トマトは好物です
「ダミアンを好きになってくれたのは嬉しいんですが、希美さんにはまだちょっと無理でしょう。大型犬ですからね。普段はおとなしくても、何かのはずみで暴走したら、とても抑えられません。陽美さんなら何とか、というところでしょうね」
そう言ってわたしは彼女を振り向き、あなたの気持ちはわかっていますよ、と示すようにうなずきかけた。
「もし良ければ陽美さん、雨がやんでいるうちに、こいつを散歩させてやってくれませんか?」
「え……」
「鞄を置いて、制服を着替えて、ひと休みしてからで構いませんから」
「すぐ行きます」
言うなり陽美さんは母屋のほうに走り去る。
「ずるい! あたしも行く!」
慌てて希美さんも後を追おうとしたので、わたしは急いでそれを止めた。
「すみませんが、希美さんは遠慮してください。あなたがいると、ダミアンははしゃぎすぎてしまうようですから」
「ええー!?」
「遊びたがってばかりでは、ちゃんと散歩できません。運動ですからね。帰ってきたらまた、構ってやってください」
中腰になって目線を合わせ、穏やかに言い聞かせる。希美さんはふくれっ面をしたが、感心なことに駄々はこねなかった。むすっとしたまま黒犬を撫で、ランニングスタイルで出てきた姉を振り返って、アヒルのように唇を突き出した。
「どうせあたしは、いっつも置いてけぼりですよーだ」
「あんたの足に合わせてたら日が暮れるわ」
妹の恨み言を、陽美さんは素っ気なくいなす。わたしは黒犬の首輪にリードをつなぎ、陽美さんに手渡した。
「走る気満々ですね」
「陸上部ですから。……走っていいんですよね?」
『えぇぇー、かったるいー。のんびりダラダラお散歩しようぜ、お姉ちゃん』
「ぜひ走ってやってください。ほどほどに休憩を挟みながらでいいので。ダミアン、ちゃんと陽美さんの言うことを聞くんだぞ。迷惑をかけるなよ」
わたしはにっこり笑顔で答えてから、屈んで黒犬に念を押す。鬼コーチかよ、とのぼやきは聞こえないふり。
それじゃ行ってらっしゃい、と言おうとしたところで、陽美さんがまだ何か待っている様子なのに気がついた。あれ?
わたしが首をかしげると、陽美さんも困惑気味に、何かを示すような手つきをしてもごもご言った。
「えっと……あの、ウンチ袋とか……」
「ああ!」
忘れてた。駄犬が失笑したのを、咳払いでごまかす。
「どうやら元の飼い主にしっかりしつけられたようで、外ではしませんから大丈夫ですよ」
介助犬の類は昔からだが、昨今はそれ以外でも、室内飼いでペット用トイレシートでのみ用を足すようにしつける飼い主が増えている。外で排泄させると何かとトラブルになるからだ。
その辺りの事情も、もちろん陽美さんは心得ているようだ。すんなり納得して、わかりました、とうなずいた。
「それじゃ、行ってきます。ダミアン、おいで」
アイコンタクトを交わしてから、ゆっくり走り出す。黒犬は嬉しそうな軽い足取りで従った。ご苦労さん、せいぜい爽快な汗をかいてこい。
希美さんが残念そうに手を振った。
「行ってらっしゃーい。……おやつ食べよっと」
「台所におまんじゅう置いてあるから。一個ずつよ」
「はーい」
母親にも手を振り、希美さんは母屋のほうへ歩いて行く。
やれやれ、なんとか姉妹と親子をいったん引き離せた。これでクールダウンしてくれたらいいんだけどな。
わたしがふっと一息ついたのを、美里さんが誤解した。
「すみません、わがままばかり言って」
「とんでもない。二人ともいい子じゃありませんか」
社交辞令ではなく本心から言ったのだけど、美里さんは苦笑いで首を振るだけ。わたしは真顔で繰り返した。
「本当に、いい子たちですよ。謙遜の美徳も大切ですが、もっと褒めてあげてください」
「それはどうも、ありがとうございます」
……心に届かなかったみたいだ。美里さんはわたしの言葉を軽く受け流して、作業場に戻っていった。
もちろん彼女自身は、子供たちを愛しているし認めてもいるだろう。でもそれだけじゃ足りない。伝えなければ、想いはただの自己満足だ。
とはいえ現状では、わたしがこれ以上、立ち入ったことを言うのは難しい。いかに神父でも説教の押し売りは駄目だ。逆効果になってしまう。
とりあえず今日のところは、導火線についた火を消し止められただけで良しとしよう。
気持ちを切り替えて仕事を再開し、また一時間ほどが過ぎた。外の空はまだ青いけれど、壁を照らす陽光は黄金色になっている。
少し前には喜美子さんが、作業を切り上げて出て行った。わたしもさすがに疲れてきて、こわばりをほぐそうと首や肩を回す。意識すれば身体の不調を解消できるといっても、まったく疲れもしない人間は不自然だから、普段はあえて放置しているのだ。すぐ解消したいけど。わりと切実に。
