第二章 森
「俺やさっきの兎が角を生やせるからまさかとは思っていたけど……。やっぱここ地球じゃないのか」
日の光を殆んど通さない薄暗い森の中、一匹の黒兎が呟く。
今黒兎の頭を悩ませていたのは、黒兎の脇を駆け抜けていった物体だった。
「まぁ、走るキノコとか地球に存在しないし」
それは傘に鉢巻きを着け、二股に分かれたツボと呼ばれる部分で全力疾走するキノコだった。
「ないわー」
胸に溢れた言葉を吐き出しながら見上げる。
森の木々の葉に隠れ、所々に見えた空は青く澄んでいた。
また一つ異世界の神秘の一端に触れた黒兎であった。
●
「巣から離れたからか追ってはこないみたいだな」
兎の巣から逃げ出してから数分。
森の中を徘徊しているが追っ手の気配は無い。
あの兎たちにとっては黒兎という異端が自分の縄張りから出て行くだけで十分なのだろう。
集団私刑の危機は去ったが、また別の危機が黒兎に訪れていた。
「これから生きてく上で大事な『衣・食・住』をどうにかせねば。『衣』は毛があるし、『食』はあと水の確保で、『住』はどうするか……」
幸い『食』に関しては、そこら中に生えている雑草で十分だった。
兎になったせいか草特有の青臭さをアクセントに美味しく食べることができた。
あとは水分の確保だけだ。
そして一番厄介なのが『住』だ。
望ましいのは水場が近いことと、安全なことの2つが両立している場所だ。
「とりあえず水場から探してみるか。夜になる前に見つかると良いけど」
当面の目標を定めた黒兎は森の中を進む。
所々で黒兎の遥か頭上で果実のようなものが実っているのを見掛けたが、角が生やせるだけの兎には採れるはずもなく、涙を呑んで素通りしていった。
「くそぅ、せっかく異世界転生したのに主食が雑草とか。いや、美味しく頂けるから問題は無いけど。――いつかは食べたいなー。あと水場はどこー?」
黒兎は後ろ髪を引かれる思いでその場を後にした。
それから1時間程が経過した。
「うーん。見つからんなー」
が、水場はまた見つからない。
額の角を伸び縮みさせながら周囲を眺める。
どこを見渡しても木、木、木。
水のみの字も見当たらない。
その時ふと天啓ともいえる考えが浮かんだ
「そうかさっきの巣の近くを探せばあの兎たちが利用している水場が見つかるはず。……あぁ戻ろうにも道が分かんない。やっちまった」
なんでもっと早くこの考えが浮かばなかったのかと、悔やんでも悔やみきれない。
「ああ。角の使い方だけが上達して行く……」
暇つぶしと実用を兼ねてこの体の実力を確認してみたところ、意外と高性能なことに気づいたのだ。
まず視覚だ。
これがほぼ360度見渡せる。
実際の兎の視界は300度程で、顔の真正面の約2メートルは死角で色盲といわれているが、そんなことは無かった。
背後の自分の体で隠された部分は見えないが、それ以外は上下左右よく見渡せるし色も生前の人間のときと変わらず色鮮やかだ。
ただ、両目同時に視認できる上と前後以外は片目のため立体的に物を見る事ができないが、それを補って余りあるほどの視覚能力だ。
他には嗅覚。
これも素晴らしい。
兎は犬の次に鼻が良いといわれているが少なくともこの体の鼻はそうらしい。
獣臭い匂いを感じたら遠回ることで探索しているため襲ってくるような相手とは未だ出会っていない。
そして聴覚。
嗅覚では感じられない虫や爬虫類の微かな羽音や這いずる音に対応。
おかげで蜂の集団や蛇を事前に回避することができた。
更には味覚。
味蕾の数が人間より多いというが、おかげで雑草を美味しく食べられます。
触覚のヒゲ。
触れた感覚をある程度覚えられる。チャームポイント。
「逃げ隠れに最適ですな」
そして普通の兎には無い角。
仕舞っている時は傍目ではただの兎と見分けがつかないが、伸ばせば約50センチ程という脅威の収納性。
これは自らの意思で伸縮ができ、ある程度なら形状も変化できるようだ。
鉤爪のように湾曲することも返しを作ることもできる。
他には先端を尖らせず棒状にすることもできた。
ただ、三叉槍のように先端を分けることや、角の側面を刃物のように鋭くすることは出来なかった。
複雑な形はできない等、色々限界があるようだが武器としては十分だ。
「やっぱこの体って魔物とか魔獣みたいなものなのか? たぶん生まれてからそう経ってないはずなのに結構動き回れるし」
目が覚めてから色々あったというのに体は未だに疲れを感じていない。
回復力が強いのか、はたまた肉体が強靭なのか。
「ただ、角兎ってゲームや小説とかで、素人でも狩れちゃったりするような最弱の代名詞みたいなもんだよなー。あとはアレか転生主人公に戦いと命の重さを教える役目とかか」
流石に現実は小説程ではないだろうが、それでも食物連鎖では下位に位置するだろう。
「でもまぁ何とかなるでしょ。まずは水を確保しないと。さっきまでのやり方じゃいつまで経っても見つからないだろうし」
