梅雨時の散歩は地雷を避けて
「すみません、本当に」
「呼んでいただけて嬉しいぐらいですよ。今日は何をお手伝いしましょう?」
恐縮しきりの喜美子さんに、わたしは笑って袖まくりして見せた。
黒犬は例によって車中待機だ。雨は小降りになっているので、窓を半分ほど開けておいても吹き込む心配がない。陽美さんが帰ってきたら撫でられるだろう。
浩平さんが作業台のひとつにわたしを案内し、パック詰めの要領を説明してくれた。5房以内で、パック込み310~350グラムにおさめること。大きすぎる房は鋏で切り分けて良い。セロハンをかけて箱に入れて、五箱詰め終わったら結束機のそばに積む。
「こっちで房の掃除と仕分けをしてますけど、見落としてる悪い粒があったらピンセットで取ってください。破裂したのとか、黴の生えているのとか」
「わかりました」
「すみません、よろしくお願いします。雨だとどうしても、掃除するのに時間がかかるんですよ。ハウスだから直に雨はかかりませんが、水を吸って弾ける粒が多いし、黴も増えるもので」
なるほど。畑から採ってきたままのブドウの房は、確かになかなかワイルドな状態だ。ひとつの房の中にも、ぽつぽつと緑色のままの粒がまじっていたり、数粒まとまって萎びていたり、腐っていたり。そういう粒を美里さんと喜美子さんが取り除き、その上で重さや色形で等級に分けている。
良い等級のものを浩平さんが詰めているのは、悪い粒がもう残っていないか、下の等級にするべきものではないか、最終チェックの役割も兼ねているんだろう。
素人のわたしが任されるのは、一番出荷量の多い、普通の等級のブドウだ。
「天気が良い時は掃除もパック詰めも楽なんですが……連日の雨で、僕らだけでは作業が追いつかなくなってしまって」
「梅雨では仕方がありませんよね」
「ええ。出荷できないと、収穫できないまま駄目になるブドウもでてきますし。待っててくれませんからねぇ」
「植物に言うことを聞かせるのは、神様でもないと無理ですよ」
苦笑いの浩平さんに、わたしもしみじみとうなずく。機械で多少荒っぽく扱っても大丈夫な野菜などであれば良いのだろうけど、柔らかくて手作業でしか扱えない果物は、天候の影響をまともに受けてしまうわけだ。
人間は食べなければ生きられない。
恵み深い天と豊かな大地が与えてくれる日々の糧も、人の労働によってこそ得られるものだ。寝転がったまま手を伸ばして取り、無限に貪ることができるものではない。種々の木の実を好きにもいで食べられた(むろん例の一本は除いて)エデンの園でさえ、人は既に地を耕していたのだから。
というわけで、今は人の肉体を持つわたしも、せいぜい働くとしよう。
天使の眼と幸運を備えていれば、このぐらいは楽なものだ……と思えど、実際はやはり、それなりに手間と労力がかかった。
作業や動作のひとつひとつは苦もなくできるけれど、延々と続けていると地味にダメージが蓄積する。三十代のこの身体でほんの一時間ばかり作業しただけで、早くもあちこちの筋肉がこわばっているのがわかるんだから、四十代の浩平さん美里さんや、七十代の喜美子さんの負担はいかほどやら。
糧を得るというのはなかなか大変なことだな……。
いまさら改めて人間の苦労を噛みしめつつ、さらに一時間ほど働いたところで、気付くと外が昼間より明るくなっていた。いつの間にか雨が上がっていたらしい。夕方の四時ぐらいでも今の時期はまだ日が高いから、あちこちで水滴や水溜まりが陽光を反射してきらめいている。
「あっ、ダミアンだー!」
無邪気な声が往来に響く。どうやら希美さんが帰ってきたようだ。わたしがそちらを気にしていると、浩平さんが「休憩してください」と言ってくれたので、お言葉に甘えて手を止め、外に出た。
半分だけ開いた窓から犬が鼻面を突き出し、ドアにへばりついた少女の顔を舐めている。あのやろう。
わたしは若干ひきつった笑顔で声をかけた。
「お帰りなさい」
「ただいまです!」
元気よく返事しながら振り向いた両目が、期待に輝いている。駄犬までが、いかにも犬らしいおねだりのまなざしをよこした。
『ご主人さまー、ボクこの子と遊びたいなぁー』
神よ、そろそろお仕置きの時間なのでは?
