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SUICIDE JUNKY!!  作者: 空箱零士
第一話
2/7

第一話 1

 妖怪人間クソダリィ。

 そんな気分で俺はスタコラと学校に向かって歩く。

 アゴが痛くなるほどにあくびを連発する俺の脳内は、ヤバイくらいの眠気で支配されている。ここに布団を敷いて小一時間ほど眠りにつきたいくらいだ。

 いや、眠気というか、頭痛的な方向性で、気持ち頭が重たいような気がする。とある友人から「お前ってイケメンとフツメンの中間くらいの顔だけど、なんかボンヤリした印象あるんだよなあ」という大変ありがたい評価を頂いたことがある無個性主人公面な俺だが、今の俺はそれに輪をかけてボンヤリしてる印象を与えることだろう。

「うー……春はあけぼのうんたらかんたら、なんだから、もうちょっとこう、なー」

 日本語にはなっているが日本語にしかなっていない、という趣の独り言を呟いてなにか一人満足した気分になりつつ、俺は惰性で足を進める。そもそも今は圧倒的に冬で、北風が寒いったらありゃしない。

 学校の最寄り駅付近のここらには、やっぱり学校に向かって歩いてく学校の連中が多い。

 男子に女子に先輩に後輩にリア充にオタクにソロ充にぼっち。本当に色んな奴がいるもんだ。他人事のようにそう思う。

「おっす」

 そんな時、俺は背後から肩を叩かれる。

 振り返ると高身長にメガネ属性のゴボウ系瓜実クソイケメンが爽やかな笑顔を向けていた。朝っぱらゴキゲンな野郎だ。

 草薙博文くさなぎ・ひろぶみ

 さっさとリア充にでもなればいいのに、俺と友人なんてやってるおバカさんだ。

「おう、はよー」

「ははっ、なんだ眠そうだね、狹間田くん?」

「っせーな。こちとら貫禄の四時間半睡眠だよ。てめーの睡眠時間の半分をよこせ」

「やだね。七時間睡眠の快感を明け渡すつもりはないよ」

「だったらその首おいてけ」

「あっはっはっ! 斬られたそばからまた新しいのが生えてくるから意味ないんだよねえ」

「化物かなにか?」

「両親の教育の賜物だよ」

 とまあそんな緩い会話をしながら俺と草薙はテケテケと学校に向かって歩いてく。

 実際のところ、結構マジで眠い、頭が重い。

 思わずハァ、とついたため息に、変に目ざとい草薙の野郎が反応する。

「あれ、なんか本当に体調悪そうじゃないすか狹間田さん」

「ホントだよ……なんか知んねーけど無駄に頭が重い。寝不足の範疇っちゃ範疇だけどよ」

「素直にちゃんと寝ようよ、規則正しく」

「まあ、そいつはぐうの音も出ない正論なんだが……つーかなんか、すんげー嫌な夢見たんだよなあ」

「へえ、一体どんなのどんなの?」

「…………」

「……どんなの?」

「知らん」

 えー……といった感じに、草薙はがっかり感溢れる表情を俺に向けてくる。

「いやいやいや、誰も細かく説明しろなんて言ってないじゃん……あらすじとかは」

「だってしょうがねえじゃんか。全く覚えてねーんだもんよ」

「じゃあ件のすんげー嫌な夢って一体なんなの? 情報ソースは一体どこにあるのさ?」

「…………」

「……あるのさ?」

「知らん」

 はいはい、といった感じに、草薙は呆れたっぷりの表情を向けてくる。

「なんかそもそも狹間田さん、実は夢そのものすら見てないんじゃないですかね?」

「あー……かも知れんな」

「かも知れんなってあんた……まあ、そんな眠いなら授業中に寝たら?」

「そうするわ。どうせ一限はカキザキの英語だし、寝るにはちょうどいいだろ」

「今度は淫夢とか見れるといいね」

「ある意味淫夢だったのかも知れんな」

「うん?」

「うん?」

 首をかしげる草薙に、俺も思わず首をかしげてしまった。

「? 俺、今なんか変なこと言ったか?」

「いや……なんか今日の狹間田センセ、ビミョーにテンポズレてません? 寝不足こじらせたらパフォーマンス下がっちゃいますよ?」

