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天使が降りれば犬も来る(5月31日 金曜日)


 これはひどい。

 わたしは新しい任地をじっくり眺め回し、呆然としたのち、乗ってきた軽自動車のルーフにごつんと額をあずけてうめいた。


 時は初夏、場所は日本の片田舎にある山間やまあいの教会。草も木も元気いっぱいに枝葉を伸ばして生い茂り、空気がしっとり緑に潤っている。

 舗装された道路から少し外れたところに建っている小ぢんまりした教会は、静かな木立に囲まれて、祈りの場にふさわしい。ただし、きちんと手入れされていれば、の話で、現状は門扉にさえ辿り着けない荒れ果てようだ。

 いかに天使のわたしでも途方に暮れる。


 今、天使と言ったか、って? そう、確かに。

 熾はもちろん智とか権とか大とか何もつかない、ただの天使。ヒラ職員だ。

 廃屋になりつつあるこの教会(神の家)に赴き手入れをすること、そして近くに住む一人の信徒に導きを授けること――というのが今回の辞令。なんだけど。


「ちょっと予想以上だなぁ。電気と水道は使えるようにしておいたって言われても、これは人間が住める状態じゃないよ……」


 人間じゃなくて天使だろ? ええはい、わたし自身はね。でも今のこの肉体はれっきとした人間だし、この日本で活動する身分も人間のものだ。

 坂上・アレクセイ・まもる。日本人の父とロシア人の母を持つ35歳の司祭。

 ……どういう手段でそういうことになっているのかは訊かないで欲しい。機密なので。もちろんカトリックの組織内においても、間違いなく司祭でありながら、同時に曖昧で不思議な立場でもある。伝統と秩序、ヒエラルキーを重んじる人々に紛れ込んで、ひらひら舞う一枚の羽根といったところ。


 ただ実際、この人間はわたし自身であるとも言える。同じく神に仕える存在という点で。それに年齢も近い。いや近くはないけど、似ている。

 わたしはざっくり300歳少々、天使としては若手だ。

 ド新人ではなく、それなりに責任ある仕事も任されるだけのキャリアは積んでいる。今こうして単身で派遣されているように。

 が、部下を使って大きなプロジェクトを動かす立場ではないし、ノウハウの蓄積も足りない。だから今、一人でため息をついている。


 そして人間として活動するためには、人間らしい暮らしを取り繕う必要がある。


 もちろん天使だから、飲まず食わずでも入浴や睡眠さえ皆無でも、問題ないと言えばない。うん。だから給料も出ない……。


 ごほん。

 ともかく、それが可能だからといって人間らしくない行動をすると、色々不都合なのだ。この荒廃ぶりをものともせず住み着き、胸まで生い茂る草をかきわけて出入りしている不審な男が、どうも神父です、だとか言っても通報されるだけだろう。

 よってまず、この、行く手を阻む緑の軍勢を倒さなければならない。


 よし。問題が最初に戻ってきた。


「用意した道具じゃ心許ないな」


 独り言がこぼれた。

 来る前にホームセンターでDIY一式を調達してきたけど、まさか金槌や電動ドリルより先に草刈り機が必要だったとは想定外。鎌や剪定鋏でちまちまやっていたら、草むらに小道をつくるのがせいぜいだ。参ったな。


 ちなみにこういうものを購入する必要経費は、各種電子マネーに交換可能な天使マネーで支給される。


 ……天界のセンスについての評価は、ぜひとも寛容にお願いしたい。何しろ天地創造以来の伝統あるお役所だし、上位の役職者はすべてその時からずっと同じなんだから。

 ジョークが寒いのはしょっちゅうだし、なんなら掲示物を創英角ポップ体で作ったりもする。


 我々ヒラ天使は個人を守護するという務めの性質上、人界暮らしが長くて、現場の実態とか意識の変化にもそれなりに適応しているけれど、上の方々はかなりその、まあ、浮き世離れなさっておいでなわけで。


 たまに、たまーにだけど。あのお歴々の仲間入りをするのはごめんだな、なんて思ったり思わなかったり……いや、仕事はまじめにやりますよ。天使だもの。

 でも人界から離れて天界にひっこんだきり、個人ではなく世界を相手に働くよりは、今のままがいい。


「とか思うのも人界に染まりすぎって言われるんだろうなぁ。あー、次の査定が憂鬱だ……」

『さっさと落ちるとこまで落ちて堕天使になっちまえよ。たーのしいぞぉー』

「――!?」


 この声、いや思念は!

 身構えながら背後に向き直る。予想通り、そこには一頭の黒い犬が座っていた。

 ラブラドールレトリバー、人間の忠実な良き友。ただし中身は、付き合いの歴史だけは犬より長いろくでなしだ。


「またおまえか、ダミアン。性懲りのない」

『そりゃあ、天使の邪魔をするのが俺ら悪魔の仕事だし? 薄給の下っ端同士、仲良くしようや。あ、おまえはタダ働きだったか。ごくろーさん』

「黙れ駄犬」


 厳しく拒絶してやっても、まるで堪えた様子がない。くあ、と欠伸をして、足で耳の後ろを掻いている。わたしが人界に来て以来、こいつは何かといえば近くに現れてちょっかいを出してくれて、もはや腐れ縁だ。やれやれ。

 しかしここで意気を削がれてしまえば、それこそ悪魔の思うつぼ。よし、やるぞ。


 袖をまくり、草刈り鎌を手にして犬に背を向け、地面にしゃがむ。やってみればきっと、そんなに大変でもないさ。


 手近なところからザクザクと草を刈り、木立の奥へ放り投げていく。瞬く間に、初夏の陽気に青々とした香りが立ちこめた。

 辺りは静かで、風に揺れる梢のざわめきと、鳥の声しかしない。ここはちょうど人家の切れ目なのだ。駅前のささやかな賑わいから遠ざかり、丘をひとつ越えた辺り。周囲は森と藪と、半分がた放棄された耕作地だけ。

 次の山裾まで行くと集落があるが、この近くにはもう誰も住んでいない。草ぼうぼうで踏み入る隙もない荒れ地に、骨だけになったビニールハウスがぽつんと骸をさらしていたりする。過疎化の象徴だ。

 

 黙々と作業を続けていると、背後で犬がごろんと寝そべる音がした。


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