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妹だってしんどい(6月30日 日曜日)

 貴重な晴れ間は昨日だけだったらしく、朝からしとしと、降ったりやんだり。午後になって少し雲が薄くなり、日差しが届くようになったので、わたしは犬を散歩に連れ出した。

 もちろん本物の犬ではないから必要に迫られてのことではなく、杉田家の様子を見に行く口実だ。


 車で五分ほどの距離も、歩くとそれなりに良い運動になる。山手へ向かって上り坂なのも結構な負荷だ。気温はさほど上がっていないものの、生ぬるく湿った空気がまとわりついて重い。

 額にうっすら汗をにじませて杉田家の近くまで来ると、ちょうど作業場から希美さんが姿を現した。途端に黒犬が飛び跳ね、リードを限界まで引っ張って駆け寄ろうとする。


『やっほーぅ! 妹ちゃん、遊ぼうぜー!』

「こら、落ち着け」


 完全に馬鹿犬のふるまいじゃないか。おいおい大丈夫か。


「あっ、ダミアン! 久しぶりー!」


 希美さんも歓声を上げ、走り寄るなり犬に抱きつく。ひとしきり激しくじゃれてから犬が腹を見せると、希美さんもやっと落ち着いてわたしに挨拶してくれた。犬が主役で飼い主は付属品。ままあることだ、うん。


「神父さんも、こんにちは」

「はい、こんにちは。今までお手伝いしていたんですか? えらいですね」


 わたしが褒めると、希美さんははにかんだ笑みを見せた。照れ隠しのようにうつむいて、犬の柔らかい腹を撫で続ける。わたしは作業場のほうを見やり、陽美さんの姿がないのを確かめた。テスト直前と言っていたから、母屋で頑張って勉強しているんだろう。

 わたしは希美さんのそばに片膝をつき、そっと切り出した。


「以前、散歩をお断りした時はすみませんでした」

「ううん」


 希美さんは気にしていないという声音で応じ、こちらを見ないまま、ぽんと一言続ける。


「お姉ちゃん一人で行かせてあげたかったんでしょ。わかる」

「……大人をよく見ていますね」


 幼くも鋭い観察眼には、苦笑で降参するしかない。希美さんは笑みを消し、唇をとがらせた。


「だって、お姉ちゃんもお母さんも、いつも怒ってるもん。ケンカしてばっかり。お母さんはおばあちゃんにもキツイことばっかり言うし、ほんと、疲れちゃう。お父さんがいなかったら、うち、家庭崩壊してるよ」


 皆の顔色をうかがって愛嬌を振りまき、機嫌を取るのも疲れる。そう言いたいんだろう。末っ子は愛されるというけれど、家庭内の立ち位置から、そうせざるを得ないという面もある。一番弱くて庇護を必要とする者、家族が機能しないと最初にダメージを受ける者だから。