呼びかけてはみたものの、どうやら神は他の問題でお忙しいらしい。あるいは、わたしごときでははかり知れない懐の広さでもって、この小悪党をおゆるしになられているのか。
仕方ない。わたしはため息をこらえ、車のドアを開けてやった。
ご機嫌な犬そのものの動作で悪魔が飛び出し、少女にじゃれつき跳ね回った末、雨上がりの道路にひっくり返って腹を見せる。希美さんはまったく疑いもせず、喜ぶばかりだ。
不本意ながらしばらく見守っていると、今度は陽美さんが帰ってきた。雲間から射す蜂蜜色の光を浴びてもなお、薄暗いどんよりした気配をまとっている。深くうつむいているせいで、わたしたちがいるのにも気付いていない。
『お姉ちゃんのほうは、何か学校でヤなことあったのかね?』
悪魔のつぶやきに視線を落とすと、黒犬はまだひっくり返ったまま、首を反らせて陽美さんを見ていた。たぶんそうだろう、と思ったものの返事するわけにもゆかず、わたしはわずかに肩を竦めた。
「お帰りなさい」
わたしが呼びかけると、陽美さんは足を止めて顔を上げた。そして、曖昧な顔でこくりとうなずくように会釈し、黙々と足を動かす。ちょうど中から出てきた美里さんが叱声を放った。
「陽美! ちゃんと挨拶しなさい!」
帰るなり怒られた陽美さんは、眉間にしわを寄せて明らかに不機嫌になる。それでもわたしの近くまで来ると、ぼそりと低い声で「ただいま」と言ってくれた。
いい子だなぁ。思わず頭に手を置いて祝福してあげたくなったが、ここはぐっと我慢だ。思春期の少女に、神父とはいえさして親しくもないオジサンが、うかつに触れてはいけない。
かわりに一歩下がって、黒犬の横を空けてあげた。
「ダミアンも、お帰り、って言ってますよ」
『おっ、気が利くじゃないか相棒! もちろん大歓迎さ。お帰りなさいませお嬢様、学校はいかがでしたか、お茶をご用意しましょうか』
黒犬のくだらない口上が聞こえたわけじゃないだろうけれど、陽美さんは一瞬、戸惑った表情になった。笑みを浮かべかけて、でも失敗したような、あるいは自分の反応が間違いだと気がついたような。それから結局また、自分の内に引きこもった無表情になる。
横から美里さんが不審げに質した。
「どうしたの。学校で何かあったの?」
「別に」
反抗期特有の無愛想な一言。美里さんが眉を吊り上げた直後、希美さんがあえて空気を読まない明るい声音で割り込んだ。
「ねえお母さん、この子、うちで飼ってあげようよ」
「はぁ? 何言ってるのあんたは」
美里さんは呆れたが、長女に対する不機嫌をそのまま次女にぶつけはしなかった。一度怒りが不発になって、気がそがれたようだ。一方で陽美さんは身をこわばらせ、険しい目つきで妹を凝視している。
希美さんが立ち上がり、黒犬もその横で行儀良くお座りの姿勢になった。
「だって、もう一週間経つのに、まだ飼い主が見付からないんでしょ?」
「まだ見付からないだけで、飼い主がいないわけじゃないでしょ」
「だからぁ、ずっと捜すけど、その間うちで飼ってあげたらいいじゃない。せっかくこんなに懐いてくれたのに」
『そうそう、可愛いワンコは癒やしだよ! 犬猫を10分モフればストレスホルモンの量が顕著に減少します、って実験結果もあるからね。オススメだよー。お母さんに嫌われてるお姉ちゃんは駄目でも、希美ちゃんの言うことは聞いてくれるって』
それが狙いか、この悪魔!
わたしが睨みつけてもダミアンは無視して、犬らしく尻尾を振りながら希美さんを一途に見上げている。
陽美さんが聞こえよがしにため息をついた。駄目に決まってる、と口の中でつぶやいたのは、天使と悪魔の耳しか捉えられないほどだったが、美里さんは母の知覚で察したらしい。嫌そうな顔で陽美さんを一瞥し、手を腰に当てて次女と黒犬に向き直った。
「世話できると思ってるの?」
その声音は明らかに、譲歩の余地を感じさせた。できるわけないでしょう諦めなさい、という拒絶ではない。希美さんがぱっと笑顔になり、同時に陽美さんは憤激に目を見開く。
ええい、悪魔め。人の確執と対立を煽るのはお手の物だな、くそ!
わたしは素早く思案し、こほんと控えめに咳払いして存在を主張した。娘に乗せられかけていた美里さんが我に返り、ばつが悪そうになる。わたしは穏便な笑みを浮かべ、全員を見回した。