第一話 2
結局、授業なんてまともに聞いてられたもんじゃなかった。
英語というかお経めいていたカキザキの英語はもちろんのこと、他の授業も意味不明な単語の羅列にしか聞こえず、ただただ苦痛で、腕の中に頭を埋めて眠りにつくことに全神経を集中させるのが一番マシだった。
普段の俺は決して授業についていけない落ちこぼれの類ではなく、どちらかと言えば授業態度は真面目で、成績もまあ最低でも上の下くらいは維持していたくらいだ。しかし今日に限っては、授業を聞いているだけでもただただ苦痛だった。
国語のムトーなんかは「お前、体調悪いなら保健室いくか?」と真顔で心配してくる始末で、俺は苦笑いしながら「すいません、今日はなんか頭がボーっとしちゃいまして」と返すしかなかった。
実際、授業中に何度か眠りに落ちて、その度にとても嫌な夢をみたような気がしたが、やっぱりその内容は全く覚えていなかった。
「やっぱり、熱はなさそうなんだけどなあ」
昼休み。
モシャモシャと味のしない弁当を食べる俺のデコに触れながら犬山は首をかしげる。
「まあ風邪だからって熱が出るとは限らないし。本当、今からでも保健室行ってきたら?」
草薙もまた俺を気遣うように俺の顔色を伺っている。ちなみにこいつのノートは女子並みにきっちりキレイに整っていて大変有用だったため、奴の机のかたわらにはちょこんと食後のコーヒー牛乳が置いてある。税抜き一〇〇円。地味に身を削られる思いではある。
「んー……ホント、なんか、ただただダルいんだよなあ……」
俺は困ったようにため息をつきながら卵焼きをかじる。今日に限っては、大好物の卵焼きでさえ砂っぽい味しか感じられなかった。
とはいえ、食欲自体はないわけではなく、決して食べ物自体を受けつけないというわけではない。姉の作ってくれた弁当でもあるので、今日もいつも通り残さず食べる。今食べている卵焼きが、最後の一口だ。
「一応、最終的にどうするのかを決めるのはユーリではあるんだけど……本当に、マジでムリだって思ったその時点で、すぐ保健室に行きなよ」
ああ、悪いな。という調子で犬山の言葉に頷き、卵焼きを飲み込んで弁当箱を閉めようとした――その時だった。
「ところで狹間田」
神妙な面持ちの、草薙が問いかけてきた。
「なんでキミ、鶏肉食べないの?」
俺は思わず手を止めて、草薙の顔を見た。最初、なにかくだらない冗談でも言っているのかと思った。だって、俺の今日の弁当には鶏肉なんて入っていないのだから。
「いや、食欲ないなら無理して食べることないけど……」
しかし彼の表情から、冗談の気配などは全く感じられない。むしろ、なにかとても不吉なものを見てしまったかのような、そんな畏れのようなものさえ感じる。
「ただ、鶏肉以外は全部食べてたみたいだから、どうしたんだろって思って」
俺は恐る恐る閉じかけていた弁当箱を開いた。多分、その手は震えていた。
果たして――鶏肉はあった。
照り焼きの、一口サイズに切られたやつだ。それが二口分くらいある。
俺は眉をしかめて弁当箱を凝視する。
こうして一度目撃してみると、気がつかなかったこと自体が意味不明なくらいだった。
ただ、こうして一度見つけてしまうと、確かに覚えがあるのだ。その鶏肉があったところに、まるでモヤでもかかっていたかのような、そんな違和感があったような、そんな気がしてくる。
額から頬にかけて、じっとりとした汗が流れ落ちた。
「ユーリ、鶏肉嫌いだったっけ?」
それならアタシ食べちゃおっかなーと、冗談めかして犬山が言う。間違いなく、犬山もこの場の空気を畏れている。
「ま、待て待てっ! ……俺、実はすげー鶏肉とか大好きなんだよー」
いやー大好物は最後まで取っておく主義でなー! 照り焼きとかホント愛おしすぎてペロペロしたいくらいだしなー!
