひくかもしれない、足を滑らせて転んで怪我をするかもしれない、不審者に襲われるかもしれない――だからどうした? そんなことより、今のこの怒りが、悲しみが、何よりも凶暴な害悪だ。どうとでもなれ。
そんな状態に陥った人間を、これまで何人も助けてきた。冷静になって自分に呆れながら家に帰るまで何事も起こらないよう護ったり、近くにいる善良な人間に引き合わせたり。
今の日本はかなり安全な国ではあるけれど、それでも、悪意や不運はいたるところに貪欲な口を開けている。痴漢や窃盗、詐欺、軽微なものまで含めて一切の犯罪にかかわることなく人生を過ごせる人は、ほとんどいない。
わたしはダミアンを連れ、傘をさして暗い夜道を歩き出した。
『お姉ちゃんは母ちゃんと派手にケンカしたんだろうなー。それで家を飛び出したはいいけど、教会には来てくれなかったってことは、神父さんも信用されてないねぇ。いつでも開いてて一人になれる絶好の避難所だってのに。ヒヒッ』
「うるさい。……昨日の今日だから用心したのかもしれないだろう。一人になれるのを期待して礼拝堂に来たのに、見知らぬ怪しい男と鉢合わせしたら、台無しどころか危険だ」
痛いところを突かれたものの、わたしは唸って言い返した。陽美さんは確かに子供だけど、後先考えずに行動するタイプじゃない。
危険も考えただろうし、ひょっとしたら……暗くなったら送るから必ず呼びなさいと言ったのを、家に連れ戻されると解釈したかもしれない。しょせん大人で、親の味方なのだと。
『まぁ実際、ここじゃ隠れ家にはならないしな。母ちゃんが電話かけてくるぐらいだ、すぐ見つかっちまう。むしろ俺の勘だと、あの広い敷地内のどっかでかくれんぼしてるんだと思うぜ。本気で家出するなら駅まで行って、電車でどこか街に出るだろうよ』
「その形跡があるのか?」
『いや、ここを通ってった匂いは残ってない』
「雨で流れてしまってわからないだけ、ということは……」
『ねーよ。悪魔の嗅覚なめんな』
ふん、と犬が鼻を鳴らす。そうだろうな、とわたしはうなずいた。
もし陽美さんが電車で通学していたら、そんな行動も選択肢に入っただろう。けれど学校は地元で、定期券は持っていない。家業の手伝いをしてちまちま稼いでいる勤労少女にとって、貴重な小遣いを電車賃に使ってしまうのは抵抗があるはずだ。よほどやぶれかぶれになれば別だが。
ダミアンは時々、路面や道路脇の藪をふんふんと嗅ぎながら、足を急がせている。わたしも周囲に目配りしながら大股についていく。
予想通り、陽美さんどころか誰にも出会わず、杉田家に到着した。
インターホンを鳴らすと、しかめっ面の美里さんが現れて頭を下げた。
「本当に来てくださるなんて……すみません、ご迷惑を」
「迷惑だなんて思っていませんよ。思春期の子供が難しいのはどこも同じですし、それをサポートするのが我々大人の役割でしょう。教会からここまでの間、陽美さんは見付かりませんでした。不審者もいなかったので、その点はご安心ください」
「今、母と夫が近所を回っています。陽美が行きそうな親戚とか、友達の家にも電話したんですが」
ふむ。誰かの家に逃げ込んだわけじゃない、か。どこに行っても親の電話がかかってくると予想したんだろうな。ダミアンが言った通り、親の干渉を避けて一人になりたいのなら、友人知人のところは除外されるというわけか。
「もう一度、敷地内を捜してみましょう。倉庫や蔵なども、隅々まで」
「全部見たんですけどねぇ」
はあ、と美里さんがため息をつく。わたしは捜索にとりかかる前に、疲れた母親に向き合った。
「ドアを開けて名前を呼んだぐらいであれば、陽美さんに出てくる意志がなければ見付かりませんよ」
「……」
図星らしく、美里さんは眉間のしわを険しくして黙り込む。きっと怒りながら捜したんだろう。陽美、いるの、さっさと出てきなさい、何やってるの――そんな感じで。
『やれやれ、呼べば従う犬だとでも思ってんのかね? 犬だって、ご主人様が好きで、ご褒美がもらえるから、戻ってくるんだぜ』
ああまったく同感だ。もちろん陽美さんを犬になぞらえるつもりはないが。
わたしは天使の知覚を敷地内に飛ばしながら、美里さんに言った。
「昨日のミサで、放蕩息子の話をしたんですよ」
「……?」
「親に背いて家を出て、好き放題したあげくに一文無しになった息子が帰ってきたのを、父親は大喜びで迎えるという話です。怒ったり叱ったり、追い返したりもしないで、ただ帰ってきたことを喜んだ。今の陽美さんの頭にはきっと、それが理想の親の愛なんだ、という思いがあるでしょうね」
「そんな、作り話に」
美里さんが失笑し、苦々しくつぶやく。その表情に浮かぶのは、古い恨み。
ああうん、そうだよなぁ。自分が体験したことがなければ、そんな親の愛なんてあるものか、非現実的だ、と思うだろう。今は母親である美里さんにも子供時代はあって、父の信夫さんは短気で怒ってばかりだったそうだし、母である喜美子さんは立場が弱かったようだから、……うん、まぁ、そうなるのもわかる。でも。
「そうですね。反抗期の子供らしい、親への過剰な要求なのでしょう。そして現実は親も不完全な人間なんだと知ることで、夢から醒めて大人になる。でもだからといって、陽美さんに失望を受け入れろと押しつけるのは、ちょっと違うのではありませんか。わたしたち大人も、欠点だらけで失敗もするけれど、それをカバーするように努力しているんだと示さなければ」
話している途中で、陽美さんの気配をかすかにとらえた。天使の知覚にひっかかる、ということはつまり、今の彼女は神の救いを求めているわけだ。入信するほど熱烈ではなくとも、縋る対象として我らが主を心に思い描く程度には。
わたしは美里さんの返事を待たず、犬を連れてそちらへ向かった。