ちょうどそこへ、陽美さんが帰ってきた。
「ただいま。神父さん、ありがとうございました」
「お帰りなさい。こちらこそ助かりましたよ」
散歩に行く前とは打って変わって、ずいぶんすっきりした表情だ。犬と運動の相乗効果かな。うまくいって良かった。
迎えに出たわたしがリードを受け取ると、陽美さんは作業場の外にある蛇口の前にしゃがんで両手に水を溜め、犬の口元に差し出した。トイレの件といい、ずいぶん犬の扱いに慣れた様子だ。今までにもどこかよその犬の散歩をしたことがあるんだろうな。
ダミアンは待ってましたとばかりに飲み、ぺろりと鼻先を舐める。まるきりただの犬だ。散歩の途中で入れ替わったんなら嬉しいんだけどな。
「たくさん走ってきたようですね」
「はい、裏山のほうをぐるっと」
「ダミアンは何も面倒を起こしませんでしたか?」
「全然。すごくいい子でした、よその犬に吠えられても相手にしないし」
わたしと陽美さんが話していると、喜美子さんが曲がり角から姿を現した。母屋に戻ったと思っていたけど、どこかよそに行っていたらしい。何やら手にレジ袋を提げている。
買い物してきたのでもなさそうだが……、と怪訝に思いながら待っていると、喜美子さんはずっしり重そうな袋を、わたしに向けて掲げて見せた。
「司祭様、今日は本当にありがとうございました。こんなものしかありませんけど、どうぞお持ちください」
「えっ。いや、そんな」
お礼をいただくとは思っていなかった。わたしが面食らっていると、喜美子さんは袋の口を開けて中身を見せながら、さらに近くへと差し出した。重たそうなはずだ、中に入っているのは真っ赤に熟れたトマトがいくつも。
「おー、これは立派な……!」
思わず感嘆の声が出る。店ではお目にかかれない、つやつやピカピカの瑞々しさ。
「トマトも育ててらっしゃるんですか?」
「ブドウのハウスで一緒に作ってるんですよ。一時にたくさん採れて食べきれませんし、良ければ召し上がってくださいな」
「いやぁ嬉しいな。ありがとうございます」
天使なので食料は必要ないのだが、辞退するなど考えられず、わたしは笑顔で受け取った。なんと言っても心遣いが嬉しいじゃないか。
喜美子さんからすればわたしは、司祭とは言えども子供のような年齢だ。しかも一人で古い教会を地道に修理している、気の毒な若者。まさか中身が300歳の天使だなんて夢にも思わず、せめて採れたての野菜を食べさせてやろうと考えたのだろう。
《わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである》――マタイによる福音書、25章40節。
もちろんわたしは“小さい者”ではないけれど、喜美子さんの優しさはそういうものだ。美しく善なる心に触れて、天使としては実に喜ばしい。ちょっと大げさなぐらい、にこにこしてしまう。
『どう見ても今のおまえ、ただの食いしん坊だけどな』
茶々を入れるな! いい話が台無しじゃないか。
そこへ浩平さんと美里さんがやってきたので、わたしはなんとか表情を引き締めて、二人にも頭を下げた。
「ほんの少しお手伝いしただけなのに、こんなにいいものを頂戴しては恐縮ですね」
「こちらこそ、野菜ぐらいしかなくてすみません。すごく助かりました」
「お母さん、これ、ちょっと多すぎるんじゃない? 神父さんは独り暮らしでしょう」
笑顔で応じた浩平さんの横から、美里さんが眉をひそめてきつい声を出す。喜美子さんは困ったように瞬きし、曖昧な微苦笑を浮かべた。
「どうかしら。トマトはお好きみたいだけど」
「ええ、大好物です。このぐらいならすぐに食べ切ってしまいますよ」
喜美子さんにも食いしん坊認定されていたか……陽美さんまで小さくふきだし、笑いをこらえる顔になる。まぁこの際、いっそ幸いだ。問題ありません、とわたしはうなずいて場を取り持つ。緊張しかけた空気が緩み、美里さんも険を消して、愛想よくわたしに笑顔を向けた。
「それならいいんですけど。完熟なのであんまり日持ちしませんから、帰ったら冷蔵庫に入れてくださいね」
「わかりました」
冷蔵庫か。司祭館にある古ぼけたアレ、電源を一度も入れてないけど動くかな。
わたしは重ねて礼を述べると、車のほうへ足を向けた。黒犬もレジ袋に興味津々の態度を装い、ついてくる。陽美さんが名残惜しげに手を振った。
「ダミアン、またね」
犬が立ち止まり、振り返って尻尾を振る。わたしは複雑な気分で少女と犬を見比べ、車のドアを開けた。
バックミラーに映る一家の大人たちが揃って会釈し、仕事に戻っていく。茜色の夕暮れのなか、少女ひとりだけが長い影と一緒に、最後まで見送っていた。