白々しい軽口を叩きながら、俺は箸で鶏肉を掴む。
傍からみたら、まず間違いなく美味しそうに見える鶏肉。
しかし、何故か俺の手は震え――そしてその鶏肉が、口に近づければ近づけるほどに、直視に耐えないほどにグロテスクな肉塊に変貌して見えてしまったのだ。
次の瞬間、それは立ちどころに姿を変えた。
鶏肉だったものはもっとおぞましい「肉」状のなにかに変質し膨張しそれがまるで意志をもつように俺の口内に侵入し俺の口内を形容しがたい腐臭が支配し――
「狹間田!」
草薙に肩を揺すられて我に返った俺は、自分が箸を取り落とし、左手で自分の口元を抑えていたことに気がついた。そして自覚する、胃からこみ上げる吐き気。
ざわざわと、周囲が騒がしくなっていることに気がつく。よっぽど派手に吐き気を催していたのだろうか、決して少なくないクラスメイトたちが俺を見つめているらしかった。
「狹間田……」
言葉を失ったように、草薙が俺の表情を見る。大げさなことに、その顔色からは絶望感すら漂っているように見えた。
決定的に重たい沈黙。
犬山が「うんっ」と一つ大きく頷くと、「ユーリ、スタンダッププリーズ」と言った。痛快さを感じさせる笑顔だった。。
「ユーリ、保健室いこっか」
ぼんやりと椅子に座ったままでいる俺に向かって、犬山が言う。あんまりにもいい笑顔で、いい声なものだから、この状況が深刻ではないかのように錯覚したほどだった。
「えっ? 犬山……」
「うん、拒否権とかないからね? どこの世界に食べ物に吐き気を催す人間を健康体だとみなす人間がいると思ってんのかな?」
二の句が告げられないでいる俺の返事を待つことなく、犬山は両脇を抱えて無理やり立たせる。
「じゃ、ちょっち保健室行ってくるから、ヒロブミンお留守番よろしくねー」
それから犬山は保健係の生徒に「付き添いは私がいくけどいいかな?」と問いかけると、返事を待つことなく俺の手を引いて教室を出ていった。
俺の体調は、今日一日一貫して、「ものすごくダルいこと」以外に変調はまるでないはずだった。
――はさまだ、ゆうり。
――やっとみつけた、いけないこ。
保健室のベッドで横になって四〇分。
ベッドから飛び起きた俺は、勢いよく目の前のカーテンを開いた。
大きく目を見開き、注意深く辺りを見渡す。真正面の机、廊下に連なる扉の周辺、室内全体、窓の外――ちょっとおかしいんじゃないのか、と自分自身思わずにはいられないほどに、目のつくところを片っ端から睥睨してまわった。怪しいと思われる場所はとにかくひとつひとつ。
しかし、いくら辺りを見渡しても、こちらを訝しげに見つめる保健の先生以外に、人の姿はどこにも見られなかった。気配すらない。
俺の名を呼ぶ、少女のような声が聞こえてくるような気配なんて――。
「……どうしたの、狹間田くん?」
保健の先生が伺うように尋ねてくる。白衣がよく似合う妙齢の女性だ。
「……なんでもないです。すいません」
「いやいやいや。ちょっと先生としては「はい、そうですか」って受け流す気になれない感じに見えたんだけど?」
まあ俺自身、ちょっとおかしいんじゃないのかなんて思ったくらいだから、保健の先生ならなおさらそう感じるだろう。
いたたまれなくなってうなだれる俺に、嘆息しながら先生は言葉を続ける。
「……熱はないし、喉とか呼吸とかが荒れてるわけでもなければ、顔色も病的と言えるほど悪くもない。敢えて言うなら重たい倦怠感だけれども、寝不足の延長線上と取れないわけではない。少なくとも一日か二日寝ればまず問題ない程度のもの……のはず」
教科書を丁寧に読み上げるような声色で、保健の先生が言う。少しドライな性格ではあるが、訪ねてきた生徒は必ずしっかり診る、真面目な先生と評判だ。おまけに、「妙齢」という表現がよく似合う美人の先生でもある。
「健康体とまでは言いきらないけど、風邪というにしてもちょっと大げさな感じよね。正直、一時間くらい大人しく寝てれば問題なく六時間目は出られる気もするんだけど……狹間田くんとしてはどう思う?」
小首をかしげながら先生が訪ねてくる。柔和な笑みが浮かぶ表情とは裏腹に、一直線にこちらに瞳に向かっている視線に思わずドキリとしてしまう。
「……絶対に、頭がおかしいって思われると思うんですけど」
そんな視線から目を逸らしつつ、俺はボソボソとした声で応える。
「俺、今日、変な夢を見たんですよ」
「夢?」
「いや、見たっていうか……ぶっちゃけ今日、午前中は一日寝てたんですけど、その間にも見て、その夢に、なんていうかこう、今日一日引きずられてる感じなんですよ」
