選択型お題「逃亡者」
「鬼ごっこしよ」
突然目の前に現れた少女は、可愛らしく微笑んでそう言った。
「お友達は?」
「いないよ。ねえ、鬼ごっこしよ。ほかの遊びがいい?」
「いや……」
僕はたまたま公園にいて、ベンチに座ってひなたぼっこをしていた。今日は天気がいいので、めったに来ない家の近くの公園で、小さな子供たちの戯れる姿をぼんやりと眺めていただけだった。
それなのに、僕は今、見ず知らずの少女に遊ぼうと誘われている。遊んでやればいいのに、と呆れた声がぽかんとする僕の頭の中で響き渡る。それとは逆に、もう一つの心の声が深くのしかかった。
「遊ぼうよ。早く」
「ま、待って……きみ、二人で鬼ごっこするの?」
「うん。だめ?」
首を傾げて問われると、子どもが大好きな僕としては断りづらい。つい承諾してしまい、まあいいかと苦笑いした。
「お兄ちゃんが鬼ね!」
天真爛漫な少女の声を聞きながら僕はカウントし始める。子どもに戻ったような気分で、なんだか楽しくなってきた。
昔は、鬼ごっことかかくれんぼとか、凄く嫌いだったような気がする。何故かは覚えていないけれど……。
十数え終えると、少女の姿はもう見えなかった。子どもの目線で考える。僕ならどこに隠れていただろう。思い出そうとする。けれど、記憶に霞がかったようにぼんやりとしか思い出せない。やっぱり、十年以上も昔のことは難しいか。
仕方なく僕は自分の思考に従って歩き出した。最初だし、近いかも知れない。けれど相手は少女だし、容赦はないだろう。
女の子だから、木の上にはさすがに登らないだろうか。僕は一応上を見上げた。それらしい影はわからなかった。
「――ッ、見つけた!」
「きゃあ、あははっ!」
前方の木の影から少女の服が少し見えた。なるべく大きな声で聞こえるように叫ぶ。見つかって移動しようとする少女を追いかけた。
突如、めまいが僕を襲った。ぐらりとよろめく体。前に動こうとしても、斜めに動いているような感覚。立っていられなくなって、僕は一度地面に膝をつけた。
――何だろう。さっきまで普通に走っていたのに。それに、今まで立ちくらみなんてほとんどなかった。貧血も起こしたことはない。調子が悪いのだろうか。
ふと少女のいた前方を見やると、彼女はもういなかった。
小さい子を一人にするわけにもいかず、鬼ごっこを終わらせるためにも、僕は立ち上がった。
* *
「あはは、おもしろかった!」
結局、少女を見つけるが捕まえられないという状態が続き、僕は降参した。しゃくだったが、少女は喜んでいるのでまあいいだろう。
「きみはお家に帰らなくていいのかい? もう暗くなってきたけど」
公園の遥か向こうの空には、夕焼けで赤く染まった雲がゆっくりと流れていた。
「……うん。もうちょっとだけ。今度はわたしが鬼やるから! ……だめ?」
心配そうに見上げてくる少女を見て、僕は何か事情があるのかと察した。じゃあ、あと一回だけね、と念を押して、僕は逃げるために立ち上がった。
彼女に鬼ごっこに誘われた時にどしりとのしかかった言葉を、突然思い出した。
「……お兄ちゃん?」
「あ、うん。逃げるよ」
「うん! じゃあ数えるよ」
いーち、と子ども特有の高い声で、少女は数え始める。僕はそれを見て、かぶりを振って走り出した。
きっとこの事を予想して感じたんだ。こんな女の子に、追いかける以外何ができるんだ。どうかしてる。僕は疲れているのかも知れない。帰ったら、ゆっくり休もう。
こんな少女を見て、「逃げなければ」、だなんて。
「……じゅーう」
木に伏せていた顔を上げて、きょろきょろと周りを見回す姿が目に浮かぶ。僕はなるべく息を殺して、足音を立てないよう心がけた。
何でこんなに必死になるんだ。相手は子ども、ましてや女の子だ。確かに、運動不足のせいか、彼女を捕まえることは出来なかったけれど。
そう思い込んでも、一度感じたこの気持ちはなかなか収まらず、暴走する一方だった。
そう、僕は少女に恐怖を感じている。
逃げろ、と本能が全力で叫んでいる。
「お兄ちゃん、どこかなあ」
小さく呟く声が聞こえた。――少し、頼りない声だった。
急に僕から恐怖心が弱まり、夢から醒めたように冷静になった。僕は、薄暗い公園で子どもと鬼ごっこをして、何を真剣に逃げているんだ。よく聞けば、少し震えているかも知れない。寂しくて声をかけてきたかも知れないのに、どうして恐怖を感じるんだ。
――待ってよ、置いてかないで……!
ため息を吐いた瞬間、声が頭に響いた。
今のは、誰の声だろう。聞いたことのあるような、小さい子どもの声だった。
――ついてくんなよ!
また声がした。今のは僕の声だ。小さい頃の、記憶だろうか。女の子と遊んで、ケンカでもした記憶なのだろうか。
情景が脳裏に浮き上がってくる。だんだん思い出してきたようだ。これは、この公園での出来事か。記憶の僕の視界には今と同じようにブランコが見える。公園を出て、道路を横断する。
後ろで、車が急ブレーキをかける耳障りな音が聞こえる。
僕は、振り向いた。彼女は、どこだ? 何かでケンカして、帰ろうとする僕をあの子は追ってきていたはずだ。
どこに、行った?
「捕まえた」
「あ、ぐ、」
軽やかな声が頭上から転がり落ちてきた。上を見る暇もなく、僕の意識は旅立った。
最後に聞いた声は、確かに記憶の中の少女の声だった。
H18.9.3.