再会。
過去をなくしたい僕は彼女のゲーム、そして思い出を探し始めた。
休日、わざわざここまでやってきたのは「ゲーマー」だからだ。
これまでずっと僕の人生は、ほとんどが趣味のゲームで占められていた。今日だって、なにか適当なゲームを買うという不確かな動機で、秋葉原にまで足を運んだ。
しかし、大好きなゲームが僕に与えてくれた思い出の中身など、今の「危機」なんかに比べればたいしたことのない、色あせたものばかりだった。どうしてもそう思える。だから、趣味が原因で絡まれた‐秋葉通いのオタクに見えるので絡まれた‐のならゲームなんかやってこなければよかったんじゃないか、と否定的な結論になってしまう。
人は自分の辿った過去の思い出から今の位置に至る。じゃあ、それらはすべて無駄だったんじゃないのか。僕はこんな位置には着きたくない。
いや、この事態のいちばんの原因は、意味不明な理由でいつまでも集って来ているこいつらだ、となんとか考え直した。
昼と呼ぶにはまだ早い休日の秋葉原。日当たりの悪い路地裏で、僕は動けなかった。
絡まれている。自分よりも年下に見える4人の連中にぐるりと取り囲まれている。彼らがここまで僕に絡んだ言い分がある。
なぜか僕から『ちょっと遊ぶ金がほしい』らしい。
道端でそう急に言われた僕はひたすら無視して歩き続けた。しかし、なおもそいつらはしつこく付きまとった。振り切ろうとして焦り、迷い込んでしまったのは行き止まりの場所だ。
だれも通りかかりそうにない路地の壁際で、不良達に囲まれている様は、まさに袋のねずみだろうな、と情けなさが心に張り付いてくる。
ほとんど黒に近い地面を凝視しながら、僕は今までの出来事を思い出す作業を繰り返す。こんな回想で目の前の事態がなくなるわけじゃないが、少しでも現実を遠ざけたくて、自分がしてきたことについて、色々と頭をいっぱいにして逃避してしまっている。
……いつまで僕はこうしてるつもりなんだ。もともと悪いのはこいつらで、僕は完全に被害者なんだ。だったら押し黙っている必要はない。非難してもよいのだ。
「お、おまえらなんかに、払う金ないから……、お、親からお小遣いでも、もらってろ……」
だんだんと現実逃避にも嫌気がさしてきた僕は、なんとか、体に力を入れて、顔を伏せながらも連中に抵抗を試みた。
と、それを聞くなり男のひとりがなんだか催促するみたいに、もうひとりの胸のあたりを肘でつついた。僕は顔を上げて様子をうかがう。なんだろう……なんか奇妙な空気になってきている。なにをしているんだ?
胸にぬぐいがたい不安が増えていく。
やがて、ひとりの不良の右手になにか鈍く光るものが握られた。
一本の短めの金属製の刃物‐ナイフだった。
僕は呆然として、突然出てきた凶器を見つめる。
は? なに、……なんだこれは? なんでこんな物騒なものが出てくるんだ? ただのカツアゲなんじゃないのか? それとも「オタク狩り」って武器まで使ってやるのか? 金がほしいからって人殺しまでするのか?
刺さりどころが悪けれ ば死ぬんだぞ?
僕は身体の底からどんどんと恐怖に塗りつぶされていった。
さっき僕のうちにあった抵抗の意思も小さくなって、消えていく。こんな異常なやつらに関わっていられなかった。すぐに金を払えよ、さっさとしないとササレルぞ、と自分に言い聞かせるように何度も心に響かせる。けど、まだ手足はそろって現実を受け入れ切れていないようだ。いや、あるいは受け入れすぎたのか、自分の意思とは関係のない震えでぎこちなくがちがちとしか動かない。
そして目も見開いたままで、ナイフに釘付けだ。いちいち振り上げてくるナイフの軌道をただ追うだけだ。
今は僕の顔の付近にあるそれは、薄暗い路地の黒にいびつな光を放っていた。僕はその恐怖の対象からなんとか視線を外そうとする。このままじゃだめだ、目に映るものを変えないと一生動けないぞ。なんとか引き剥がす。他のものを見ようと視界を広くして‐
そのとき、人影が見えた。
「それ」がこちらに近づいてくるのに僕が最初に気づいてから、遅れておそらく足音で自分を襲っていた不良達も気づく。
連中の背後にいるのは‐‐女の人だ。
薄暗い路地のアスファルトに立った女性は、まわりの地面の色より濃い黒のスーツを身につけている。それよりさらに暗い色のさっぱりと切りそろえられたショートカットは、凛々しく見える面持ちによく似合っているなと、こんなときですらも印象的だった。
いきなり登場した女性の右手にはスマホのようなものが握られており、胸のあたりにまで揚げられている。でも、今は操作しているわけじゃなさそうだった。その青色の瞳はスマホには向かずに、まっすぐにこちらを見据えていた。