「……かもしれんな」

「まったくもう……取りあえず、一限目はもうさっさと寝ちまいなさいな。板書は僕が華麗にやっといてあげるからさ」

「おう、サンキュ」

「手数料はコーヒー牛乳一本でございますー」

 やかましい、と俺は草薙の頭を思いきり引っ叩いた。スパァン! と快音がした。スズメの鳴き声と共に、青空に溶けこむようですらある。

 そんな感じで、なんてことのないいつも通りの通学路を俺と草薙は歩いた。

「……にしても実際、俺はどんな夢見てたんだろうなぁ……ふぁ……」

 寝不足らしく、とても大きな欠伸をした。


 ※


 一年C組

 狹間田遊里


 ネームプレートにそう書かれた下駄箱を開け、靴から上履きへと履き替える。草薙の奴は突然「うおぉん! ごめん狹間田! 突如として便意を催してしまったので、僕に構わずゆっくりと靴から上履きに履き替えててくれたまへ!」と曰いながらそそくさと先に行ってしまった。

 そんな時、ちらっと入り口の方を見ると、ちょうど中に入ってきたばかりの二人組の女子が校内に入ってくるのが見えた。いかにも仲睦まじげで、なんとなく癒やされる光景だ。

 茶色がかったサイドヘアーに赤いリボンをつけた元気いっぱいの女の子の話に、涼しい笑顔で応える黒髪セミロングのお嬢様然とした大和撫子。

 こちらの視線に気づいたらしい、サイドヘアーっ子が一度こっちにニヘラッと脱力系の笑顔を向け、セミロングっ子に「それじゃあマリリン、今日もハブアナイスデイ!」と手をふりふりすると(彼女と「マリリン」は別クラスなのだ)、こちらに歩み寄ってきた。

「おはにゃんぴー!」

 といった感じに元気だけは伝わってくる挨拶を向けてきた。ラノベかって感じだ。

 犬山美波いぬやま・みなみ

 俺のクラスメイトで、草薙ともども仲良くなった女子の一人である。

「うっす」

 邪魔にならないよう下駄箱から離れつつ、引き続き寝不足によるテンション不足が続いている俺は手短に返す。

「あっ、ユーリめ、そのテンションの低さは頂けないなー? イケメンが台無しですぞ?」

「朝っぱらから思ってもねーこと言うなよ、鼻がもげるぞ?」

「え? 嘘? 伸びるんじゃなくて?」

「お前はピノキオじゃないんだから伸びるわけないでしょうが。もげるんだよ。そんで血が止めどなく溢れ出る」

「そんなあ……私のようなうら若き天才系豪腕右腕美少女が鼻がもげて死ぬなんて前代未聞だよお……彼氏の一人も出来ずに死ぬなんてもっと悲劇だよお」

「そうか?」

「え?」

「え?」

 首をかしげる犬山に、俺も思わず首をかしげてしまった。

 ……って、さっきもこんな感じのやり取りをしたぞ俺。よっぽど寝不足なのか?

 草薙の言う通り、なんか今日、変に間が抜けてんなあ。

「そ、そうかって……」

 俺はどちらかと言えばツッコミ属性。

 ボケ役のフリにしっかりとコミュニケーションを取らねば男子高校生の名折れだ。

「いやそりゃあ別に私だって自分のこと美少女とかマジで思ってるわけじゃないけど、にしても話のノリ的になんかこうさあ……」

「あっそっちか」

「はい?」

「はい?」

 いよいよ本格的に「え? なんなの?」っていう感じで目を丸くする犬山。

 なんか俺の方も、ちょっと自分で自分に若干引いてしまった。

「なるほど、寝不足って辛いねー……私撰話してて面白い男子高校生トップ争いの最前線にいらっしゃるユーリがいつになくぼんやりして遊ばされるだなんて」

「あー、さっき草薙からも呆れられたしなあ」

「まあ疲れてる時のあるあるだよねー……そんなに昨日寝てないの? 睡眠大事だよ? 寿命縮んじゃうよある日突然ポックリイッちゃうよ?」

「…………」

「ユーリ?」

「ん? ……んんっ? あれ、また俺ボケっとしてた?」

 なんだなんだどうしたんだ俺一体。

 またしても犬山の言葉にぼんやりとしてしまった俺は、気まずい思いで言葉を返す。

 ……って、「言葉」、に?

