63 昭和20年7月 春香、空襲に遭う
ウ――、ウ――、ウ――。
暗夜にサイレンが鳴り響いている。
どうしてこの音は、こんなにも心を不安にさせるんだろう。
防空壕の中では、防空頭巾をかぶった子供たちが不安げに身を寄せ合っている。恵海さんと美子さんも暗がりのなかで心配そうに佇んでいた。
私の腕の中では菜々子ちゃんが震えている。恐怖に見開かれている瞳。
この子は、あの大空襲の夜を思い出しているのかもしれない。
青木先生が、
「爆弾を落としてきたら、先生が合図をするから目を閉じて口を開けるんだぞ!」
と大きな声で指示をしている。
近距離で爆発が起きると、爆風と衝撃で目が飛び出てることがあるらしく、その対策だそうだ。
石田和則くんと香代子ちゃんのことも心配になって見回すと、和則くんは妹の優子ちゃんを強く抱きしめ、香代子ちゃんは私の傍で震えていた。
腕を伸ばして香代子ちゃんの肩を抱き寄せる。言い聞かせるように「大丈夫。ここは大丈夫だから」とつぶやき続ける。
やがてどこからかプロペラ音だろうか、ゴーともボーともつかない音が聞こえてきた。
いよいよこの村にも爆撃機が近づいている……。あれほど遠くにあった戦争の足音が、とうとうここにもやってきたのだ。
まだ梅雨が明けていないけれど、雲間から今にも欠けそうな月が姿をのぞかせていた。
ほかのみんなの目には見えていないだろうけれど、私の目にはその雲の下に銀色の爆撃機が見えている。――あれがB29なのだろうか。
この近くには軍の施設はなく、空襲に備えた高射砲も無ければ、機体を下から照らすサーチライトのようなものも無い。
灯火管制により村には明かりが1つも見えないはずだし、果たしてあの飛行機から村の様子は見えているだろうか。
7月7日の夜空を飛ぶ1機の爆撃機。どこか絵になるようなその光景。――B29は、幸いに爆弾を投下することもなく飛び去っていき、夜が明けた。
◇
次の日、厨房で作業をしていると、お勝手口から隣組の石川のまささん(この地方には鈴木とか、石川さんが多い)が回覧板を持ってやってきた。
「いつもすみません」
といいながら受け取ると、まささんが、
「なんでも宇都宮の方では伝単がまかれたみたいですよ。それで緊急疎開になるとか。……ないとは思うけど、しばらくは宇都宮に行かないほうがいいと思いますよ」
「ご心配なく。今のところそういう用事はないですから。……それにしても伝単ですか」
伝単っていうのはビラのことだ。
連合国軍の爆撃機が、そのビラで宣伝工作をしてくるほか、次の空襲目標の都市を予告していると聞く。実際に、予告通りに空襲になっているらしいから、間違いなく宇都宮は近いうちに空襲されるだろう。
「この前はここにもきましたし、これからどうなるのか……」
とため息をつくまささんに、口に人差し指を添えて、
「まささん。下手なことは言っちゃ駄目。ここがお寺だとはいっても、どこに誰の目があるかわからないんだし」
そうですねと頭を下げるまささんに微笑みかけながら、他人事じゃないんだよねとも思う。
昨年から本格的にはじまった空襲は、以前は軍事施設や工場を目標にした精密爆撃だった。けれど、それが3月の東京大空襲から無差別なものに変更になっているらしい。
5月頃、ドイツが降伏してから少しの間は空襲も落ち着いていたけれど、すぐにまた再開されている。
おそらく連合国としては戦争を終わらせるには無差別爆撃を行い、民衆や政府を動かすしかないと考えているんじゃないかと思う。
ただね。悪いけれど、民衆には政府に訴えかける力は完全に削がれてしまっていると思う。特高警察もいるし、憲兵隊も目を光らせているわけだし。生活が汲々になりすぎて、革命など望べくもないだろう。
帰っていくまささんを見送り、午後に使う道具を取りに外の倉庫に向かう。
