第三章 弱肉強食
何だかんだでまた一年。
亀どころかカタツムリの行進よりも遅いペースとなってしまいました。
これから先もこのような更新速度となってしまうことをここにお詫び申し上げます。
「……行ったかな?」
子鬼たちが獲物の処理を終えて去ったのを確認した黒兎は誰も居ない川に近づく。
川原は森の生き物がよく利用するためか草一片も生えていない黒土になっていた。
先程行われていた子鬼による血抜きの跡部分も良く分かる。
血糊が付かないよう血抜きが行われていた場所を迂回して小川に近づく。
小川の流れは水面に黒兎の姿が映るほど穏やかだ。
そこに黒兎は顔を浸け水を飲んだ。
「うめぇ。水がこんなに貴重で美味しいものとは知らなかったな。蛇口を捻ればすぐ飲めたのがもう懐かしい……」
生前の日本では何気なく飲んでいたものが、自然の真っ只中ではこれほど貴重なものだとしみじみと思う。
「うっぷ。満足満足」
満足そうにゲップをした黒兎は水面に映る自分の顔に目を向ける。
顔を右に傾けようが、左に向けようが、斜め45度のキメ顔にしようが水面に映るのは兎以外の何ものでもない。
「あー、本当に兎に生まれ変わったんだな。……親や幼馴染はどうしてるんだろ。そういえば泊まりに行く途中で死んじまったんだっけか。悪いことしたな……」
ふと生前のことを思い出す。
家族や学校の友人たち、幼馴染の顔が頭に過ぎる。
会いたい、帰りたいという郷愁の感情はあるが、泣き出すほどではない。
それどころか、今、この兎と成ったこの身でどう楽しんで生きるかという考えが生まれている。
それは自分が死んだということを自覚しているからなのか、もはや人の身ではないからなのか。
「まぁ、少なくともそこらの雑草を躊躇無く食べれる時点で、人間としてのモラルは崩壊してるな」
そんな事をぼんやり考えていると、背後、草を掻き分けるような音が耳に届いた。
驚き、音の原因を確認するため視線で探ると、
「――え?」
視界いっぱいに映るそれは兎を潰さんと降ってきた。
●
鈍い音が辺りに響く。
今振り下ろされたのは、己の頭程の太さを持つ木の枝を粗く削った棍棒だ。
その荒削りの不恰好な木製バットは、大地にその頑強な体を打ち込んでいた。
『――?』
それが感じたものは疑問。
いつもの肉を打ち、骨を砕く、その感覚が無い。
代わりに感じるのは肉を打つのとはまた違う鈍い衝撃。
不思議に思っていると荒い息遣いが耳に届く。
音は自分から離れた場所から聞こえる。
目を向ければ、たった今潰したはずの獲物がそこにはいた。
自らが仕留めそこなった獲物に何を思ったのか。
『――ィ』
それは口端を吊り上げた。
もともとの凶悪な相貌がさらに深くなる。
棍棒の握りを確かめるよう何度か振り回す。
目の前にいる獲物を叩き潰すために。
●
……し、死んだかと思った……。
驚きと恐怖で乱れる息を整えながらそれを見据えた。
それは子鬼だった。
武器を持つ右手と左手にもった袋。そして頬に傷は無い。
そのことから先程一文字傷と一緒に去った子鬼だと黒兎は推測した。
そしてその手の袋は萎びており、何も入っていないことが見た目からわかる。
……まさか水の汲み忘れ? んな馬鹿な。
不運を嘆いても目の前の敵が消えることはない。
それどころか何故か知らないが、体中にやる気を漲らせている。
……逃げるには、子鬼を何とかしないと。
脅威なのはその膂力と予想外の速さ。
最初の一撃。あのとき音と同時に姿を視界に捉えていた。
だがそれは一瞬。一呼吸の間もなく目の前まで接近された。
……さっきは細かい作業は一文字傷に任せていたから頭はそんなに良くはなさそうだけど……。
どうにか逃走するための策を考えるが、子鬼は待ってはくれない。
『――――』
それは単なる振り下ろし。
黒兎に近づいて棍棒を振り下ろすだけ。
それだけの動作が見えない。
「――っ!」
人ではなくなった獣の手足を動かし、地面を転がり避ける。
……ギリギリだけど躱せる!
