表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/39

ただ二人のミサ(6月29日 土曜日)

 まるで天が祝福したもうたかのように、梅雨の合間の晴れ空が広がっている。久しぶりのすっきりした青空、さいわい湿度もさほどでなく、気分爽快だ。 

 礼拝堂を掃除し、式の手順を紙に清書したり、祭器を整えたりとあれこれの準備を一日がかりで済ませ、夕方、約束通り杉田家へ迎えに行った。


 インターホンに応じて出て来た美里さんが、家の中に向かって大声を張り上げる。


「陽美! 何やってるの、もう迎えに来てくださったわよ! まったくもう……神父さんもお忙しいのに、ご迷惑をおかけしてすみません」

「とんでもない。こちらこそ、お邪魔してすみません。夕食までには戻れるよう、帰りもお送りしますので」


 わたしは言って、頭を下げた。言葉の端々に、忙しいのはこちらだ、という感情が覗いていたからだ。美里さんはわたしの謝罪も耳に入らない様子で、お母さんもほら早く、と喜美子さんを急かしている。

 はいはい、ごめんなさいねぇ、と喜美子さんが靴を履く。むっつり不機嫌な陽美さんと、それを微苦笑でなだめる喜美子さんを乗せて、車は田舎道を走り出した。


 教会に着くと、喜美子さんは久しぶりのことに胸いっぱいになったようだった。礼拝堂の扉をくぐるまで、一歩一歩を確かめるようにして進む。入り口の聖水に浸す指先が震えていた。

 後から入ってきた陽美さんは一番後ろの会衆席に鞄を置いて、すぐに外へ舞い戻り、犬を構いに行く。


 わたしは喜美子さんに用意したメモを渡し、手順の打ち合わせをした。


「こんな流れでどうでしょう。なるべく座っていられるように調整しましたが、やはり立っておこなう部分も多くて……大丈夫そうですか? 体調はいかがです?」

「お気遣いありがとうございます。おかげさまで今日は膝も痛みませんし、大丈夫です」

「ではお願いしますね。わたしが唱えるところは青で、喜美子さんの応唱は黒で書いてありますので。今日は二人だけですから、歌わず唱えるだけでいきましょう」


 ミサの中には、単に唱えるよりも歌うことが望ましいとされる部分がある。いわゆる賛美歌ではなくて、和歌の朗詠のようなもの、と言えば近いだろうか。何年も離れていた後では少々ハードルが高いし、大勢の参加者で歌ってこそのものだから、無理をすることはない。


「何から何まで、畏れ入ります。ちょっと緊張しますねぇ」


 喜美子さんは恥ずかしそうに笑いながら、老眼鏡をかけ、指で行をたどった。口の中で賛歌をつぶやき、以前の記憶を呼び戻そうとしている。最後まで目を通すと、小さく何度もうなずき、十字架のしるしをして、つとめを無事に果たせるよう祈った。

 喜美子さんの顔から不安の影が晴れたのを確かめ、わたしは陽美さんのところへ向かった。


「さて、陽美さんはどうされますか。中で見学されるなら、好きなところに座って下さい。勉強に集中したければ別室がありますよ。できれば、今日の話は陽美さんにも聞いていただきたいですが」

「……じゃあ、聞きながら勉強してます」


 陽美さんは最後に犬の頬を両手でわしわし撫でてから、また後でね、と言い置いて中に入る。わたしは玄関扉を閉めたが、わざと少し隙間を残しておいた。悪魔の地獄耳にも説教を聞かせてやるためだ。


 それからいったん祭具室に入り、ミサ用の祭服を着る。祭壇の蝋燭にも火を灯して、いよいよ開祭だ。

 喜美子さんと共に祭壇に近付き、手を合わせて深く一礼。入祭唱を唱え、


「父と子と聖霊の御名によって」

「アーメン」


 二人で十字架のしるしをする。入祭のあいさつから回心の祈り、あわれみの賛歌へと続く頃には、喜美子さんもすっかり昔の勘を取り戻したようだった。

 

 奇遇にも今日は、使徒聖ペテロと使徒聖パウロの祭日なので、入祭唱や第一・第二朗読は即した内容にした。本当なら福音朗読もそうすべきだが、今日は模範的な司祭ではなく、喜美子さんを導くように遣わされた一天使として、逸脱させてもらう。そろそろ陽美さんも退屈してきたようだし、ちょっと声を張って。


「ルカによる福音書」


 渡したメモに書いておいたものの、喜美子さんはやはり少々戸惑った様子で「主に栄光」と応唱する。けれど、わたしが朗読を始めるとすぐに得心した表情になり、目を瞑って手を合わせた。