今日はこれから麦や夏野菜の収穫に行く予定になっている。待ちに待った収穫の夏だ。これで料理を増やすことができる。
空を見上げると、今日もまだ曇り空。まだ梅雨は明けていない。
それでも雨は降らないだろう。いい収穫日になりそうだ。
一人ほくそ笑んで、私は外倉庫の扉を開けた。
◇
麦わら帽子がチクチクする。帽子の藁の香りが夏の訪れを教えてくれるような気がした。
収穫期を迎えた作物は麦のほかに、トウモロコシ、キュウリ、ナス、枝豆などなど。
日々、大きくなっていくその実に、今か今かと待っていた子どもたちが、嬉しそうに畑に潜り込んでいった。
「見てみて。大きい!」
「すっげぇ」「これもいいのかな?」
あちこちから聞こえる子どもたちの声に、一緒に作業に来た安恵さんも微笑んでいる。
私ももちろん楽しい。あ、そうだ――、
「いい? ナスはトゲがあるから気をつけるのよーっ」
大きな声で注意を促すと、何人かが「はーい」と返事をした。アレ、思いのほか痛いからね。
不意に服を引っ張られて下を向くと、菜々子ちゃんが私を見上げていた。
「私も採りたい!」
「そうだね。じゃ、一緒に行こうか」「うん」
ここには泰介くんと景子ちゃんの兄妹も来ている。きっと今ごろはどこかで仲良く収穫作業をしているだろう。
「じゃあ、安恵さんは子どもたちの集めた野菜をまとめておいて下さい」
「了解です! ……どうぞごゆっくり」
片手を挙げて挨拶をして、私はキュウリの区画に向かった。
「ここをこうして。……はい」
菜々子ちゃんの手の届くところのキュウリを手に取り、蔓の部分に剪定ばさみを当ててから、あとは菜々子ちゃんに切ってもらう。
「上手にできました」
採ったばかりのキュウリを菜々子ちゃんに手渡すと、両手で捧げるように持ち上げて、嬉しそうに笑っている。
「じゃあ、安恵お姉さんの所に持って行って」「――うん!」
駆けていく菜々子ちゃんを見て、私も気合いを入れた。さあ、やるぞっ。
次々にキュウリを採っては、持って来た籠に入れる。色も大きさもいい。身も詰まっているようで、冷やして食べると美味しそうだ。
味噌はまだ余裕があったから、今日のご褒美でキュウリを冷やして子どもたちに出しても良いかもね。
作業をしていると、キュウリの列と列の間から、ひょっこりと和則くんと優子ちゃんが姿を見せた。「あ、いたっ」
優子ちゃんがトウモロコシを持ってやってきた。
「見てみて。先生、こんなに大きいよ」
「本当だね。――これね。ゆでても美味しいし、取り立てなら生でも食べられるんだよ。乾燥させて粉にしてもいいし、甘みがあるから楽しみ!」
「うん。楽しみっ」
ふふふ。みんな楽しそうで良かった。
ここのところ暗い話題ばっかりで、子どもたちの雰囲気も暗くなってて心配だったけれど、今日の作業で少しは明るくなるだろうか。
村の子たちも今日は収穫作業をしているはず。今度、共同で学芸会みたいな名目で収穫祭を企画してもいいかもしれないね。
菜々子ちゃんが戻ってきた。小さいあんよでよいしょ、よいしょと歩いてくる。――が、その足がふと止まった。
私の耳に、遠くから何かのエンジン音が聞こえる。菜々子ちゃんは東の空を見上げている。その方向に視線をやると、遠くの空に小さく飛行機の姿が見えた。
ぞわりと身の毛がよだつ。
「――みんな! 急いで畑に隠れて、地面に伏せなさい!」
大声を上げると、辺りの笑い声が一度に消えた。「急いで! 敵の飛行機よ! 伏せてー!」
再び声を張り上げると、途端にあちこちでざわめきが聞こえる。
くっ。なんでこんな時に。しかも空襲警報はどうしたっての。なぜ鳴らないっ。
そう思ったとき、すでに射程に入ってきていたのだろう、機関銃を撃つ音が聞こえてきた。
タタタタタタタタッ。タタタタタタタタッ。
バババババッと銃弾が連続して地面に当たる音。それがだんだん近づいてくる。
――って、菜々子ちゃん!