「だから、犬を飼いたいんですね。犬がいれば、皆がもうちょっと優しくなるだろうと」

「うん。あっ、もちろん、ダミアンが好きだからだよ! 犬ならなんでもいいんじゃないからね!」

『俺にまで気遣いしてくれちゃってまぁ、けなげ可愛いねぇ! 甘くてとろけるその優しさに惚れちゃいそうだよ。どうだい今度デートにフガッ』


 皆まで言わせず、口吻マズルをつかんでやる。思念なので無駄なはずだが、気分の問題らしく、駄犬は律儀に黙った。希美さんが目をぱちくりさせてわたしを見る。


「どうしたの?」

「……いえ、なんでも」


 この年頃の少女は嘘を鋭く見抜く。下手なごまかしは言わず、わたしは何もなかったような態度を装った。希美さんはちょっと首をかしげただけで、追及せずにいてくれた。


「希美さんも苦労しますね。昨夜ゆうべも大変だったでしょう」


 わたしが水を向けると、ひとまず彼女は無言で首を振った。犬の腹に指先でのの字を書いて、ダミアンが変な顔をしたのを見て笑みを浮かべる。


「大丈夫。昨日は、お母さんは機嫌悪かったけど、普段ぐらいだったし。晩ご飯の用意、手伝ったから、おばあちゃんには褒められたし」


 声がわずかに揺れる。わたしが小さな頭にそっと手を置くと、希美さんは何度もぱちぱちと瞬きした。


「……おばあちゃん、これから毎週、教会に行くのかな。やだなぁ」


 犬が起き上がり、うずくまった少女のかたわらに寄り添った。作り笑いを浮かべようとした頬をそっと舐め、心配そうな黒い瞳でじっと見つめる。


「ダミアン、ほんとにいい子だねぇ」


 希美さんは小声で言って、犬の首に抱きついた。ダミアンはじっと身動きせず、むろん無駄口も叩かない。ああまったく、こいつは時々こうして善性らしきものを見せるから、わたしもうっかり信用しそうになってしまう。油断禁物。


 今この状況では神父なんかより犬のほうが役に立つというのが事実でも、わたしはわたしの仕事を果たさなければ。つまり、きちんと話のできる大人として。


「おばあさんが出かけると、そんなにお家の空気が悪くなりますか」


 わたしの質問に、希美さんはうなずいたのか訝ったのか、曖昧な角度に首をかしげた。


「悪いっていうか……怖い、かな」

「怖い?」

「お母さんが機嫌悪くなるのはしょっちゅうなんだけど。なんとなく昨日は、怒ってるっていうより、……なんだろう、うーん。ヒリヒリする感じだったかなぁ」


 正確に伝えようと語彙を探って、擬音にたどりつく。ふむ。

 夕食前の忙しい時間帯に喜美子さんが抜けてしまって、イライラしていたんだろうか。喜美子さん自身は「いないよりマシという程度」だとか自虐していたけど、わたしが見る限り、動作も判断力もそこまで衰えてはいない。何十年も家事を担ってきたベテランとして戦力になるはずだ。


 けれどそんな単純な話なら、希美さんが言いよどむこともないだろう。何か、教会に行って欲しくない理由があるのかもしれない。よそならとにかく、教会には。

 でもなぁ。キリスト教にアレルギーがあるにしては、わたしに対する態度は普通に愛想もいいし。家族の過去の出来事が理由なら、さすがに知りようがない。いや、上に申請すれば情報は手に入るし、心を読む手もあるけれど。長い人界暮らしで、ずかずかプライバシーに踏み込んで何度も失敗してきたからなぁ……。


 考えながら横を見ると、希美さんが瞬きもせずにじっとわたしを見つめていた。笑みを返し、よしよしと頭を撫でてあげる。


「お母さんにも、何か心配事があるんでしょうね。大丈夫、今のところ毎週するとは決めていませんし、次にする時はよく話し合ってからにしますから」


 わたしが言うと、希美さんは「良かった」と表情を和らげた。ぴょんと立ち上がり、直後、むっと眉を寄せて空を見上げる。雨粒が当たったようだ。


「また降ってきちゃった。神父さん、傘持ってないの? 急いで帰らなきゃ濡れちゃうよ。ごめんねダミアン」

『もっと遊びたかったのになー、準備の悪い飼い主には困ったもんだよ!』


 ゥフッ、と小さな声を立てて同意を示した黒犬に、希美さんはたまらないと言わんばかりの笑顔を返した。


「本当に言ってることわかってるでしょ、ダミアン! ねえ神父さん、この子すごいよね!」

「ええ、時々わたしも、この犬は天の使いじゃないかと思わされますよ」

『ぅおい、なんつー嫌味だ! やめろマジで!』

「それそれ! ほんと可愛いし天使みたいだよねぇ!」

なんてこった(Oh hell!)希美ちゃんまで。やめて死んじゃう』

「ははは、ありがとうございます。さあダミアン、帰るぞ」


 ざまあ見ろ。因果応報、天罰てきめん。

 わたしは清々しい笑顔でリードを引き、ぐんにゃりしている黒犬を急かして家路についた。


 雲の色が徐々に濃くなり、ぽつりぽつりと落ちていた雫が、サラサラと細い糸になって天地あめつちをつないでいく。わたしは犬と一緒に、息を弾ませて司祭館に駆け込んだ。


『うひー、降られた降られた』


 言いながら犬は風呂場で身体を揺すり、水滴を飛ばす。物質の肉体ではないから分離も楽で、タオルもドライヤーも必要なく、そのままお気に入りのベッドに直行する。

 生身のわたしは同じことができず、濡れた服を洗濯機に放り込んで、熱いシャワーを浴びた。

 