危険から逃げながら安全に水場を見つけるなんて少々驕りが過ぎていたようだ。
「虎穴に入らずんば虎児を得ずっていうしね。誰も居ない水場なんて理想を探すよりは、使われている水場を利用した方が手っ取り早いかもしれない」
このまま水場が見つからなくては待っているのは乾いた死だ。
そうと決めれば空中の匂いを嗅ぎ分ける。
水場に向かって行きそうな匂いを探して。
●
狙いは臭い匂いを放っている生き物だった。
この森を歩いて分かったことは、強い匂いを放つ生き物は殆んど居ないということだ。
だいたいの生き物が水浴びか何かの方法で匂いを落としているのか匂いは薄かった。
だから、その中で強い匂いを放つ生き物は近いうちに水浴びをするだろうという予測を立てた。
が、
「強い匂いを辿ってみればこれか……。さすが異世界、お約束に忠実ですね」
黒兎は雑草の茂みに身を隠しながら目標を見つめていた。
視線の先には緑色の肌を持つ子供が2人居た。
その顔は醜悪に歪み額には小さな角が生えており、武器と思われる棍棒を手に、そして腰に小さな袋を所持していた。
ファンタジーでも有名なその名は、
「子鬼か。水浴びするかは分からないけど、水分補給はするかもしれない。これは期待できるぞ」
2体の子鬼は獲物を探しているのか周囲を警戒しているが背後の黒兎には気づかない。
黒兎は初めて見る子鬼という存在に興奮していた。
生前では伝承の中の存在が目の前で動き回っているのだ。
観察してみると子鬼というのは感情豊かだ。
お互いの意思疎通ができるのか時々笑いあったり、ボケとツッコミの漫才らしきことをしている。
「子鬼の意外な生態ってか。……おや?」
予想外の光景にほっこりしていた黒兎だったが、その鼻と耳である存在が近づいてくるのを感知した。
その存在は子鬼たちの目の前に突然飛び出した。
現れたのは子鬼の膝程の大きさの一匹の角兎だ。
子鬼たちも角兎もお互い相手の存在に気づいていなかったのか、見詰め合ったまま固まる。
先に動いたのは角兎だった。
逃げると思いきや、角を伸ばして子鬼たちに突撃するではないか。
だが子鬼たちもただで受けはしない。
狙われた方の子鬼は半身になり角を躱す。
そしてただ躱すだけではない。
空を突いた角を空いている片手で掴むと、角兎の勢いを利用し、遠心力を加える一回転で地面に叩きつけた。
その衝撃で角兎はピクリとも動かない。
するともう片方の子鬼が確実に止めを刺すのか棍棒を角兎の首に叩き込む。
何かが砕ける音とともに角兎の命が散った。
それは一瞬の出来事だった。
「あの子鬼、危険だな」
黒兎は同属が殺されたことよりも角兎を叩きつけた子鬼に警戒する。
真っ直ぐ突っ込むだけの単純な突進だったが、それゆえ速度はそれなりに出ていた。
それをわずかな動作で躱し、高速で移動する角を掴んで地面に叩きつける。たったそれだけの動作にどれほどの身体能力と膂力が必要なのか今は見当もつかない。
もう片方は角兎が気絶するまで反応出来ていなかった。膂力以外は気にしなくてもいいだろう。
死んだ同属に同情はしない。
どう考えても2対1という不利な状況で逃げずに仕掛けたのだから。
弱肉強食。弱ければ死に強ければ生きる。この黒兎の身に生まれたのもあるが、前世の最期もあってその言葉がしっくりとくる。
「これは慎重に追跡しないと」
と、気を引き締めた。
これからこの森で生きるのだから危険な相手を覚えておくのは重要だ。
幸いな事に警戒対象の子鬼は頬に一文字の傷がついていた。
……あの特徴的な一文字傷は覚えておこう。
黒兎が一文字の顔を必死に記憶していると子鬼は地面の土で汚れた角兎を叩いていた。
それでも土が完全に落ちないのを確認すると子鬼は腰の袋を手に持った。
何をするのかと黒兎が訝しんでいると、袋から水が出てきたではないか。
「あれは水筒だったのか」
水で土を流そうとするが袋に入っていた量は少なく、角兎の汚れを酷くするだけだった。
それでも諦めず子鬼が汚れを落とそうとすると、一文字が子鬼を手で制しある方向を指差した。
その方角に何があるのかを思い出したらしい子鬼は意気揚々と角兎をどこかに運ぶ。
獲物を運んでいく子鬼の後ろをこっそり着いてゆくと、黒兎の耳と鼻にせせらぎの音と清涼な水の匂いが届いた。
「もしかして洗おうとしている?」
一文字はもう1体の子鬼に比べて知性があるように見える。
相方の水筒の補給と獲物の水洗いに寄ったのであろう。
黒兎は喜んだ。
持久戦を覚悟していたらこんなに早く水場を発見できたのだ。
しかも湧き水ではなく小川。
この川に沿って移動すれば水は確保できるし、目印にすれば迷子になる心配は無いだろう。
彼らから離れた所にあった手頃な茂みに身を潜らせて様子を窺う
すると一文字が川の傍で角兎の血抜きを始めていた。
「離れるまで待つか」
黒兎は一文字の獲物処理の手際に感心しつつ、その場で子鬼たちが去るのを待っていた。