突然の出来事に身動きもとれずに僕は見つめているだけだった。いや、どうやら自分だけじゃない。まわりのやつらも彼女に半身になって、それから動いていなかった。
ハイヒールの踵をこつこつ鳴らしながら女性はこちらへと少しずつ間を詰める。いちばん近い不良の目の前にもうあと4歩ほどで迫る場所まで来て、次の瞬間、声を発した。
「すみません、ここ、どこですか?」
その不良に向かってか、それとも、他のだれかに言ったのか、訊ねるようなことを口にする。
なんだか明るいよく響く声で言われたせいもあるが、その場の空気は、確かに変わった。
違和感があふれた。その発言は緊迫した雰囲気にひどく合わない。当然、この僕の危機的状況を感じ取れているのなら、質問じみている内容のその発言はおかしい。
そして危ない連中と関わり合いになりたくないから話を逸らしているだけでもないだろう。歩いている途中からすでに危険を感じとれているのだったら、そもそももう逃げている。単純に道を聞きたいだけならなおさらだ。そのまま近寄って、わざわざ話しかけてきたのはおかしい。よって、この状況に積極的に関わりたいのだ。
もしかして、まったく気づいていないだけ? それとも、とぼけているだけで不良の知り合いとか。そうとも思えない。
いちばんの違和は、口を開いた彼女自身の様子だ。
さっきと同じくおろさないままのスマホ。変わったのはそれを支える身で、なぜか挑むように前かがみになっている。表情は険しい。そして、目にうつる何かを切り裂けそうなくらいに鋭い、まるで刃物みたいな瞳。あの不良の持っているナイフなんかかすむ剣呑な光を放つ。そんな眼で、あの明るい調子で、あんなうかがうような発言ははっきりとした異常なものだ。
つまり違和感の原因‐‐彼女のあの質問は緊迫した彼女自身の雰囲気と恐ろしく合っていないのだ。
そして、不良共にも、それは気づけただろう。凶器まで出していたのだから、路地にだれか目撃者が来るのを恐れていたはず。そんなときに現れた彼女を懸命に見定めて、違和感にはいっそう過敏になる。僕の感じたそれよりはるかに不気味に見えているはずだ。
そうしてこの状況を最大限に警戒するのは無理もなく、今もまだ僕と同じで動きを見せていなかった。そこで‐‐
「あ、あの、助けてっ……」
僕は思わずその静寂に割って入っていた。
こちらからは暗がりの彼女の顔だってよく見えない、でも、なぜか思えたのだ。彼女が自分のためにここに来てくれていると。
勝手な願望だったのかもしれない。
しかし、その願望の原因は、恐怖であきらめきっていた心がそのとき不意に動き出したからだ。どうしてかわからないけれど、自分の過去までも否定していた気持ちが、肯定できる部分を探し始めていた。希望ある可能性を求めていた。声を出したくなったのだ。助かりたいと。
その僕の叫びが聞こえたのかはわからない。でも、そこで、彼女は鋭い声でまわりのやつらに警告した。
「なんなら私、警察に訊いてもいいんですけど」
さっきの明るい質問の声色からは冷たく変質していた。スマホの指がかすかに動いた気がした。
やがて、先ほどナイフを指示した一人の不良が「おい、行くぞ」とあたりを見回して言い放つ。
何食わぬ顔で彼女の横をすぐに通り過ぎていく。それに遅れて残りの三人も急いで合流する。
なんだかまるでペンギンの行進みたいだな、とふと思えた。
早足で女性のそばを抜けた不良達はみるみるうちに遠ざかり、路地と外の道路の境まで着くと、そこでペースを落とし、そのまま出て行った。
彼女はそれをじっと目で追っていた。
連中が戻ってくる気配はなかった。
僕はへたり込んだ。彼女のおかげで、自分の脅威がいなくなったという事実に、身体からは緊張が抜けてしまい、その場でなよなよと崩れてしまった。ここまで身をなんとか立たせていた芯がふっと消えたかのような喪失感に襲われたのだ。
「大丈夫?」彼女も僕のすぐ眼前に座り込んでくる。
その顔を近くで見上げた僕は、とっさにお礼が言えなかった。たしかに、まだ身体から恐怖が抜けきっていないのもあるが、意志の強そうな彼女の顔を目の前にして、ふつふつと感謝や恐怖以上の感情が湧き出ていた。それは驚きと、そして懐かしさだった。
「ケガとかない?」
僕は彼女の顔を知っていた。さらに名前も中学時代の部活も住んでいたところも、どのジャンルのゲームが好きなのかまでも、お互いに知っていた。
口にした言葉は、感謝ではなくて‐
「ひ、ひさしぶり」
「うん、ひさしぶり、中学の卒業式以来だね」彼女もいつから気づいていたのかそれを認める。
中学時代には同級生として一緒に遊んだ彼女は、今は僕を助けてくれた命の恩人としてそこにいた。