雨の日に思い出す人(6月10日 月曜日)
ふーんふふーん・ふふーんふーん……
昼下がりの礼拝堂、わたしは鼻歌で『聖なるかな』のメロディをたどっていた。漆喰壁の塗り直した部分にやすりをかけ、手で撫でて具合を確かめる。
両開きのドアの半分を開けてあるので、外から届く静かな雨音が、ちょうどいい伴奏だ。天気が悪くて漆喰がなかなか乾かないのは不便だけど、涼しいのは助かる。
雨のかからないポーチでは、黒犬が退屈そうに寝そべっている。わたしの邪魔をしたくても中に入れないし、雨続きのため門扉のところで陽美さんを待つこともできないから、暇でしょうがないらしい。ざまあみろ。
昨日はひかり台の教会にこっそり入り込んで、ペンテコステのミサを見守った。さすがにあちらは参加者も多く、活気があって良かった。ハンドベル楽団の演奏もなかなかのものだったし、隣町の信徒は恵まれているなぁ。
大工仕事も一週間でかなり進んで、礼拝堂の中は見違えるほどになった。
ちなみに教会や礼拝堂と聞いて、海外の有名所の荘厳な写真を思い浮かべる人も多いかもしれないけれど、ここはもちろん、そんな立派なものじゃない。
土地が安いから敷地面積まずまず広いけれど、建物は質素で小さい。たぶん大方の日本人には、集会所と言ったほうが正確にイメージしてもらえるだろう。だから一人でも、なんとかなる。
祭壇や会衆席をきれいに拭いて、腐った材をひとまず取り除き、緩んだり抜けたりしたネジを締め、あちこちのドアの建て付けを直して。漆喰壁のひび割れや穴も補修した。今はチューブタイプの漆喰なんてのも売られているし、手順がわからなくても、専門の職人が動画を上げてくれているから安心だ。きれいに仕上げられた時の満足感は、なんともすがすがしい。
床下や壁の裏といった、目に見えない部分の腐食や傷みは、ちょっとばかり天使パワーを使って直しておいた。これであと十年は安泰だろう。
『つくづくマメだね、おまえさんは……もう天使クビになっても大工で食ってけるんじゃね?』
「なかなか上手いものだろう」
『うわぁ何その自画自賛、やだねぇ元気な天使サマは。こちとら雨でダウナーなのに』
ふふん。今のわたしは上機嫌だ、嫌味ぐらい華麗にスルーしてやるとも。
さて、ここの壁はこれでいいかな。カソックの上に着けた作業用のエプロンを外し、数歩下がって出来具合を眺め、悦に入る。
そこへ、外からバシャバシャと水を跳ね散らかす音がした。振り返ると、白い軽トラックが開け放しの門から入ってくるところだった。
運転席にいるのは吉田さんだ。はて、何かあったのかな。訝っている間に、吉田さんはトラックを教会の正面につけ、降りてきた。
「よう神父さん、どうだい調子は。あれだけ茂ってたのに、すっきりしたなぁ」
「こんにちは。おかげさまで、きれいになりました。今日はどうなさいましたか?」
「なぁに、杉田の泰子さんから草刈りに行ったって聞いて、様子を見に来たんだ。梅雨入りしてからずっと雨だし、大丈夫かと思ってな。どこか雨漏りしてるなら、業者を紹介するよ」
「ああ、ご心配ありがとうございます。屋根は大丈夫みたいですよ」
わたしは笑顔で答え、天井を見上げた。吉田さんも首を反らせる。頼むから変な染みとか見付けないでくれよ。……無いな、よし。
「そんなら良かった。外壁とか屋根とか頼むと、何十万、場合によっちゃ何百万も飛んでいくからなぁ」
「さすがに、そこまでの予算はありませんねぇ」
わたしが苦笑で応じると、吉田さんは礼拝堂の中をぐるりと見回して、厳しい懸念顔をこちらに向けた。
「元の状態を知らんから何とも言えんけど……特にみすぼらしくないってことは、相当頑張ってきれいにしたんだよな? 神父さん一人で、この建物全部。そういうのも、神様へのご奉仕、とかいうことか?」
「ええ、まあ、そう言って差し支えないかと」
神の家を建て直せ、という啓示は古来何人もの聖人に授けられてきた。象徴的な意味合いでも、具体的物理的に教会を建てなさいという意味でも。
だからこの日本の田舎の小さな教会もやはり、行って直しなさいと言われたのならそれは、大切な神への奉仕だ。
もっとも吉田さんが抱いている懸念は、宗教に洗脳されて奴隷奉公させられているのでは、なんて辺りのようだけど。それを言うなら、職場の慣例だの常識だのに洗脳されて、キツい無賃労働を受け入れている人間のほうがよほど心配だ。
「お気遣いには感謝しますが、そんなに大変な仕事でもありませんし、実際のところ楽しんでもいますから。ご安心ください」
わたしはにっこりして見せた。まあ実際、無給ですけどね。神への奉仕は天使の喜び、賃金労働とはまったく性質が異なりますので。ええ、文句や不満なんて微塵もありませんとも。
『人間に生活の心配をされる天使サマってのも、ちょっと情けないよなー』
黙れ駄犬。
わたしが完璧な笑顔を保っていると、吉田さんはまだ少しもやもやした様子ながらも、眉間の皺を消してうなずいた。
「うん、神父さんとこの教会がちゃんとした教会なら、いいんだ。ちょっとだけな、心配になって。一人でボロ屋の修理をさせるとか、そんな話あるのかと……あんたが神父やってるのは、親御さんも承知なんだよな?」
「もちろんです。……息子さん、音信不通だそうですね」
なるほど、わたしに重ねた息子さんの身を案じているわけか。
見抜かれた吉田さんは決まり悪げに視線を落とし、苦笑いした。
「泰子さんが話したのか。まったく、あの人は何でもかんでも……そうだよ、神父さんぐらいの歳の息子がいて、大樹ってんだが……もう十年以上、連絡が取れないんだ。昔から何でもかぶれやすいっていうか、騙されやすいやつでなぁ。ネットでかじった陰謀論とか熱心に語ったり、変な宗教っぽい本を買って瞑想だの体操だのやってたり。さすがに大学生になりゃまともになるかと思いきや、何とかってセミナーに入るとかで勝手に退学してそれっきりだ」
「それは心配ですね。捜索願は……」
「子供じゃないうえに、はっきり自分の意志で出ていくから捜さないでくれって書き残してたからなぁ。事件性もないし、駄目だった。家内はもう諦めてるのか、何かあったら警察から連絡が来るだろう、来ないなら無事ってことだ、なんつってるが」
はあ、と深いため息をつく。そしてすぐに顔を上げ、吉田さんは声音を取り繕った。
「や、すまんね、変な話をしちまった。神父さんをうちの馬鹿と一緒にしちゃ、いかんかったな。失敬、失敬」
「いいえ、とんでもない。ずっと胸に抱えている悩みは、たまには誰かに話さないと重くなる一方ですから。わたしで良ければ、いつでも聞きますよ」
神父の仕事ですから、とおどけて言い添えると、吉田さんもやっと笑顔になった。
「ありがとうさんよ。邪魔して悪かったな。それじゃ、もしほかにどこか具合悪いとこが見付かったら言ってくれ。水まわりとか電気系でも、安くしてくれるところを紹介するから」
「はい、ありがとうございます」
お礼を言って吉田さんを送り出し、トラックが雨で煙る木立の向こうに消えたところで、通信端末が鳴った。この着信音は上司じゃなくて、人界の通信だ。
慌てて取ると、つい最近登録した浩平さんからの、応援要請コールだった。