 ――どの「言葉」に?

「……なーんか本格的に寝坊助さんって感じなんですけどもー」

 犬山の呆れたような口調に、俺はただただ苦笑いを浮かべるしかない。

「わりいわりい。まあたまにはこういう日もあるってことで勘弁してくれ」

「別に全然いいけどねー。この手のディスコミュニケーションもまた乙なものですよ!」

 そう言って屈託なく笑う犬山に、俺もまた安心して笑顔を返す。

「そう言えば一限目カキザキの英語なんだけどさ、ユーリあいつの授業とか意味分かる?」

「別に分からなくはないけど、今日はこんな感じだからずっと寝てる」

「マジかー。私あの授業全然ついていけないくて困ってる訳なんですよー。今度解説お願いしますよーセンセー」

「そういうのは草薙に頼めな。手数料はコーヒー牛乳一本らしいぞ」

「えーズッ友割してよそこはー」

 なんて話をしているところを、廊下の奥から草薙が鼻歌混じりでやってくる。よっぽどの快便だったのだろうか。

「おーいそこの二人ー、そんなところでなにをくっちゃべってるのさー」

 なんてことを言いながらそそくさと俺たちのところに入り込む。

「あっちょうどいいところに来た! ヒロブミン助けて助けてズッ友割してー!」

「ファ!? ちょちょ、なにズッ友とか突然なんです? 少しおお落ち着いて貰わないと人目とかそういうのちょっと困るですー!」

 すかさず抱きついてきた犬山に、初心さ丸出しで慌てふためく草薙。

 そんな二人を尻目に俺は、やっぱりあのことをぼんやりと考えていた。

「……ホント俺、どんな夢見てたんだろうなあマジで……ふぁ……」

 いくら考えても考えようのないことを、俺は欠伸混じりで考えた――その時だった。


 ざわりっ、と妙な胸騒ぎがした。

 その自覚と共に視線を前に向けると、そこには俺の前を横切ろうとする一人の少女。

 俺より頭一つ分小さな、銀髪の少女。

 犬山と同じ紺色のブレザーを着た彼女は、確かに同じ高校、南杉原高校の生徒であることは間違いない。しかし、その風采から挙措まで、彼女はその場の空気から完全にかけ離れていた。さながら、学園マンガの一場面に、異国の画風で描かれた少女の絵を無理やりコラージュしたかのような。

 横切る瞬間、少女はこちらを一瞥する。銀髪が揺れ、正面から彼女と俺の視線が重なる。

 しかしその一瞬で、この網膜に、一枚の写真のようにはっきりと浮かび、像が結ばれる。

 少女の相貌に浮かぶ臙脂色の「なにか」が踊った。まるで波紋のように。


 そして次の瞬間俺はその「なにか」――とても生々しいモノに飲み込まれた。


 ――…さまだ………ねえ、狹間田!

 ハッとして、声のした方に顔を向ける。

 草薙が、本気で焦っているような様子で俺の肩を揺さぶっていた。

「ん? ……あれ? どうした?」

 実際のところ、あれ? どうした? っていう感じだった。なんだか胸騒ぎがして……。

 それから俺、どうしたんだ?

「いや、どうしたって……キミ、ホント今日なんか変だぞ?」

 そんな俺の目をジッと見ながら草薙は言う。

 朝方の生徒同士の話し声が、俺の耳に溶け込むように聞こえてくる。通りがかりの生徒の何人かがチラッとだけこちらに視線を向けて、すぐに視線を戻して去っていった。

 その声も、その視線も、どことなく、遠い。

 一体どうしたものかとぼんやりしていたところ、目の前で草薙が大きく目を見開く。

 驚いた? ――俺の顔を見て?

「……狹間田、キミ――!」

「えいっ!」

 その時、犬山はヒョイッと軽い足取りで割り込み、俺の額に手を当てる。

 その唐突さと、息がかかる程に近づいてきた顔に、戸惑いつつもされるがままにされる。

 しかしその諸々の軽さとは裏腹に、犬山の表情は真剣――とまでは言えずとも、少なくとも実に真面目なものだった。

「……熱はない、かな? 顔色もそこまで悪いわけじゃないし。ユーリ、他に身体の調子が悪いところある?」

「いや、別に……」

「そっか……まあなんだったら先生に事情話て一限目だけでも保健室で休ませて貰ってもいいかも知れないねー。どっちにしても、今日はあんまり無理しないで、それこそ授業は全部ガン無視で寝ちゃいなよ?」

 ノートならそこのヒロブミンっていうズッ友が全部取ってくれるらしいよ?

