29 昭和18年10月、夏樹、アラカン越え
朝からですみませんが、死者注意。
昭和18年の1月、俺たちはイラワジ川西方にあるアラカン山脈の山道にいた。
この山脈を横断した先、ベンガル湾沿いの要地であるアキャブを狙って、英印軍が上陸してきたのだ。
アキャブには少数の部隊が防衛していたんだが、今ごろは必死の防衛戦が繰り広げられていることと思う。
南方軍はすぐに増援を派遣することを決定。その支援命令が俺たち弓第33師団の輜重兵第33連隊第1および第2中隊にも下ったのだ。
『戦史叢書 インパール作戦』より
物資輸送のためには馬だけでは足りない。そこで山脈の入り口ポークの村近辺で300頭の牛を買い入れた。
ビルマの牛は、明るい灰色から白っぽい体毛をしていて模様はない。中には黒っぽい体毛の牛もいた。
ビルマの人にとって牛は家族も同然。そのため買い入れられたのは、年老いた牛や痩せた牛ばかりだったが、これは仕方のないことだろう。
もともとは農耕用だったので荷物を背中に載せたことがないらしい。短い期間で訓練はしたものの、せいぜい40キロの荷物を載せるのが精々だろう。
結局、俺たちもいくらかの荷物を手分けして持っていくことになった。いわゆる人力輸送って奴だ。
その上で1人で2頭の牛の手綱を持って後ろから追いやり、一列になって山道を登る。
俺たちの横断ルートは、途中、3000フィートの高峰を越え、行程300キロメートル以上となる予定だ。
目の前にはまるで日本アルプスのような山々が立ち塞がっていた。
◇◇◇◇
ビルマ平原を背に登り続け、いくつもの山の峰を登っては谷底におり、開いた場所を探しては野営を重ねた。
標高が高くなるにつれ気温がどんどん下がっていく。
確かに1年のうちでも涼しい季節だけれど、それでも数日前まで真夏のように日中は30度を超えていたわけで、今では一気に真冬になったような気温になってきた。
想定外の寒気に、みんな夏用の軍衣しか持って来ていないので、仕方なく上から耐水仕様の外装を着ている。少しでも体温を奪われないようにしないと……。
「うぅ、寒い」
増田の吐く息が白い。すでに寒いどころじゃなくて、凍るような冷気になりつつあった。ここはミンダサカン山の頂上付近。
周りに広がる岩場では、雪が地面にこびりつくように積もっていた。おそらく風が強すぎて吹き飛ばされてしまうのだろう。
小休止となり、風を避けるために牛の影に数人で集まったはいいものの、歯の根がガチガチと震えてしまい、とても休憩できる状態じゃない。
火を起こそうにも、運悪く風に雨と雪が交じりだして来てしまっていた。
幸いに起伏はゆるやかで、はげ山のように遮るものはない。稜線を一直線に牛たちが並び、その傍に点々と将兵が集まっている。
増田は寒さに真っ赤になった顔で、足踏みをしながら、
「腹の底まで冷えちまった」
同じく一緒にいる山岡一等兵が、手袋をした手を盛んに擦り合わせていた。
「俺もだ」
たしかにここまで寒いとは全くの想定外だった。一旦戻って冬装備に変えられればいいんだが、一度命令が下された以上はそれはできない。天皇陛下のご命令も同然だから。
俺も手を擦り合わせながら、
「松明で火を持ちながらいったらまずいか」
と言うも、
「燃やすものがねえよ。……ランプだって暖かくなんねえだろ」
と増田に突っ込まれる。
しかし、どこかで暖をとれるようにしないと、俺たちもそうだが、牛ももたないぞ。
山岡が中隊長殿がいるはずの先頭を見ながら、
「ともかく早く谷間に降りて風だけでも避けないと、このままじゃ遭難しちまうぜ」
とつぶやいた。
「しゅっぱーつ」
前の方から声が聞こえる。
「んじゃま、行きますか」と増田が離れていった。
俺は自分の牛の手綱を握り直し、「さあ、行こう」と牛に声を掛けた。
幸いに2頭ともゆっくりと歩き出してくれたが、すぐに後ろの増田から慌てたような声が聞こえる。
「おいっ、行くぞっ。ハイノーッ」
必死な声に何があったのかと振り返ると、どうやら1頭の牛が座り込んで動かないようだ。
「がんばれ。ほらっ」
声を掛けるが、牛はただじっと明後日の方向を見ている。増田が手綱をぐいっと引っ張ってお尻を叩くも、迷惑そうに小さく一声だけ鳴いたきり。
「どうした?」
すぐに小銃を持った護衛小隊の人たちがやってくる。増田を見て、すぐに状況がわかったようだ。
増田に、牛から荷物を下ろすようにいい、動かなくなった牛は彼らが連れて行くという。
重々しくうなずいた増田が牛から荷物を下ろし始めた。
おろした荷物のうち半分をさらに分けて、俺の2頭の牛に載せることにした。……重いだろうが、耐えてくれよ。
牛は、どこか諦めたように頭をさげていた。
「先行ってるぞ」
と声を掛け、俺は行軍の列に戻る。この牛たちも何かを感じているんだろうか。
風が一段と強くなってきた。ひゅうおおおおと、魔笛のように空気を切り裂くような音。吹き付ける風に、俺は襟を立て直す。
しばらくして、その風に紛れて後ろからズダーンと銃声が聞こえた気がした。
烈風にあおられたみぞれ雪が、まるで弾丸のように俺たちの身体を打つ。外装にダダダタと当たり、べちゃりと融けかけた雪がへばりつく。
急激なみぞれ雪に、前を歩く山岡が、