呆然として空を見上げている彼女に気がついて、急いで走る。
銃撃の音が近づいてくる。必死で手を伸ばす。お願い、間に合って――!
がばっと彼女を抱えて地面に飛び込んだその瞬間、私の頭のすぐそばを銃弾が通り過ぎていく。
「くっ。――この」
そのまま震える菜々子ちゃんを必死に地面に押しつける。頭上を通り抜けた戦闘機は、グウウウーンと音を上げながら空高く上がっていき、ゆっくりと旋回してきた。
また撃ってくるというの?
この子を。幼い子どもたちを、そんなにも殺したいの?
そう思ったとき、心の底で何かがはじけた。ずっと溜まっていたどろどろとしたマグマが噴火するように、激情が吹き上がる。
すべてを亡くした子どもから、まだ奪おうというのか!
そんなにも幼い命が欲しいのか!
気がついたら私は立ち上がっていた。
戦闘機が真っ直ぐに、こっちに向かって飛んでくる。銃撃が線を引くように近づいてくる。
突き刺さる銃撃。吹き上がる土砂。はじけ飛ぶ葉っぱ。
怒りで頭が真っ白に染まる。ふざけるな! ふざけるな! ふざけるな!
戦闘機をきっと睨みつける。操縦士と目が合った気がした。
「いい加減に……、しろおぉぉーっ」
突き動かされるままに感情を爆発させ、私は力一杯さけんでいた。
怒りがぶわっと広がっていくような感覚。
私の頭上を戦闘機が通りすぎた。風がごうっと吹き抜ける。――銃撃はピタッと止まっていた。
次の瞬間、空に閃光が走った。すぐにゴロゴロと鳴り出す。強い風が吹き出したのか、ゆっくりと雲がうごめきはじめ、再び雲の合間から稲光がほとばしった。
これは……、天帝釈さまの援護だろうか。
再び空高く上がっていった戦闘機は機首を南に変えると、そのまま飛び去っていく。
はあ、はあ、はあ……。
荒げる息を整えながら、飛び去っていった南の空を睨みつづける。子供たちを殺させてなるものか。
その時、おそるおそるといった様子で、
「春香、先生?」
と声が掛けられた。
振り向くと安恵さんがこっちを見ている。その向こうには畑の緑の中から子どもたちが、ピョコピョコと頭を出していた。
あっ、いけない。――やりすぎただろうか。
「そうだ。みんなケガはない? それに――、菜々子ちゃんっ」
あわてて足元の菜々子ちゃんを見下ろすと、菜々子ちゃんは地面に座って、ちょこんと私を見上げている。
「よかったぁ。無事だったんだ~」
へなへなと腰が抜けて、その場に座り込んだ。
菜々子ちゃんを抱きあげて、小さな身体にケガがないことを確認し、ほっと肩の力を抜く。そこへ子どもたちが集まってきた。
「みんな、ケガは――」と言いかけたとき、安恵さんが、
「春香先生! なんて無理をするんですか!」
と顔をいからせて怒鳴ってきた。「あ、ごめん」と素直に頭を下げると、深くため息をついて首を横に振ると、
「でもまあ、みんな無事みたいですよ。春香先生のお陰で」
と微笑んだ。
「すげぇ! 春香先生すげえ!」「戦闘機を追い払った!」
男の子が興奮して叫ぶ。
「偶々だよ。ほら、きっと機関銃が詰まったか何かしたのよ」
と言うと、気持ちを切り替えたのか、安恵さんが冗談っぽく、
「いやいや。あれは春香先生の気迫に負けたようにしか……」
……。これは嫌みかもしれない。
「あのね。本気でやめて」「え~」
まだ興奮しているせいか、やり取りがちょっとお馬鹿っぽい。でもまあ、みんなが無事で良かった。
地面に伏せたせいであちこちに土の跡の残る子どもたちを見て、守り切れたうれしさに笑顔になる。
――その数日後、香織ちゃんが清玄寺にやってきた。
「奥様! 聞きましたよ! なんでも敵の戦闘機を叱りつけて追い払った女傑だってすごい評判ですよ!」
思わず私はがくっと脱力した。