 雨で冷えた身体が温まるにつれ、心は逆に熱を失っていく。全身を湯に打たれながら、気付くとわたしは少女の言葉を思い返していた。


 ――これから毎週、教会に行くのかな……


 ああ、つらいな。幼い子にあんな顔をさせてしまうなんて。

 喜美子さんを満足させ、陽美さんのほうもいくらか手助けができた、それは間違いないけれど。一方で取り残された希美さんは、“ヒリヒリ”したストレスに耐えていたんだ。


 一ヶ月かけて親しくなって、杉田家の全員から一定の好感を得られたと思っていたけれど、不充分だったんだろうか。だろうなぁ。

 美里さんの本音はわからないけれど、少なくとも希美さんにとって、わたしはダミアンの飼い主でしかなくて、教会や信仰がどんなものか、まったく関心も持てないままだったんだ。

 おばあちゃんが教会に行けばお母さんが怖い、だから行くのはやめてほしい、と直結してしまうほどに。


 毎週どころか、これっきり最後になるかもしれない。

 下された使命を果たしたからではなく、ただ一人の信徒が抱える問題を、根本的には何も解決してあげられなくて。


 シャワーを止め、落ち込みながら服を着る。

 人間を導くというのも、なかなか上手くいかないなぁ。300年。それなりの経験を積んできたつもりだけれど、いまだに人の心はよくわからない。過去のケースからいろいろに推測しても、時代や環境によってあまりにも違いすぎる。


 神の救いを求める魂を、明るい道へ、光のもとへと導きたい。喜びをもって人生を歩ませてあげたい。ただそれだけなのに。


 部屋に入るなり、大きなため息をついてしまった。さっさとベッドで丸くなっていた黒犬が、皮肉っぽいまなざしをよこす。


『おーやおや、どっぷり沈没してるねぇ、神父サマ。そーゆー時は酒をかっくらって寝るのが一番! ミサに使ったぶどう酒の余りがあるんだろ、ぐいっとやれよ。なんならパンも用意して、前に買ってたオリーブオイルをつけたら立派なつまみだ』

「余りなんかないぞ。必要量しか呼び出してないんだから。そもそもアルコールは憂鬱を紛らすのに適した手段とは言えない」

『ああーもう、いちいちまじめで嫌になるな! 要するにちょっぴり悪徳を犯して寝ちまえっつってんだ。天使だってたまには羽目を外さないと窮屈で窒息するぞ』


 正直、心が揺れた。悪魔の提案はとても人間らしいふるまいで、今のわたしには必要なことに思われたから。


 ……いや、駄目だ。

 人間らしさをもっと学び、うまく導けるように努力しなければならないからこそ、彼らと同じになってしまってはいけない。

 わたしは天使なんだから。

 智とか力とか何もつかないヒラ天使でも。300歳を越えてもまだこんなことで悩む、どうしようもない下っ端でも。わたしは、自分の仕事に誇りを持っている。


「礼拝堂を掃除してくる。おまえは寝ていればいいさ」

『なんだよ、つまんねーな』


 残念そうに言って、黒犬は顎を前足の間に沈めた。その様子がどう見ても拗ねた犬そのものなので、わたしは失笑してしまう。


「ダミアン。おまえ実は結構、寂しがり屋だろう」

『うっせーよ。いい子ちゃんはせいぜい神にご奉仕してきな』


 ふん、といじけた返事。わたしは犬の頭を撫でてやってから、気を取り直して部屋を出た。


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