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教会への招き

 ああ、そういうことだったか。家族の理解ではなく、行き先の問題。わたしは落胆よりはただ寂しさをおぼえ、そっと小さく息をついた。


「……何があったか、お訊きしても?」

「具体的なことはお話しできません。たとえ司祭様でも……だからこそ、お聞かせできません」


 硬い声音で、石のように身をこわばらせて言い、ぎゅっと唇を引き結ぶ。いつも柔和で控えめな態度の喜美子さんが、初めて見せた静かな烈しさだった。誰が何をどう言おうと絶対に考えは変わらない、譲れない――明らかな意志の表明。よほど深く傷つけられたか、怒りを抱く出来事があったんだろう。

 わたしが黙っていると、喜美子さんは少しだけ険しい気配を緩めて続けた。


「どうしてもわたしには、許せない……いえ、許す許さないというのは傲慢ですね。受け入れられない、認められないということがあったんです」

「司祭にこそ話せない、ということは信仰に疑問を抱いたということではないんですね。もっと個人的な価値観や倫理観のところで」


 わたしが確かめると、喜美子さんはうなずいた。なるほど、それなら仕方ない。信じる神は同じでも、他の思想信条が違えば相容れなくて喧嘩別れすることもあるだろう。支持政党、教育方針、民族や国籍や性に関する考え方。なんならピーマンが好きか嫌いかというだけでも、関係は決裂し得る。


『いいぞー、面白くなってきた! 神の真理はひとつでも、それを信じる人間はひとつじゃない。多様性こそ人間の可能性、違いを見付けて争い競り合い蹴落としあってこその進化!』


 茶化すな駄犬!

 思わず縁側を睨みつけそうになり、ぐっと堪える。おのれ悪魔め、帰ったら聖水でシャンプーしてやる。絶対にだ。覚悟しろよ。


 悪意に満ちた台詞の真偽はともかく、実際、一口にクリスチャン、あるいはカトリックと言っても内実は様々だ。信仰心が薄れたのではなく人間関係がわずらわしくなって、教会から遠ざかる人は少なくない。信徒同士の軋轢、司祭や牧師からのハラスメント、あれこれあれこれ。

 結局のところ、人間はどこまでも人間、ってことだろう。


 考え込んでいるわたしの前で、喜美子さんはふっといつもの柔らかい笑みを浮かべた。


「ごめんなさいね、困らせてしまって。冷たいうちに麦茶をどうぞ」

「あ、どうも。いただきます」


 お礼を言い、陽美さんにも目礼してから口をつける。清涼な香ばしさが喉から鼻にすうっと抜けて、じめじめした重苦しさを払ってくれた。うーん美味しいなぁ。

 無意識に表情を緩めていたらしい。喜美子さんが孫を見るような目つきになった。いや、あの、わたしは食いしん坊ではないんですが。たぶん。そのつもり……。


「司祭様にこんなことを言って申し訳ないんですけど、わたしはもともと、両親がそうだったからというだけのクリスチャンなんです。ただそうするのが当たり前だから日曜はミサに行き、日々お祈りをして育ちました。だから、何が何でも神様を信じようとか、どこかの教会に必ず行かなければ、とかいう堅い信念があるわけじゃないんですよ」

「カトリックにはそういう方が多いですね」


 わたしは笑って同意した。伝統的な教派だから、家族の宗教という感じの人が多いのだ。自然体、と言えばいいだろうか。一般的な日本の家庭で、当たり前に仏壇があって、お盆にはお経を上げてもらい、新年や受験の合格祈願には神社に行く……それと同じような感覚だ。


「ですからね、司祭様、わたし一人のためにミサを立ててくださるというのは、それはもう大変ありがたいお話なんですけれど、そこまでして頂くのはもったいないです。いろいろ用意するのも大変でしょうし」

「そのぐらいはお安いご用ですよ」


 ミサの要は聖体拝領だ。信者でなくても、なんとなくどこかで見知っているだろう。パンとぶどう酒を分け合う、あれ。

 教派・教会によって、ふっくらした普通のパンだったりブドウジュースだったり様々だけれど、カトリックで通常もちいられるパンはホスチアといって薄焼きのウエハース状のものだから、そこらのパン屋さんで買ってくる、とはいかない。一人のためにいちいち用意するのは……と恐縮されたのはそのためだ。

 天使パワーを使えばなんてことはないけれど、喜美子さんが本当に言いたいのはもちろん、そんなことじゃなかった。


「どちらにしても、日曜は出荷があるのでちょっと無理ですわねぇ」

「そうですね。今日も作業してらっしゃるぐらいですし……すみません、お忙しいのに」

「とんでもない、これも大事なことですから。一時間やそこら、わたしが抜けたところで、さほどの影響もありませんし」


 少し寂しそうにそう言い、喜美子さんはすぐに気を取り直して続けた。


「思ったんですけど、お祈りと祝福だけでもお願いできませんか? 日曜日の朝はとても出られませんけど、土曜の夕方なら大丈夫ですから」

「もちろん、いつでも歓迎します。夕方、何時頃にお迎えに参りましょうか」

「六時には箱詰めを終えて、あとは浩平さんがくくって集荷場へ運んでくれますから……その少し前に」

「なるほど、わかりました。では夕方にミサをたてましょう。どうしても日曜日が無理な信徒さんもいますからね、土曜の夕方以降に執り行うミサは主日礼拝とみなせる決まりがあるんですよ」


