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不審者ではありません

『真面目によくやるねぇ。だいたい、こんなとこの教会を手入れしたって人がいないだろう。なんでそんな仕事を命じられたのかね』

「神の大いなるご意志を問うことの無意味ぐらい、おまえだって承知だろう。まぁ実際問題として、今の日本は人口減少で信徒も減って資金不足の教会が多い。放置されている物件をどうにかしたくても、たった一人の信徒のために、生活費が必要な人間の司祭を派遣するわけにはいかないさ」


 わたしは手を動かしながら答えた。

 この地域――仮に福貴ふきとしよう。天使降臨のパワースポットだとか特定されたら大変だから――福貴には以前、カトリックの信徒一家が住んでいた。

 ほかにもちらほら信徒がいて、主日すなわち日曜日だけ、隣町の教会から司祭が来てミサを立てていたのだけれど、信徒たちの中心となっていた一家が引っ越してしまい、それが絶えた。


 わたしが世話をするよう指示されたのは、そうして取り残されてミサにもあずかれない、福貴に一人だけの信徒だ。

 71歳の女性で、名を杉田喜美子という。


 とはいえ、彼女のためにここの礼拝堂でミサを立てられるかというと……うん、まぁその辺はもうちょっと後で考えよう。とりあえず建物に入らないことには中の傷み具合もわからない。


 奇蹟を起こして一瞬で新築同然に戻せないこともないけど、何の工事をした様子もなくそんなことになったら、いくら近所に人がいないと言っても不審がられる。派手な奇蹟で人を呼び集めて布教した時代とは違うのだ。

 それに奇蹟を起こせる天使パワーだって、しがないヒラ職員の持ち分は微々たるもの。ほいほい気軽に使えやしない。

 第一、そうやって片付けて良いのなら、そもそもわたしが派遣される理由がない。上司のサリエルなら指をパチンとひとつ鳴らして終わりだ。いいなぁ羨ましい。

 つまり総合すると、ある程度の期間はここに留まれ、ということなんだろう。


 そんなこんなで、地道に肉体労働するしかないわけだけど……うぐ。腰に来るな、この体勢は。

 まだまだ若いとはいえ、油断すると危ない三十代。いったん立って背筋を伸ばし、軽くストレッチしてからまたしゃがむ。黒犬が鼻を鳴らして呆れた。


『近頃はそっちも不景気になったよなぁ。昔は十分の一税をはじめ領主の寄進やら聖職売買やら贖宥しょくゆう状やらでバブリーだったのに。若いやつは気の毒にな』

「悪魔に同情されたくないね。そもそも、バブリーな時代なら楽だったというわけじゃない。その時代ごとに異なる苦労があるものだろう」

『まぁそうだけどよ、苦労がありつつも美味しい思いしてたはずだぜ? あのぐらいの時代はこっちに来る奴も多くて楽しかったな。もてなし甲斐があったもんだ』

「楽しい地獄に帰れ。引き留めないぞ」


 何がもてなしだ、悪趣味なやつめ。

 唸ったところで車の音が耳に届いた。農作業によく使われる軽トラックだろう。細い田舎道をガタガタ走り……おや。道を外れてこっちに来る。


 じきに近くで白い軽トラックが止まり、わたしが振り返ると同時に、窓から身を乗り出した男性がガラガラ声で怒鳴った。


「おい、何やってるんだ!」


 わたしはゆっくり立ち上がって向き直り、まず「こんにちは」と挨拶した。後ろ姿で黒ずくめの不審者かと思われたのだろう。正面から見て司祭のカソックだと気付いた男性が、眉間の皺を消し、次いで変な顔になった。


「……え、まさか神父さん?」

「はい、こちらの教会の手入れを任されまして。ひとまず様子を見に来たんですが」


 ご覧の通りで、と両手を広げて見せる。男性は視線をわたしの背後にやり、同情的にうなずいた。どうやら信じてくれたらしい。


 カソック、と聞いて現物が思い浮かばない人のために言うと、司祭が着ている立襟の黒いロングコートのような服、あれのことだ。司祭平服、フランス語ではスータン。実際に接したことはなくても、映画なんかで見たことがあるかと思う。


 草刈りや大工仕事に適した服装で来ようかと思ったけれど、カソックにしておいて良かった。信徒でなくても、一目で“神父さん”だとわかってくれる身分証。一度認識してもらえたら、次からはラフな格好でも大丈夫だろう。


「こんな状態なので、どのぐらいかかるかわかりませんが、宜しくお願いします。あ、ご挨拶が遅れました。わたしは坂上と申します」

「こりゃどうも。吉田です」


 わたしが人畜無害な微笑で一礼すると、吉田さんはきまり悪そうに応じて会釈した。彼の目にわたしがどう映っているのか、おおよそ察せられて苦笑しそうになる。


 ロシアの血ゆえ全体的に色素が薄めだが、それ以外は普通によくいる日本人の佇まい。眼鏡をかけた、学究的で大人しそうな部類だ。最初に警戒して怒鳴り声を上げたのが、いまさら恥ずかしいんだろう。


「えーっと。ここで何かまたやるんですかい」

「いえ、そういうわけでは。あまりに放ったらかして取り壊すしかなくなる前に、少し手入れしておこうという感じですね。近くに信徒さんが一人いらっしゃると聞いていますので、後でご挨拶に伺うつもりです」

「ああ、杉田さんちの」

「お知り合いですか?」

「この辺はみんな顔見知りだよ。帰りに通るから、いたらちょっと言っとこうか」

「ありがとうございます、助かります」


 わたしがぺこりと頭を下げると、吉田さんは「おう」とかなんとか曖昧に答え、車をバックさせて出て行った。


 良かった、これで訪問の下地ができた。教会からすっかり遠ざかっていたのに、いきなり司祭が訪ねてきたら、さすがに相手も困惑するだろう。わたしだって予告なしで上司が人界に降りてきたら、後ろ暗い所がなくたって慌てふためく。

 先に知らせてもらえるなら、それに越したことはない。


 しばらく草刈りに精を出して、門扉を開けられる状態にまで漕ぎつけたところで鎌を置く。日も傾いてきたし、そろそろ行くか。あまり遅くなったら、夕食時にさしかかって迷惑をかけてしまう。


 車の運転席に腰を下ろすと、ルームミラーに嫌なものが映っていた。


「なに当然の顔して乗り込んでるんだ! 降りろ駄犬!」

『ケチくさいこと言うなよ。どっちにしてもついて行くぜ?』

「来るな。いや、来るのは止められないとしても、わたしが運んでやる義理はない。降りろ。シートに毛がつく」

『おいおい、こちとらおまえさんと違って物質の肉体じゃないって知ってるだろ』

「気分の問題だ! 急ブレーキで前に吹っ飛ばすぞ」

『天使のくせに野蛮なやつだな』

「悪魔と見れば剣を抜くのが伝統のお家芸でね」


 いまいましい。唸りながらエンジンをかける。どうしたって結局こいつは、したいようにするのだ。あまりしつこく抗議したら、じゃあここなら毛がつかないだろ、だとか言ってボンネットの上にでも座りかねない。時間と気力の無駄。


 車が走り出すと、悪魔は勝手に窓を開けて鼻面を突き出した。柔らかい垂れ耳がパタパタはためく。


『ヒャッホー、爽やかな初夏の風! 気持ちいーい』


 これが本当に本物の犬だったら、こちらも楽しい気分になれるんだろうな。やれやれ。仕方なくわたしも窓を開け、頬に風を受ける。

 福貴の集落まで5分ほどのごく短いドライブ、せめて少しでも快適に過ごすとしよう。


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