 と、草薙にイタズラっぽい笑みを向ける。

 草薙は「あっ、あぁ」と気のない返事をして、それからチラッとこちらに視線を向ける。その渋面には、明らかな戸惑いの色が浮かんでいた。

 どうにも釈然としないまま、空気ばかりが重たくなっていくようだ。

「まっ、そうやってニヘラって笑えるようなら、だいじょーぶだと思うけどねー」

 犬山がポロっと一言漏らしたのは、そんな俺が心の中で首をかしげた、その時だった。

「そんな笑い方してると女の子からキモッって言われちゃうよん」

 犬山は冗談めかして、場を和ませるつもりで言ったのだろう。

 しかし実際の俺は、思わずドキッとして、反射的に右手を頬に当てていた。

 険しく寄っている眉根とは裏腹に、その口元には、確かに笑みが浮かんでいた。

「狹間田、キミ、気づいてなかったの?」

 草薙の訝しげな問いかけへに窮した俺は、ただその場に固まってしまう。

 何故だろう。単純に、ぼんやりし過ぎて頬が緩んでいただけかも知れないのに。

 俺は、この時自分が笑っていたという事実を知って、背筋を凍らせずにいられなかった。

 俺は一体、何で笑ってたんだ?

「はーいストップストップ! これ以上は寝不足ユーリがショート起こしちゃうよー!」

 そんな俺の様子を察してくれたのか、犬山が苦笑いをしながら割り込む。

「どっちにしても、特に体調に問題ないんでしょ? だったらそれでいいじゃん。ヒロブミンちょっと怖い顔して大げさすぎ。こういう日だってきっとあるって、ねっ?」

 そういう犬山の笑顔がちょっと怖えよ、と外野の俺は思いつつも、その笑顔を向けられた草薙は「う、うん。悪い」と気まずそうに頬をかいた。

 ちょうどそのタイミングで、始業五分前のチャイムが鳴る。それを潮に、周囲の生徒たちが慌てたりゆったりとしたりとそれぞれのペースでそれぞれの教室に戻っていく。

「んじゃ、そんな感じで、今日も一日グッドラックで行っくよー!」

 犬山もまたそれだけ言うと、その流れに乗って一目散と教室に向かっていった。

 置いてけぼりのうやむやな感じに置いて行かれた俺と草薙は、お互い気まずそうに目と目を合わせる。

「……なんかごめんね、狹間田」

「いいって、別に」

 そんな微妙な会話を交わして、俺たちもまた教室に向かった。


 ※


 チャイムが鳴った、ちょうどその頃。

 教室の、窓際の席に座る少女が、ものも言わずに窓の外に視線を向けていた。

 もっとも、ただ単純に視線を向けているというだけで、特定の何かを見ているというわけではなさそうだった。むしろ、その真っ黒い瞳が映し出す光景――例えば、校庭や敷地外の住宅街、青空の下を羽ばたき滑空する鳩などといった景色を、そのような景色として認識しているかどうかさえ疑わしいくらいだった。その表情、瞳は、硬直でもしているかのように微動だにしていなかったから。

 教室内では、少女の同級生たちが賑やかに雑談を交わしていた。始業間際であることを気にする様子もない。そんな中を、少女はいつもたったの一人でそのように過ごす。

 校内は愚か、日本国民という括りでさえ珍しい銀色の髪を生やす少女は、このクラスではさながら薄気味悪い異邦人だった。

 事実、彼女と、その周囲だけ、明らかに違った空気が流れている。

 さながら、学園もののマンガの一場面に、異国の画風で描かれた少女の絵を無理やりコラージュしたかのような。

 賑やかな雑談の声が響く教室内で、一際甲高く、大きく、そして下品な声で会話をしていた三人組の女子の一団が一斉に、少女へと視線を向けた。

 教室内の生徒たちの中でも、一際派手ではしたなく制服を着崩した彼女たちは、一様に底意地の悪い薄ら笑いを浮かべていた。

 リーダー格と思しき金髪の女子を先頭に、三人は少女の元へと近づく。そんな彼女たちの様子を、教室内の少なからぬ生徒たちは気づいていたが、彼らは例外なく、気づいた次の瞬間にはなにも見なかったふりをした。そんな不穏な空気の中にあって、当の少女はなにも気づいていない様子で、引き続き窓の外に視線を向け続けた。それは、リーダー格の女子が少女の真横に立ち、取り巻きのパーマと赤メガネが含み笑いをしたところで同じだった。