「引きずられる?」
「なんていうか……今日一日、その夢の内容に、引きずられてるような、そんな感じなんですよね。なんか、嫌なことを言われて、それを引きずるみたいな、そんな感じの」
ふうん、と頷く先生。視線は変わらず真っ直ぐなままで、こちらの表情を観察するように見つめてくる。
「それは、悪夢なのよね?」
「ええ、まあ」
「どういう内容?」
「…………」
「ああっ、別に言いづらい内容だったら無理して言うことはないからね? 要するに、それは悪い夢だったのよね? そもそも普段、狹間田くんは夢とか……」
「覚えてないんです」
ピクッと先生の眉が動いた。
「覚えてない?」
「はい。全くなにも覚えてないんです。目を覚ました瞬間にパチっとスイッチが切られるみたいに。でも、それは確かにとても悪い夢で、今もその夢に引きずられてるみたいな、そんな妙な違和感を覚えるんですよ」
たとえば、会話のテンポが合わない。
たとえば、ふとした拍子にぼうっとする。
たとえば、弁当箱の鶏肉を上手く視界が捉えず、それどころか食べようとしたら吐き気をもよおす。
寝不足のせい、の一言で全てを片付けてしまうことに違和感を覚えずにはいられない、そんな妙なズレ方。
深く考えてしまえば――ちょっとした恐怖心さえ湧いてしまうような。
先生が、アゴに手を添える仕草をして、しばらく考えこむ。
「……まあ、覚えてないけど、とにかく酷い夢だったと感じるっていうのは、別にそこまで変な話ではないけども……その悪夢は今日の朝にも見たのかな?」
「はい」
「その、朝に見た悪夢と、今日の午前中に見た悪夢は同じ内容だったと思う?」
「はい。間違いありません」
「……覚えてないのに、そう感じるんだ?」
「少なくとも、全く関係ないっていうのはあり得ないですね」
先生が「ふうん」と相槌を打つ。
「あり得ない、ねえ……」
「だから、頭がおかしいって思われるっていうことですよ」
俺は思わず苦笑する。
「それでも、やっぱり夢に引きずられるみたいな感覚はあるんですよ。それで今日一日、友人からちょっと変な風に思われるくらいには変なことになってる……それでその夢が全部バラバラだって考えるほうが、逆に不自然だと思うんですよ」
「それで、さっきのもその夢がそうさせたっていうことかしら?」
言われて、俺は「まあ、はい……」と力なく頷いた。流石に、さっきのは思い返すだけでもちょっと恥ずかしい。
「いずれにしても」
と、先生が言葉を続ける。
「取りあえず今日一日、あるいは二日くらいは大人しくして、早く寝ること。夜更かしは絶対厳禁。七時間は寝なさい。流石に私の立場上、授業中に居眠りをしろとは言えないけど、少なくとも無理はしないこと」
まあ、常識的な診断だと思う。思わず「まあそんなところなんでしょうね」なんてボヤキを口にすると、先生は「やれやれ」とでも言いたげな笑みを浮かべる。
「今日に限らず四六時中そういう感覚に襲われてるっていうんならともかく、たまの寝不足がたたってナーバスになってるっていうだけでしょう? むしろ、変に考えすぎちゃダメよ。ただでさえ多感なお年ごろなんだから」
まさに正論。むしろ、そう言われてみるとなんでそんな深く思い悩んでたんだろうと思えてくるくらいだ。
――と、どうしても素直に思えない程度には、俺は夢に引きずられていたのだが。
「不満そうね」
そんな俺の表情を見とがめてか、先生が笑顔で言葉を続ける。
「そういう思い込みも、案外ゆっくり寝ちゃえば忘れちゃうものなのよ。大丈夫、少なくとも死にはしないから」
「し……?」
「だからまあ、今日は難しいことは考えないでゆっくり休んで……」
――はさまだ、ゆうり。
――やっとみつけた、いけないこ。
「狹間田くん? ちょっと、ちょっと?」
声と肩に伝わる軽い振動。
気がつけば、椅子に腰掛けていた先生が目の前に立っていて、俺の肩を揺すっていた。
まただ。また、意識が飛んだ。それこそまるで、スイッチを切られたように。
頭の中がサッと白くなる。
なんでだ。そのスイッチ自体は確かに存在していて、なんなら目の前でよく分からない何者かにそれを切られた、という色濃い実感さえあるくらいなのに――なんでその「スイッチ」がなんなのかが分からない? いや――思い出せない? まるで、そこだけ真っ黒に塗りつぶされているかのようだ。
その何者か――俺の夢は、一体俺を、どこに引きずり込もうとしてるんだ?
