不審者と犬
「ここにいてください、様子を見てきます」
腰を浮かせた陽美さんを制し、わたしは急いで外へ出る。残照も消えて薄墨色に沈んだ庭先で、影のような黒犬が四肢を張って立ち、門のほうを睨んでいた。
「どうしたんだ、ダミアン」
『なぁに、不審なやつがいたから軽くおどかしてやっただけさ。門のすぐ近くまで来て、こそこそ中を窺っていやがったから、入るのかどうかはっきりしろ、ってね』
言われてすぐに目を凝らす。少しばかり天使パワーを使うと、街灯のない暗い小道を本道へ急ぐ人影が小さく見えた。そのまま木立の角を曲がり、駅方面へ消える。
「今までに会った人じゃないんだな?」
『ああ。おまえさんぐらいの年格好の男だよ。一声吠えただけで逃げてったが、もしかして入信希望者を追っ払っちまったかね? 悪かったな、ヒヒッ』
嫌味な笑いを付け足した悪魔に、わたしはうんざりした視線をくれた。
この言い方からして、恐らく到底まっとうな訪問者とは思われない風体だったんだろう。番犬らしいはたらきをしたと褒められたくないから、わざと悪ぶっているだけだ。
ちょうど後ろから陽美さんと喜美子さんが様子を見に来たので、わたしは黒犬の頭を撫でてやった。
「よくやったぞ、いい子だ」
『おいやめろムカつく』
わざとらしく犬を褒めてから、背後を振り向き、説明する。
「外に誰かいたようです。興味半分で見に来た人ならいいんですが、吠えられて逃げていったので不審者かもしれません」
わたしの言葉に、陽美さんと喜美子さんは不安げな顔を見合わせた。
「怖いわねぇ。陽美ちゃん、通学路でしょ。気をつけてね」
「この辺、たまに不審者情報があるもんね……痴漢とか」
「陽美ちゃんは覚えてないでしょうけど、十年ぐらい前に、誘拐された小学生の遺体が向こうの山で発見された事件もあったの。田舎だからって安心できないし、本当に、用心するのよ」
なんてことだ、そんな痛ましい事件があったとは。
わたしは天を仰いで嘆息し、暗闇の迫る世界を見回して言った。まだ七時前で、遅いというほどの時間ではないものの、不穏な話を聞いた後ではあまりのんびりできない。
「もう暗くなってしまいますね。家まで送ります。陽美さん、途中で申し訳ありませんが、また今度ゆっくりお話ししましょう」
「……はい」
陽美さんは眉をひそめたが、今は悩みのことより不審者が気になるようで、木立の奥を探るように視線をめぐらせてから急ぎ足に中へ戻った。
喜美子さんが祭壇の前に行ってもう一度祈っている間、陽美さんは広げていた勉強道具を片付ける。わたしはそのかたわらで言った。
「進路と家業のことですが。誰も継がなければ廃業するだけ、と言うのは、あなたを脅しているのではないと思いますよ。そう言うのは、美里さん……お母さんのほうですね?」
陽美さんは鞄にノートを入れながら、はい、と不機嫌な返事をする。わたしに対してではなく、母親の言い方を思い出して腹が立ったのだろう。わたしは押しつけがましくならないように注意して語りかけた。
「あの家で生まれ育った人が廃業を口にするというのは、それなりに複雑な事情や思いがあるでしょう。お母さんと一度、その点について話してみてはいかがですか」
「忙しいとか好きにしろとかばっかりで、話なんてできません」
「でしたら、おばあさんに尋ねてごらんなさい。あなたのお母さんが、あなたと同じように家業を継ぐことで悩んだのではないか、どんなことがあったのか。……もう聞いたことがありますか?」
返事は無言。ただ首を振り、陽美さんは祖母の後ろ姿を見やった。わたしもその視線を追い、ふと首を傾げる。かすかに声が聞こえた。これは……喜美子さんが歌っているのか。
両手を合わせ、奥の十字架を見上げて、ごく小さな声で。耳になじむこの旋律は『主よ、みもとに』だ。19世紀につくられた新しい賛美歌で、伝統的なカトリックの聖歌ではないけれど、あまりにも有名になって大勢の耳に残る歌だから、喜美子さんも覚えていたんだろう。
いや、無粋はよそう。自然に湧き起こる敬虔な思いのままに口ずさむ歌に、良いも悪いもない。わたしは目を閉じて耳を傾けた。
歌詞が出てこなくなったらしく、旋律が途切れる。わたしはすぐに続きを引き取った。喜美子さんの祈りを両手で受け取るようにそっと静かに、それから徐々に、天に届けるため声高らかにして。
ここにいる一人の信徒、教会から離れてしまっても主を忘れずにいた人を、神よ、どうぞあわれみ、お守りくださいと願いながら……
しっかり五番まで歌いきってしまい、礼拝堂に響く余韻が消えて我に返る。慌てて見回すと、喜美子さんがハンカチを目元に当て、陽美さんは瞬きもせずにぽろぽろ涙をこぼしていた。
あああぁぁやってしまったー!!