 そんな少女の頭に向けて、リーダー格が軽く肘を振り下ろした。ただし、ここで言う軽くとは、あくまで「やり過ぎ」にならないように加減したというだけの話だ。笑い話に出来るほどの加減をしたという意味ではない。

 しかしそれでも少女は、まるで自分がなにをされたのかに気づいていないかのように、視線は外へと向けたままだ。

 もっとも、その反応自体はいつも通りのことで、彼女たちは「やれやれ」といった表情で顔を見合わせあった。

 リーダー格は、思いきり体重をかけるように、少女と肩を組んだ。

「おっはよーおばあちゃん。お窓の外に一体なにがあるのかなぁ? ボケボケしてなきゃ教えて欲しいなー?」

 わざとらしい猫なで声をあげつつも、リーダーは少女の整った銀髪をくしゃくしゃと乱暴にかき乱した。彼女がパッと手を放した時には、さながら酷い寝癖の跡のように、見るも無残に乱れた。

 それを受けて取り巻きの二人が、「やだーおばあちゃん寝癖酷くない?」「言えてるー」と白々しい笑い声をあげる。

 ここに至って、一体彼女たちがなにをしていて、少女がなにをされているのかを気づいていない者など教室内には皆無だったが、だからといってなにか行動を起こそうとする者もまたやはり皆無だった。

「おばあちゃんいっつも思うんだけどさ、その白髪、校則違反じゃないのー?」

 そんな淀んだ空気に後押しされるように、リーダー格は猫なで声で言葉を続ける。それを言うなら彼女の金髪も十二分に校則違反なのだが、むろんそれを口にするものなど存在するわけがない。

「だからさ、私が黒く染めてあげるよ」

 そう言ってニヤッと嫌らしく笑うと、彼女は内ポケットからあるものを取り出し、それをわざとらしく「じゃーん!」と声を出しながら、見せつけるように少女の目の前につきだした。これから起きることの可笑しさに耐えきれなくなったのか、取り巻き二人がキャハハハと甲高い笑い声をあげた。

 リーダー格が取り出したものは墨汁だった。

 キャップを開け、彼女は垂らすようにして墨汁を銀髪にかける。彼女たちの主観はともかく、客観的には老婆の白髪とは明らかに一線を画した美しい光沢を放つ髪が、墨汁によって無残に汚された。

「ねっ、これでその白髪でセンセーに怒られないですむでしょ?」

「まっ、墨汁クセーって怒られっけどねー」

「言えてるー」

 そして三人は一層大きな声でキャハハと笑った。教室一帯の賑やかさを塗りつぶすような甲高さに、流石に近くにいる幾人かの生徒は眉をしかめながらチラッとだけ視線を向ける。中には聞こえない程度の小ささで舌打ちをした者さえいた。

 要するに、彼女たちを除く生徒たちの総意は「どちらにも関わりあいになりたくない」なのだ。異邦人である少女はもちろんのこと、彼女たちにしても「高校生にもなって子どもじみたイジメなんてやってる性格のねじ曲がったバカ女連中」という認識で一致しているのである。

 いじめる方も、いじめられる方も、どっちもどっち。

 比較的大人しい校風である南杉原高校にあって、どちらも不愉快なイレギュラーであることに代わりはないのだ。

 髪を汚したままにしている少女にパーマが歩み寄り、手に持っていた雑巾を、墨汁がかかった髪の上に被せた。さながらそれで、自分たちのやったことをなかったことにしているかのように。

「センコーが来るまでに、拭いとけよ?」

 少女の耳元で、威圧的な低い声が囁かれる。

「じゃーねーおばーちゃん! 今日も一日ガンバって生きるんだよー!」

 リーダー格の言葉とそれに続く甲高い笑い声と共に、彼女たちは何事もなかったかのように立ち去ろうとする。そして最初から最後まで、少女は時が止まっているかのように反応を示すことはない。