「狹間田くん、ちょっと、聞いてる?」
先生の強い呼びかけで、俺の思考がこっち側に戻ってくる。心拍数があがり、俺の額から大粒の汗が流れていく。
そんな俺の様子を知ってか知らずか、先生はホッとため息をついて言葉を続ける。
「まあ、今日は本当にゆっくり寝なさい。これはただの寝不足で、それでちょっと気分がナーバスになってるだけ。そんな気のせいを真に受けて変なこと考えたら、本当に気持ちがまいっちゃうわよ?」
正論なんだ、と俺は思う。
これは間違いなく常識的な診断で、俺はとっとと夢だのなんだのというナーバスなことは忘れるべきなんだと思う……思うんだが。
素直にそう受け取るには、俺はあまりにも夢に引きずられてしまっているようだった。いくら常識的にそう言い聞かせたところで、現にそこに、俺にこんな夢を見せる何者かがいるではないか、いるはずではないか、と。
恐怖は、不気味さは拭えない。どうしても。
その時、五時間目終わりのチャイムが鳴る。キーンコーン……といういつも通りの日常の響きは、張り詰める俺の緊張を、無理矢理にでも弛緩させようとしているかのようだった。
「で、どうする? 今日は帰る?」
保健室には一時間以上はいられない。それで体調が治らなければ、無理してでも学校にいるか、途中下校しなければならない。
「……帰ります」
それがいいわね、と先生が優しく微笑み、俺の肩をポンポンっと軽く叩く。
「そーんなに深く考えないの。まっ、これに懲りたらこれからは早寝早起きを心がけなさい。今は寒い時期なんだし、身体も温かくしておきなさいよね?」
別に、それこそ風邪をひいているというわけでもないのに、優しく語りかけてくれる先生に、俺は申し訳ない気持ちになりつつ「すいません、ありがとうございました」と頭を下げた。
「じゃ、ちょっと書いてもらいたいのがあるんだけど……」
こうして事務的な手続きを済ませた俺は、保健室を後にし、職員室で担任の先生のアンドウにその旨を伝えた。アンドウは胡乱げな視線を俺に送りつつ、ボソッとした声で「まあ、お大事にな」と言った。
帰り支度をする際、草薙や犬山に心配そうな表情を向けられたが、俺は苦笑しつつ「大丈夫だって、一日寝ればよくなるよ」と声をかけた。鉛がつまっているかのように頭は重たく、倦怠感が抜ける気配はない。
表情を和らげることのない二人を置いて、俺は学校を後にした。
「…………」
ふと、下駄箱の辺りで声がしたような気がして後ろを振り返ったものの、もちろん、そこに人の――少女の姿はどこにもなかった。
※
五時間目の授業の途中。
ポカンと口を開いた山口は、後ろを振り返り姿勢のままで固まることとなる。一学年の化学を担当する彼が握るチョークは、Cの字を半ばまで書いたところでピタッと止まっていた。臆病な小市民を絵に描いたような容姿も相まって、どことなくマヌケだった。
しかし、その喜劇めいた教師の姿を笑う生徒は一人もいない。
何故なら、そんなものよりも遥かに異様な姿を晒している者がいたから。
一人の女生徒が、なんの前触れもなく、窓際に位置する席から立ちあがったのだ。
もちろん、それだけではない。その少女の頬は不自然なほどに緩み、だらしなく開いた口からはヨダレが垂れ、「うぇへ、うぇへへ……」という声が漏れていた。聞いているだけで、気持ちが不安定になってくる声だった。
このクラスで異邦人と認識されているいじめられっ子の少女が、銀髪と醜くただれた顔の傷を踊らせ、欣喜雀躍と喜びを表している。
教師一人どころではない。この教室にいる人間の誰しもが、その少女の奇行を見つめていた。というか、ただ見ていることしか出来なかった。皆平等に思考が止まって、その後、どうしたらいいのかを誰も分かっていないような、そんな有り様だった。
「はさまだ、ゆうり」
「やっとみつけた、いけないこ」
もしそんな少女の口元に近づく度胸のある者がいたならば、その人物はそんな言葉を聞いたことだろう。まるで、愛しい者の名を呼ぶような、そんな声で発せられた言葉を。