 わたしが提案すると、喜美子さんは困惑した表情を見せた。川にかかった丸太橋の上に立つ司祭から、おいでなさいと手招きされて、足元を見つめる人の顔だ。それとも、湖上を歩くイエスに呼ばれた弟子かな。


「あの……そうなると、わたしが奉仕者のつとめを果たさないといけませんよね。実のところ、もうすっかり順番も作法も、祈りの言葉も忘れてしまっていますから、できるかどうか。歳もとりましたし」

「ああ、ご心配はわかります。なるべく簡素な構成にして、当日は手順と文言を書いたものを用意しますよ。ご負担がかからないよう配慮しますし、なんならわたしが一人でおこなっても構いません。久しぶりに福音を読んで、御聖体に与ってください」


 急かさず強いず、穏やかに言い、さらに冗談めかして「礼拝堂と司祭を独り占めする、滅多にないチャンスですよ」と付け足すと、やっと喜美子さんは微笑んだ。

 そこまで話が進んだところで、不意に縁側から陽美さんが振り返り、声を上げた。


「おばあちゃん、あたしも行っていい?」


 おや。わたしと喜美子さんがそろって面食らっていると、陽美さんはずいっとこちらに身を乗り出してきた。


「邪魔しないから」

「だけど陽美ちゃん、たしか来週はもうテストの直前じゃなかった?」

「だからだよ。部活ないし、家だと暑いしウザいのがいるから集中できないもん。隅っこで勉強してるから、そっち行きたい。駄目なら外でダミアンと遊んでるし」

『おっ、賛成賛成! 勉強には息抜きも大切だ。是非とも遊ぼう、たっぷり遊ぼう、飼い主の邪魔も入らないことだし』


 やめないか、この悪魔!

 危うく制止の言葉を口にしかけ、ぎりぎりで飲み込む。ここでわたしまで口うるさい親よろしく「勉強しろ」という立場を見せたら、陽美さんの居所がなくなってしまう。

 それに……陽美さんの望みはどうやら、息が詰まりそうな家から出たい、というだけではないような気がする。単に息抜きがしたいだけなら、友達の家に行くとか学校の図書館で居残り勉強するとか、ほかにも手があるはずだから。


 もしかしたら、彼女は『教会』にこそ、用があるんじゃないだろうか。


 見つめるわたしの視線に気付いた陽美さんはちょっと怯み、それから「お願いします」と頭を下げた。喜美子さんが困惑と懸念のいりまじる顔で、孫と司祭を交互に見る。わたしはにっこりして答えた。


「もちろん、いいですよ。テスト勉強も大事ですが、様々な経験も人生の糧です」

「ありがとうございます」


 ほっとした様子で陽美さんは笑みを広げ、縁側に倒れ込んで犬の首を抱き寄せる。喜んでもらえるのは嬉しいけど、その反応はちょっと複雑だなぁ。


「そういえば、陽美さんはミサをご覧になったことがあるんですか?」


 クリスチャンでない、かつ特に宗教に関心のない人にとって、教会が居心地の良い場所だとは言えないだろう。歴史ある教会で絢爛たる建築美術を鑑賞するというならともかく、地域の小さなボロ……ごほん、素朴な建物でそれはないし。


「小一の頃に一回だけ、おばあちゃんと一緒にひかり台の教会に行ったことがあるから、なんとなく知ってます。行列が入って来て、立ったり座ったり、歌ったり。あんなに長くはかからないんですよね」

「ええ、もっと簡潔にしますから、見学していても退屈はしないと思いますよ。気が向いたらわたしの話に耳を傾けてみてください。説教なんて学校だけでうんざりかもしれませんが、聖書の話はいくつか知っていれば教養になりますし、世界史の観点からも面白いものですからね」

『どっちかっつーとイエスのあれは反抗的な悪ガキの屁理屈だろ』


 ――っ、あぶない、ふきだすところだった!

 堪えようとしてむせたのを、苦しい咳払いでごまかす。やれやれだ。確かにそういう部分もあるのは認める、当時の権威主義に凝り固まった律法学者たちへの非難という意味で。だからって悪ガキの屁理屈はないぞ。


「大丈夫ですか、司祭様」

「ええ、はい。失礼、ちょっと」


 どうにか取り繕い、改めて二人と来週の約束を交わすと、わたしは早々に犬を連れて杉田家から退散した。


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