頬が熱い。こちらを見つめる二対の潤んだ瞳に耐えきれず、無意味にそわそわしてしまう。喜美子さんが小さくふきだした。
「素晴らしい声をお持ちなんですね」
「す、すみません」
「何も悪いことなんて。感動しました、ありがとうございます」
頭を下げて謝ったわたしに、喜美子さんは善意でとどめを刺してくれた。うう……天使の歌が強烈な効果をもつのはわかっていたのに、加減を忘れてしまうとは。二人しかいないから良かったものの、今時は何かあればすぐ録画してウェブに上げる人間もいるというのに油断した……ああぁ査定が。査定が怖い。ああー!
顔を覆って恥じ入ることしばし。
わたしがどうにか気を取り直した時には、陽美さんも涙を拭いて表情を取り繕い、帰り支度を済ませていた。
「それじゃあ、行きましょうか」
ごほんと咳払いしてごまかし、礼拝堂を出る。途端に玄関先で黒犬につまずきそうになった。
「わっ! こんなところで寝るなよ」
『誰のせいだ、ド阿呆。至近距離でリアル天使の歌声に直撃された悪魔の身にもなりやがれ。危うく浄化されるとこだったじゃねーか』
べったり伏せたまま、ぼそぼそ文句を言う悪魔が一匹。わたしごときヒラ天使の歌で消し飛ぶような可愛い雑魚でもあるまいに。
「あれ、ダミアンどうしたの」
背後から陽美さんが覗き込んで心配する。悪魔にはもったいない、汚れなき優しさだ。わたしはしゃがんで犬の様子を見るふりをしてから答えた。
「不審者を気にして動かないのかもしれません。お二人を送ってくる間、ここで留守番していてもらいましょう」
『おー、そうするよ。行ってこい、行ってこい。妹ちゃんに会えないのは寂しいけど、よろしく言っといてくれや。ダミアンちゃんは立派に番犬もできる賢いわんこですよ、おひとついかがですかー、ってな』
よし、地獄に堕ちろ。
わたしは駄犬の頬をぐにっと引っ張ってから、「任せたぞ」と言って少々乱暴に背中を叩き、車へ向かった。
杉田家までの、五分ほどの道のり。陽美さんはまた何か不安や不満がぶり返したのか、眉を寄せて窓の外を睨んでいる。わたしはハンドルを操りながら話しかけた。
「陽美さん、礼拝堂はいつも開いていますから、何かあれば遠慮なく来てくださいね。放課後、家にまっすぐ帰りたくないな、というような時でも」
「鍵はかけないんですか?」
今さっき不審者が来たばかりなのに、と呆れるような声音だった。
「住まいのほうは施錠しますが、礼拝堂は二十四時間開放しています。いつでも困った人を受け入れられるようにね。ただ、ええ、昨今は物騒なので。ミサや行事の時以外は閉めてしまうところも多くなりました」
教会によってまちまちだが、司祭や牧師の方針で、いつでもどうぞと開けているところは実際にある。一方でやはり、信者でない者が勝手に神聖な礼拝堂に入り込むのは嫌だ、という信徒さんの声や、盗人に持ち去られそうなものが礼拝堂にある場合など、現実的な問題として施錠しているところも多い。
銀器を盗まれてなお「差し上げたものです」と言える聖職者ばかりではないし、そもそも盗人が皆ジャン・バルジャンなら世の中はもっと明るいだろう。
「うちは大丈夫ですよ。番犬もいますし。黙って訪れて黙って帰られてもかまいませんが、ただし、遅くなりそうなら必ずわたしを呼んでくださいね。家まで送りますから」
言い終えると同時に杉田家に着いた。二人を降ろし、わたしも見送りのために外へ出る。
「司祭様、改めて、今日は本当にありがとうございました」
喜美子さんが深々と頭を下げる。横で陽美さんもぺこりと会釈し、「……ました」と便乗して曖昧な礼を言った。そして、まだ続きがあるのか妙な顔でもじもじする。
「どうしました?」
わたしが首をかしげて促すと、彼女は小声で「あの、……歌」と言ったきり恥ずかしそうにうつむいてしまった。喜美子さんが悪気なく笑い、わたしのほうが赤くなる。
「お歌、素敵だったものねぇ。また聞かせてくださいな、司祭様」
「いやその、あの」
わたしがしどろもどろになっている間に、陽美さんは門をくぐって家に逃げ込んでしまった。喜美子さんがおどけた表情でそれを見送り、改めてこちらに向き直って目礼する。
「それでは、ごめんください」
「はい、それではまた。……あの、喜美子さん」
なんとか答えて会釈を返した後で、ふと疑問が胸にきざして呼び止める。何か、と振り返った老婦人の顔は、門灯に照らされて奇妙に幻想めいた雰囲気を帯びていた。