 選んだ箇所はかの有名な、『放蕩息子のたとえ』だ。キリスト教文化圏では様々な美術文芸の題材になり、普通の娯楽作品にも当たり前の顔で引き合いに出されるたとえ話。


 ある人に二人の息子がいて、弟のほうが父親に財産分与を求めた。本来は死後に譲られるものを、生きているうちにくれと言ったわけだが、父親は求めに応じて兄弟に財産を譲ってやる。すると弟は自分の取り分をさっさと現金化して家を出て行ってしまうのだ。もともと折り合いが悪かったのだろう。

 彼は遠い国で財産を使い果たし、さらに飢饉に見舞われすっかり落ちぶれた後、父のもとに帰ろうと心を決める。自分はもう息子と呼ばれる資格はない、雇い人の一人にしてください、と頼むつもりで。

 父親はこの放蕩息子が帰って来たのをいち早く見付けて迎え、謝罪を聞くのもそこそこに、盛大な祝宴を開いて喜んだ。

 怒ったのは兄のほうだ。自分はずっと父に背かず仕えているのに、友達と宴会をするために仔山羊一匹くれなかった。なのにろくでなしの弟をこんなにも歓迎するのか、と。

 それに答えて父親は言った。

 おまえはいつも一緒にいて、わたしのものは全部おまえのものだ。だがあの弟は、死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見付かったのだ。祝宴を開いて喜ぶのは当たり前ではないか。


 ――ひとたび罪を犯し離反した者でも、いつ帰って来るかと遠い道に目を凝らして待ち続け、姿が見えたら駆け寄って抱きしめ歓迎する。それほどに、父すなわち神の愛は深いのだ。


 この話を選んだのはむろん、教会から遠ざかっていた喜美子さんが、ふたたび父なる神のもとへ戻って来たことを念頭に置いている。

 放蕩息子ほどはっきり背いたわけではないけれど、この話を我が身に重ねて理解するほどには、“父から離れていた”自覚があるんだろう。朗読終了後の「キリストに賛美」に応唱する声が震えていた。


 そしてまた後ろの席で難しい顔をしている陽美さんも、やはり自分にあてはまると感じたのだろう。むろん彼女の場合は、自分を兄の立場に置いているのだろうけれど。

 実際、この話を聞いた人の反応は、なかなかに複雑だ。ダメ人間でも神様は受け入れてくれるんだ、と安心し喜べる人は幸いだが、兄に共感する人にとっては気に食わない説教だろう。


 自分はこんなにいい子にして、忠実に、誠実に、努力して――なのに好き放題したやつが優遇されるなんて、おかしいじゃないか。


 なぁダミアン、おまえもそう思っているんじゃないか? 神が人間を贔屓するなんて、不公平だとか思ってないか?


 イエスがこのたとえ話をした状況を踏まえると、この話の意味がわかる。イエスが徴税人や罪人と語らっている時に、戒律にうるさい律法学者やファリサイ派の人々が非難してきたので、それに応酬したのだ。

 だからこの兄とは、彼らの傲慢を表しているのだと思えば、なるほどと腑に落ちる。

 落ちるが、しかし、いま現在の自分に重ねて思いを巡らせたら、やはりどこか飲み込めない。いい子にするだけ損なような気がするだろう。


 ならばどうすれば良いのか。どうして不満なのか、どうすれば幸せだと思えるのか、それは各人が己を見つめて考えて欲しい――そんなようなことが伝わるように、わたしは簡潔に語り終えた。


 続く信仰宣言から感謝の典礼、すなわちパンとぶどう酒を供え聖別するまでつつがなく進み、無事に拝領を終え閉祭まで辿り着いた時には、ほっとすると同時に、素晴らしい時間が終わることに少しの寂しさを感じた。


「全能の神、父と子と聖霊の祝福があなたのうえにありますように」

「アーメン」


 喜美子さんに祝福を授けてから、共に祭壇に深く一礼してその場を離れる。奥の扉から礼拝堂を出ると、深く息をついて緊張を解いた。



 ゆっくり時間をかけて祭服を脱ぎ、きちんと片付けてから礼拝堂に戻ると、喜美子さんは孫のところで何やら話していた。

 わたしが出て来たのを見て、陽美さんが立ち上がる。決然とした表情だ。喜美子さんがささやくのが聞こえた。


「それじゃ、おばあちゃんはお祈りしてるからね」


 孫に言い置き、わたしに会釈してから前のほうの会衆席に座る。ふむ。どうやら陽美さんからわたしに話があるらしい。単に家から出ていたいだけじゃないのでは、と予想したのは正しかったかな。

 わたしは陽美さんに歩み寄り、ひとまずこちらから問いかけた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