しかし彼女に一番近い位置に座っていた生徒にさえ、少女の発する言葉はまるで聞きとれなかった。せいぜいが、虫の息で、理解不能な呪文かなにかを呟いているようにしか聞こえないことだろう。
「……え、えっと、灰庭さん、どうかしましたか?」
恐る恐る、といった感じで山口が尋ねる。
彼はこのクラスの担任ではないが、流石に少女の容姿は目立つので印象には残っていた。しかも、授業中はいつも窓の外を眺めていて話を聞いている様子もなく、質問を振ってみても完全に無視を決めこむなどして授業態度もよくない。要するに、彼の目から見ても少女は授業態度の悪い「変な生徒」だった。
しかし――こうも理解に苦しむ奇態をさらけ出されると、小心者の彼には困惑を通りこして恐怖すら覚えてしまった。
しばらく少女は、緩みきった表情でその場に佇む。まるで酩酊でもしているかのように足元はふらふらとして、視線も定まらない。先生の呼びかけを潮に、少しずつ生徒たちも平静を取り戻し、ザワザワと、明確に困惑を表し始めた。ただでさえ、今朝にちょっとした騒ぎを起こしていたので、なおさらその度合は色濃いものだった。
「…………」
そのまま、沈黙を続ける少女。そんな少女に苛立つように、ざわめきはますます大きくなる。少女はただでさえクラスでは異邦人同然。そこかしこから悪言と舌打ちの声が聞こえ始める。少女をいじめている連中が「どーしたのおばーちゃん? 痴呆症ですかー?」と一際甲高い声で煽り、それに呼応するような笑い声が教室内に響く。このようにして秩序からどんどん離れていく教室の空気。
それではいけないと、少女に注意を与えようと山口が口を開きかけた、その時だった。
少女が、口を開いたのだ。
それは、鈴の音のように、思わず聞き惚れてしまうような声だった。
「今日は」
少女は笑っていた。
先ほどまでの緩みきった笑顔ではなく、幼子がキレイなものを眺めて喜んでいるような、そんな微笑みだった。
「彼が死ぬのに、うってつけの日です」
次の瞬間、教室が屍肉に包まれた。
ブリュリュリュ! と、なにかが泡立つよな音とともにその臙脂色の肉は蠢き、変形し、枝分かれし、腐臭をまき散らしながら触手のように教室一体を暴れまわった。
人は皆、一斉に悲鳴をあげ、誰しもがその場に屈みこんだ。どこかに逃げ出そうにも、肉は室内を縦横無尽に覆い尽くしていて、どこにも逃げ場なんてないように思われた。
ブリュ! ブリュリュリュ!
屍肉のような腐臭が濃くなり、急激に音が高まり、肉がいよいよ激しく膨張する。
恐慌と、得体のしれない肉の躍動が最高潮に達した、まさにその瞬間――まるで最初から何事もなかったかのように、室内はいつも通りの教室の風景に戻っていた。
なんということのない教室に、まるで避難訓練かなにかのように座り込む教師と生徒たち。室内はしんっと静まり返っている。
彼らは皆、粛々と立ちあがり、生徒たちはそのまま自分の席に座り、教師の山口は何も言うことなくその光景を見届けた。彼らの眼は皆一様に真っ黒で、人格が抜け落ちたかのようだった。全員が席についたところで、山口は授業を続け、生徒たちは各々の態度で授業に臨みだした。その頃にはもう、まるで最初からなにもなかったと言わんばかりに、彼らの眼は至って真っ当に人格を灯していた。
それから数分して、五時間目終了のチャイムが鳴る。
「はい。じゃあ今日やったところは重要なところだからしっかりと覚えておくように」
と告げた山口を受けて、その日の日直の宮田は「きりぃつ!」と呼びかけ、「気をつけ、礼」と、日直になった生徒が皆そうするように授業を締めた。
こうして、至っていつも通りに彼らの時間は流れる。五時間目終わりの教室内を、倦怠感漂う雑談の声が支配する。
五時間目終わり直前のとある数分間の記憶が飛んでいることと、教室から一人のクラスメイトがいなくなっていること。
彼らの中に、その事実を知る者は誰一人としていなかった。
誰も、疑問にすら思わなかった。
窓際には、忽然とした空席が一つあった。