「マジかよ……」
と嘆息して空を見上げた。俺もつられて空を見るも、頭上の雲はまるで中に竜が潜んでいるかのように、どす黒くうごめいていた。
山岡と目が合った。
「これ、まずくねえか」
まずいよ。こんな状況で身体なんて濡らしたら、一気に体温が下がってしまう。
けれどもどうにもできない。
もはや寒いというレベルでは無く、身体の芯まで冷たくなってしまい、身体の中にまったく熱がなくなってしまったかのようだ。
手が重い。足が重い。冷気が肌を突き刺している。頭の働きも鈍くなっていく感じがした。
はあはあと息を吐きながらも、ともかく一刻も早く次の谷間に降りたいと、みな必死で牛を急がせていた。
幸いにも穏やかな起伏がつづき、はげ山のように障害物も無い。この風とみぞれ雪、そして、寒ささえなければ……。
「ハイノーっ、ノアハっ」
必死に牛に声をかけていると、今度は前の方で、
「あっ」
誰かの叫び声が聞こえた。
前方の列から、山の斜面を、一頭の牛が転がり落ちていった。
ずざざざ―と砂利を巻き上げながら谷間に落ちていく牛。……かわいそうに。あれは助からないだろう。
いや、もとから食料が無くなったら、この牛を殺して食料にする計画だったから、結果としては変わらないのか。
手綱を握っている2頭の牛を見る。
自らの運命を悟っているのか、感情を感じさせない大きな目で俺を見つめ返している。
手をのばして、後頭部をガリガリと掻いてやる。「がんばれ、な。がんばれ」
動けなくなったらその場で処分されてしまう。こいつらは最後まで大丈夫でいてほしい。
2頭ともそうしてやると、ぐいっと俺の手に頭を擦り付けてきた。
歩く足に力が戻ってきただろうか。
少しほっとして、再び前を向いた時だった。
「おい。あそこに誰かいるぞ!」
中隊長殿が何かを見つけたようだ。すぐに本部付きの将兵3人ほどが走って行く。
「小休止だ!」
再び行軍が停止した。と同時に、さっきまで強く吹いていた風がふっと止まった。風がなくなったせいか、雪がハラハラと降りてきている。
どうやら倒れていた奴がいたらしい。衛生兵が呼ばれ、1人の兵士を2人がかりで抱えてこっちにやってきた。
そのまま後方へと連れて行くようだ。病院送りだろうか。
すれ違い様に見たそいつの顔は、血の気を失った真っ白な顔をして、眉毛や頭にうっすらと雪が積もっていた。
これは……、病人じゃない。すでに死んでいる。
ポタッと俺のそばで何かが落ちた。軍隊手帳だった。落ちた衝撃でぱらりと開いたページには、平山と名前が書いてあった。
「落ちたぞ」
と言って、衛生兵を追いかけて手渡した。「すまん」
戻ってきたところへ増田が後ろからやってきた。
「おい。今の――」
「凍死だ」
「……そうか」
他人事じゃない。もしかしたら、次は自分の番かもしれないと思っているんだろう。
黙りこくってしまった増田の肩を叩いた。「ともかく行くしかないんだ」
増田は俺を見て「ああ」と返事をすると、そのまま自分の牛の所ヘ戻っていった。1頭になってしまった自分の牛の所ヘ。
空は相変わらず黒い雲が広がっている。山を進む一行に、静かに雪が舞い降りる。
「しゅっぱーつ」
平山の装具を回収し終えたのだろう。再び行軍が始まった。
それからどれくらいたっただろうか。何頭もの牛が動かなくなり、行軍の列からも遅れる奴も出てきたが、ようやく俺たちは谷間に入ることができた。
野宿となり数人ずつ集まってグループを作って、火をおこし始める。
谷間に、ポツンポツンとたき火の暖かい光が灯っていく。牛も近くにあつめて暖を取らせている。
「あったけえ」
増田が、そう言いながらたき火に当たっている。
山岡は疲れて地面に座っているが、その地面も氷点下に近いくらいに冷たくなっていることだろう。
「それにしてもすげえ所に来たな」
つぶやく山岡に相づちを打ちながら、
「ああ、こんなに寒いとは思ってもいなかったな」
というと、増田が苦々しげな顔で、
「牛は1頭になっちまうし……」
「だが、あれはお前のせいじゃないだろ」
そう言ってやるが、増田がかぶりを振った。
「そうは言うけどな」
山岡がぽつりと、
「――他にもたくさん死んじまってるさ」
と指摘すると増田も黙り込んだ。
そう。中隊の連れ来た牛はすでに4分の1が動かなくなったり、谷底に落ちたりしていた。
「そもそもが、こんな山を牛じゃ厳しいんだよ」
山岡の言葉を俺たちは黙って聞いていた。
ここから見上げる山頂は、闇の中に雪がほのかに白く浮かび上がっている。
人間社会から隔絶したような雪山。
このアラカン山脈をずっと北にさかのぼると、あのヒマラヤ山脈につながっているのだ。
俺は知っている。
険しい山はどこであれ、幾多の人々が命がけで通り抜けてきたことを。山の中での生と死は、背中合わせなんだということを。
その日の夕方に珍しく副食が臨時に配給されてきたが、それは牛の肉だった。
これから戦記物としての描写が多くなります。が、本作品の読者層を想定しますと、おそらく皆さんの肌にそぐわないエピソードが続くと思います。
そこで、
タイトルに「夏樹」とあれば、戦争の描写
「春香」とあれば、村のお話
となりますので、適宜飛ばしてお読みくださいますようお願いします。