 これが、普段通りの少女と彼女たちの、一方通行的なやり取りだった。逆に言えばこの程度ですんでいるからこそ、周りもある種の安心感をもって無視を決めこめるのだと言えるのかもしれない。

 だから次の瞬間、不意を突かれたように振り返り、得体のしれない出来事に彼女たちが心底怯えることになるとは、誰も予想だにしなかったのである。

 ガタッ、という引きずるような音が彼女たちの背後から聞こえたのだ。明らかに、少女のいる位置から。

 ん? という心持ちで振り返り、その姿を見た瞬間、彼女たちはその誰しもが表情を強ばらせて立ち尽くした。

 少女が、立ち上がったのだ。

 その妙に不安定な立ち姿は、まるで生まれて始めて立ち上がった子鹿のような姿を彷彿とさせた。しかし一方で、封印されていた異形のものが酩酊の中で目覚め、立ち上がろうとしている様も連想させた。

 いずれにしても、それは異様な光景だった。異様な――異邦人の光景だった。

 少女の身長は、高めに見積もっても彼女たちよりも頭一つ分低いくらい。にも関わらず異様な色香を漂わせているようでもある。

 まさに、アンバランス。

 招かれざる異邦人のごとき、居心地の悪さ。

 立ち上がった時の衝撃で落ちたのか、頭に乗っていた雑巾は少女の足元に落ちている。少女の銀髪からは、満足に拭えていない墨汁がポタポタと滴っていた。

 思いもよらぬ状況に、彼女たちどころか、教室全体が凍りつく。今は時が止まっているような状態だが、これが動き出した時に一体なにがどうなるか。それを思うと彼らは生きた心地がしなかっただろう。

「はっ? なにお前、ヤんの?」

 最初は呆気に取られていた彼女たちだったが、やがて気を取りなおすと、赤メガネが声をあげる。その声は低く、努めて威圧的だったが、微かに伝わる声の震えには、隠しきれない怯えが含まれていた。

 しかし少女はこの期に及んで彼女たちの言動に反応を示すことはない。

 まるで、自分でもなんで立ち上がったのか良く分からない、とでも言わんばかりに、その視線は定まっていない。顔こそ彼女たちの方向を向いていたが、その真っ黒い瞳は彼女たちの方を向いておらず、視点の置き場を求めて揺蕩うようですらある。

 その姿は、状況を理解できずにぼんやりとする迷子のそれにも見えないことはなかった。

 その様子に気づいたいのか、リーダー格は獰猛な笑みを浮かべて、威圧的な足取りで少女に近づいていく。

「んだよてめえ、ビビってんのか?」

 そう言って、少女の肩に手を置こうとした次の瞬間、リーダー格は立ちどころに「ヒイッ!」と無様な悲鳴をあげ、仰け反り倒れこんだ。すっかり顔を青くした彼女は、震えながら顔を見上げ、少女と眼があった瞬間サッと目を逸らした。

 クラスメイトたちもまた、少女のその「顔」を見るや、サッと顔を背け、中にはぼんやりと突っ立った末に「うっ」と吐き気を催した者すらいた。

 少女は、笑っていたのだ。満面の笑みで、これ以上に嬉しいことなんてないと言わんばかりの笑みで。その破顔は、暴力的でさえあった。

 しかし、ただそれだけではない。

「……はさまだ、ゆうり」

 まるで愛おしい者の名を呼ぶような声色。

「やっとみつけた……いけないこ」

 そう言い、屈託のない笑顔を浮かべる少女の顔――右頬から顎下にかけて――は、とても醜く、ただれていた。

 少女が異邦人として扱われる理由の一角。

 病的なまでに白く、元はフランス人形か何かのように美しい肌と、顔形であったことを思わせるような美形の、なにもかもを台無しにするような深い傷。臙脂色にギラつく刻印。

 生徒たちがある程度見慣れていたはずのその傷が、普段決して見ることのない笑顔の形に歪んだ瞬間、少女の顔は、その傷は、直視に耐えないほどに醜く歪んだ。

 そんな彼らのことなど一顧だにせず、少女は「ふふっ、ふっ……」と不安定な笑い声をあげながら自分の椅子に腰掛ける。少女の髪からは、いまだに墨汁が垂れ続けていた。

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