獲物を見失った棍棒は地面を叩く。
『……ァ!!』
そこで子鬼は手を止めない。
逃げた黒兎に接近し二度、三度と黒兎にその怪力を振るう。
愚直に何度も振り落ちる棍棒の雨の中を黒兎は必死で掻い潜る。
二十は振り下ろされただろうかといった頃、変化は起きていた。
『――ッ!』
子鬼はその変化に気付いていた。
棍棒を振り下ろすたび、振り回すその右腕が重くなっていることに。
そして、
「――――」
黒兎の動きが徐々に小さく速くなっているということだ。
はじめは棍棒から離れようと転がり離れていたが、徐々に棍棒の間近に位置するようサイドステップで回避していた。
その様は、まるでもぐら叩きをしているようだ。
《……ィ!!》
なかなか当たらないことに業を煮やしたのか、子鬼は全力で叩く。
放ったそれはいままでで一番速く、重かった。
土を巻き上げ、地面を抉る一撃。
「――――」
黒兎は居た。棍棒のすぐ横に。
土に塗れ、みずぼらしい姿になっているがその身に傷は一つも無い。
それどころか逃げずに子鬼の目の前に立っていた。
息も荒く、今にも倒れそうだ。
しかしその目は子鬼の目を見つめていた。
『ッ……ォア!!』
その目に何を感じたのか。
子鬼は武器を振り上げようとした。
『――ッ?』
違和感。
それは武器を握る右腕からだ。
『――――』
動かない。
いくら力を入れようと肩から指先までが握ったまま動かない
更には右腕が全体がまるで火に炙られているかのように熱い。
原因は先程までの棍棒の振り下ろし。
土とはいえ様々な生物に踏み固められた地面。
それを力任せに繰り返し叩いた反動が腕に負荷をかけ続け、結果として全力の一撃による反動に絶えられず限界を超えてしまった。
そのことに気付いているのかいないのか、子鬼は棍棒を持ち上げようとする。
「――?」
子鬼の異変に気付いたのか黒兎は頭を下げた。
まるで子鬼に許しを請うような姿勢になる。
だが子鬼はこれが服従や白旗の意ではないことを知っていた。
色は違うが他の兎たちと同じ必殺の構えだ。
『ガ……ァア!!』
右腕が使えないと知性が判断したのか、それとも目の前の危険に本能が働いたのか。
もう左手に持っていた水袋を投げ捨て両手で棍棒を掴む。
それは両手での横薙ぎだ。
ほぼ左腕の力だけでの力技だが、黒兎の命を吹き飛ばすのには十分な速度と重さだ。
さらに左腕を前に持ってくることで兎の頭突きに対しての防御になっている。
狙う黒兎にとっては前は左腕の防御、横は棍棒。
反対に転がり逃げても射程範囲の中だ。
『……アア!』
当たると確信した子鬼は叫ぶ。
己が勝利を信じて。
●
絶体絶命の状況の中で黒兎は、
「――っ」
子鬼への突撃でも、退避でもなく、
「……ぉ!!」
頭突きを以って棍棒を迎えうった。
直後、風切り音と共に棍棒は振り抜かれた。
●
子鬼の口が開く。
『――ォ、ァ』
そこから漏れ出る音は勝利の喜びではなかった。
思わず漏れ出てしまったというのが正しい。
まるで信じられないものを見てしまったのように。
「――――」
そいつは土に塗れながらもそこに居た。
違いといえば額に湾曲した角が生えているところか。
そいつは四肢に力を籠め、今にも跳び出せる状態だ。
何なんだコイツは。と胸中に湧き上がるのは疑問と驚愕、そして恐怖。
