プロローグ
俺は走り続けた。
息を切らして、腕と足を全力で振るって。
辺りはぼんやりと薄暗く、生臭い。目の前は辛うじて視界が開けているが、それでもせいぜい、二~三歩先の足元が一応安全らしいことくらいしか分からなかった。
背後から死が迫っている。
背後から死が迫っていた。
俺はなにか巨大で根源的なものに駆りたてられるように走り続ける。「それ」に追いつかれたが最後、俺は無残に殺られるだろう。
しかし、そんな確信を抱いているにも関わらず、俺は「それ」が具合的にどんな形をしているのかを分かっていない。走り始めてから(もっともその始まりはよく分からない。気がつけば俺はもう走っていて、追い立てられていた)俺は一度も背後を振り返っていないし、振り返ったところで「それ」を理解できるかどうかも疑わしいからだ。
ただし、これだけは分かる。
「それ」は、途方もないほどに、俺の理解の埒外にある存在なのだ。いや、正確に表現するのなら、「それ」は理解してしまってはいけない存在なのだ。
「それ」を理解するくらいなら、死んだほうがマシだ。マシであるに決まってる。
何故ならそれは、ただ単純な「死」ごときとは比べ物にならないほどに、おぞましいものであるに決まっていたからだ。
俺はひたすらに走り続ける。
もうとっくの昔に身も心も限界が来ている。
息は切れるどころか過呼吸さえ起こしていて、口端からは泡のようなものが吹き出て、眼からは惨めたらしく涙を垂れ流している。
手も足もガクガクと震え、いつ自壊しても全く不思議じゃないだろう。
頭の中をはちきれそうなほどの恐怖心が支配し、今すぐにでも思考を止めてしまいたい。
にも関わらず!
にも関わらず、俺は気が狂うほどの快感が広がっていくのを自覚せずにいられなかった。
まるで船底に空いた小さな穴から溢れ出てくる水のように、少しずつ、少しずつ、広がっていくのである。
違う、
違う、
違う!
俺はこの逃避行を終わらせたくないから走り続けているんじゃない!
これは決して至福の時なんかじゃない!
頭の中で繰り返えされ、強まっていく否定。しかしそれが繰り返され強まっていくほどに、暴力的なまでに押し寄せてくる快楽がその否定を抑えこんでしまうのだ。
潰れていたはずの喉が、腹の奥から沸き上がってきた叫び声に揺れる。揺れる喉からは血の味がする。
恐怖の叫び、
獣めいた雄叫び、
昂ぶる感情への悦びを吐き出す叫び。
何かにつまづいたのか、もつれた脚が絡まったのか。俺の脚はとうとう崩れ、前のめりに倒れこんだ。倒れこんだ地面は泥地のようにぬかるんでいて、腐敗した血液のような異臭を放っていた。こみ上げる不快感。
這って逃げようとした俺の背中を、「それ」はとうとう捉えた。
まさに心臓を掴まれたような気分だった。一秒後には捻り潰されているかもしれない。
「それ」は背中からのしかかるように俺の身体を抑えこむ。刻まれようが潰されようが溶かされようが、全く抵抗の敵わない体勢――ばかりか、下手をすればこれから何をされるのかすら把握できない体勢。俺はもはや抵抗する気力もなかった。
ただただ、「死」への恐怖が支配する刻。
しかし――ただそれだけでないことを、否が応でも感じずにはいられない。
俺はまるで恐怖という感情を思い出したように首を横に振る。
違う!
これは俺じゃない!
こんなのは圧倒的に間違っている!
俺は――この時をこそ待ち望んでいたなんて、そんなことがあり得る訳がない!
気が狂いそうだった。
気が狂いそうな程の、それは快感だった。
ブリュリュリュと、なにかが泡立つような音が聞こえたような気がした。
次の瞬間、俺は立ちどころに肉の液に包まれ、身体を持ち上げられていた。考えたくもないことだが、「それ」は液状と思しき身体を自在に伸縮し、包み込むようにして持ち上げているのだ。さながら、俺という赤子を、「それ」という母親が抱えるように。
生々しい感触に、凝縮された腐臭。まるで汚水が意志を持って這いまわるような。立ちどころに込み上げてきた吐き気のまま、俺は胃液混じりのゲロを思い切りぶちまけた。
その矢先、「それ」は俺の体を「それ」の方へと向けさせた。
俺は、「それ」と対面することとなる。
「それ」は、
ああ「それ」は!
恐ろしいことに、美しかった!
しかし「それ」は、言うまでもなく醜悪だ。
形容するもおぞましい肉体――それは「肉の体」などではない。「肉状のもので形成された体のような何か」である。
それに対して形容を試みるならこうだ。
生きた肉も死んだ肉も見境なくかき集め、一つの鍋にぶち込んで液状になるまでグツグツと煮込み、何が生きていた肉で何が死んだ肉かが全く分からなくなった所で取り出されたモノが、虫のような無感情の動きをもってこちらを補食しにきているような。
にも関わらず!
この世の終わりのような「それ」であるにも関わらず!
それはこの世のものとは思えないほどに美しかった!
我ながら意味が分からない。
醜いのに美しいだなんて、そんなのただの矛盾じゃないか。
現に今も俺の頭の中は途方もない恐怖で埋め尽くされ、次の瞬間には俺の正気が真っ黒く塗りつぶされそうになっているというのに。
それと同じくらい、目の前の「それ」に対し、頭の中が真っ白に染まりそうになるほどの、煽情的な興奮を感じずにいられなかった。
一瞬たりとも直視していたくない屍肉の化物を、その足先からつま先まで舐めまわしたいと俺の全身が高揚するという、意味の分からない感情。
恐怖と狂喜が入り混じり感情が暴れまわる。
その終末的な心の有り様が、そしてそれを形作る「それ」こそが、まさに「死」を色濃く感じさせるのだった。
――しにたくない
俺の口から言葉が漏れる。
ドウシテ?
俺は目を見開き「それ」を凝視する。
俺は確かに聞いた。
どこに口があるのかも分からぬ「それ」が、俺に口を効いたのを。
ドウシテ――ウソヲツクノ?
うそ……嘘を? 俺が嘘をついている?
横合いから固く重たいもので思い切り頭を殴りつけられたような衝撃だった。
そうだ、俺は嘘をついてる!
俺は「死にたくない」んじゃない。
俺は確かに「死にたくない」が、そこで止まってしまうから「嘘」なのだ。
俺が死にたくないのは、それは――
またしてもブリュリュリュと音がして、そしてそれが聞こえた次の瞬間に俺は激痛の叫びをあげていた。
熱い! 熱い! 熱い!
俺は今、「それ」によって全身を溶かされていた。「それ」が蠕動するように揺れ、その度に俺の肉体は少しずつ、しかし確実にドロドロに融解されていく。
嫌だ! 嫌だ! 嫌だ!
溶かされゆく肉体を繋ぎ止めるように、俺の心は嘘つきの言葉を叫ぶ、その言葉の意味を知らないふりをする卑怯者の言葉を叫ぶ。
そうだ、俺は嘘つきで、卑怯者だ。
だから俺はここで死ぬ! いま、ここで! そんな自分を罰するように!
これは「死にたくない」という嘘への罰としての「死」だ! 俺と言ういま、ここにこそ相応しい「死」!
ああ、「嫌」だ! 「嫌」だ!
ブリュリュリュと音がする。
そして目の前の「それ」は大波のように蠢き、俺のことを一気に飲み込んだ。
目の前が白に塗りつぶされる瞬間、俺の目には一滴の涙が流れていた。
そして、俺の口元には――。