上:遡行
現代物理学は過去へのタイムトラベルを否定している。
つい100年前までは過去へのタイムトラベルについて真剣な議論が交わされ、実現可能だと思う物理学者も少なくなかったそうだ。
また、空想科学小説に時間遡行という小ジャンルもあった。それはまだ過去へのタイムトラベルの実現不可能性がまだ明確に示されてなく、過去タイムトラベルが一種の「青い花」として幻想的に人々を虜にしていたからと言える。
しかし、22世紀にもなると、過去へのタイムトラベルを実現するためにワームホール生成を試みるマッドサイエンティスト達は完全にいなくなり、人々の間でも過去へのタイムトラベルはフェアリーテイルと同様の扱いを受けるようになっていた。それは、過去へのタイムトラベルが演繹的に不可能だと証明されたからだ。言い換えれば、タイムパラドックスと因果律の崩壊という要素が、我々が過去に行くことを阻んでいるということが数式的に明らかになったのである。それについての論文「過去へのタイムトラベルをの不可能性」を発表し、ノーベル物理学賞を受賞したのが僕の師匠、ハイドル博士だ。
一方、未来へのタイムトラベルはすでに実現されている。高速で太陽系内を周回し続ければ、24時間宇宙船の中で過ごすだけで、10年後の地球へ戻ることができる。この方法は20世紀の頃には発見されていたが、実現には長い時間を要した。今でも一部の富裕層しか享受できない最新のテクノロジーである。
実際のところ、治療法がまだ確立していない難病の患者の何万人もが今、宇宙空間を光速の1/2の速さで移動し続けている。つい一昨年、癌の画期的な治療法が確立されたとき、何千人もが地球に戻ってきた。
僕の友達の一人もALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病を発症し、国の補助を受けて宇宙へ飛んで行った。ALSは1869年に発見されて以来、300年間が経つが、未だに根幹治療法は見つかってないない。物理学が専門である僕には薬学のことはさっぱりだが、レイが帰ってくる10年後くらいには治療法が見つかっていることを願いたい。
ここまで述べといてなんだが、僕は過去へのタイムトラベルが可能だと考えている。ただ根拠もなくそう思っているのではない。
実は、先述したハイドル博士の「過去へのタイムトラベルの不可能性」の証明には「抜け穴」があった。その「抜け穴」について詳しく述べるには僕の莫大な労力と時間が必要な上、正直なところ僕もよくわかっていないので、ここでは割愛させてもらう。
「抜け穴」の存在については僕とハイドル博士以外は知らない。
というのも、ハイドル博士の論文は非常に難解で、その正当性の確認に10年を要した。世界中の物理学の天才達が召集され、検証を行った。そして出た結論は「論文は90%正しい」だ。恐らくは30%も理解できていないだろうが、物理学者たちも見栄を張るためにそう言わざるを得なかったのだろう。
そこでムカついた博士は自分の論文を量子コンピュータに食わせて、自分の論文の論理に「抜け穴」がないかを一つ一つ確認させた。すると、量子コンピュータが見事にエラーを出した。そこが「抜け穴」だったのだ。
博士はこの「抜け穴」を発表しないことにした。すでに「過去タイムトラベルは不可能」という結論で収束してしまった物理学をめちゃくちゃにするのは、流石の博士でも気が引けたようだ。
そして僕と博士は今、タイムリープマシンを作成中だ。どういうマシンかというと、過去に向かって情報の塊を投げつける、というものだ。
これを使えば、理論上、自分の脳データを過去に送ることが可能だ。世界の因果律に反さないように僕が行動すれば、因果律が壊れることもないし、タイムパラドックスも起こらない。
*
「博士。粒子加速器の準備ができました。」
「覚悟はできているんだな」
そう言う博士の目からは不安と期待が見て取れる。
「勿論です」
「じゃあさっきやった通りだ。そこに座れ」
リハーサルは先程したばかりなのに、極度の緊張で汗が滲み出る。
「博士、次会うのはいつでしょう」
「この私と君が会うのは十年後ということになるかな。この君と私が会うのは十年前だけど」
博士のジョークで少し緊張が和らいだ。
「そうですね。さあ、僕の気が変わる前に行きましょう」
「そうするか。じゃあな、クリス」
「ええ、博士」
凄まじい重力がかかり、次の刹那、視界が暗転する。
タイムトラベル成功だ。
*
轟音で目が覚める。
僕は今、EBIE(Electronic Brain Inspection Equipment)装置の中にいる。10年前の最先端の脳検査機器だ。
起き上がろうとしたが、全身が固定されて動けない。すると、急にインターホンから声がする。
「クリスさん。検査機器に異常が発生したので一旦検査を中断します」
シミュレーション通りだ。未来からEBIEをハッキングし、僕の脳に干渉させたのだ。
僕は病院のスタッフに何度も謝られ、病院を後にした。まあEBIEが異常をきたしたのは僕と十年後の博士の仕業なんだが。
僕は十年前の懐かしい光景を目に焼き付けながら家へと向かった。七年前くらいに潰れた近所のパン屋さんが目に入った。暖かい何かが胸を込み上げてきた。僕は急いで店に入り、カレーパンを買った。レジで、白髪交じりの店長が、「いつもありがとう」と言った。胸が絞られるような気持ちで僕は店を出た。
*
僕は今、家の前に立っている。かれこれ10分以上立っている。立っているというよりは立ち竦んでいる。というのは、妻と顔を合わせる心の準備ができていないのだ。
警察に通報される前に、と自分を奮い立たせ、ドアノブを開けた。温かい風が僕を包み込んだ。
「おかえりー」
奥の方から声が聞こえた。
「ただいま!」
僕は大きめの声で言う。
何年ぶりの「ただいま」だろう。こんなにも「ただいま」は嬉しくて、明るくて、温かかったんだ。
奥に妻の影が見えた。僕はそれを見て少しの間恍惚としていた。
それを覚ますように怒号が響く。
「ちょっと早く来て!ご飯もうできてるんだから!」