3回。
それは確実に仕留めたと確信した数。
最初は面白い、2回目は運の良い獲物だと思っていた。
そして3回目、感じたのは得体の知れなさ。
振った棍棒に自ら頭をぶつけるのをこの目でしっかりと見ていた。
しかし手ごたえは異常だった。
始めに感じたのは獲物に当たった僅かな重み。
だが次の瞬間まるでそこには何も居なかったかのように棍棒は何の抵抗も無く振りぬけた。
原因はあの角だ。角を利用した受け流しだ。
そんなことをする兎なんて今まで見たこともない。
ここまで考えて気付く、こいつは他の兎と決定的に何かが違う、兎に似た何かだったのだと。
「フ――ッ!」
それは跳んだ。
額の角を突き立てるために。
右腕は動かず、左腕は今振り切った棍棒に引かれ伸びている。
防ぐことは出来ない。
『グ……ォオ!!』
とっさに動いたのは足。
左足を軸にした右足での前蹴り。
体勢が悪くバランスを崩し、後ろに倒れるがそれは黒兎へと迫る。
黒兎は迫る蹴りに焦ることなく、
「――っ」
繰り出されたその細く小さな脚に着地する。
「……なっ!?」
そして、脚を支点に黒兎は跳んだ。子鬼ではなく川下に向かって。
『――ッ!?』
予想外の事に目を丸くする子鬼。
後ろに倒れながらも黒兎を目で追えば、一目散に川下に向かって跳んでいた。
子鬼には何が起きたのか理解できなかった。
理解する前に意識が闇に呑まれたからだ。
●
子鬼から逃げたのは嫌な予感がしたからだ。
虫の知らせともいえる。
従った結果としてそれは正しかった。
「嘘だろ……」
一瞬だった。
転倒する子鬼の背後、草陰から飛び出したそいつは一瞬で子鬼の命を刈り取った。
首を噛み砕かれた子鬼はピクリともしない。
「狼なんて居るのかよ……」
赤茶の毛に包まれたその生き物は教科書やテレビでみた狼に酷似していた。
狼は何かを確かめるように子鬼を何度か噛んだり、振り回すと、
『――――』
何かが気に入らなかったのか子鬼を吐き捨てた。
興味を失ったのかその死体に目を向けない。
「――ひっ」
じろりと狼は黒兎に視線を向けた。
彼我の距離は5メートルほど。
しかしその距離は狼にとっては一瞬で届くような距離だろう。
先の子鬼を仕留めた動きから黒兎は分かってしまう。
足が動かない。
下手に動いて狼に刺激を与えるのを恐れてしまっている。
その狼は先ほどの子鬼とは違った。戦って自分が勝つイメージが全く見えない。
『――――』
狼が一歩踏み出す。次の瞬間跳び掛ってくるだろう。
……も、もう駄目だ。
もはや破れかぶれで一矢報いようかと考えたとき、それは来た。
『……!?』
狼の背後、川上から現れたのは頬に一文字の傷を持つ子鬼。
おそらく中々戻らない相方の子鬼の様子を見に来たのだろう。
その顔は驚きに染まっていた。
そんな一文字の登場に反応したのは狼だった。
『ガ――!!』
瞬く間に一文字との距離を詰めた狼はその牙を突き立てようとする。
対する一文字は驚いていたにもかかわらず棍棒を盾にし、その牙を防ぐ。
防がれた狼は棍棒の表面を牙で削り、距離をとる。
2匹はお互いに睨み合う緊迫した状況に持ち込まれた。
……今のうちに逃げられるんじゃね?
果たしてその目論見はうまくいった。
もはや2匹の眼中に黒兎は無いのか、逃げた黒兎を追う者の気配は無かった。