09* 風囲い
あれから、ほとんど眠れなくて羽枕に顔を埋めたのは、太陽が朱色の裾を覗かせてからだった。
レジーナが寝室の窓を開けに来た時も、まるで種の様にまるまって眠っていた。
掛け布が螺旋を描いて、こんもりと小さな山が出来ている。
思わず笑ってしまいながら、山の頂上にそっと手を添える。
「リゼイラ様、朝ですよ」
優しく揺すぶると子猫の鳴き声のような小さな声が漏れる。
そう思ったのはレジーナの気のせいかもしれない。
リゼイラは話せないのだから。
数度呼びかけると、青白い目蓋がゆっくりと開かれた。
「おはようございます。もう朝ですよ」
朗らかに朝の挨拶をすれば、半分夢の中のリゼイラがほにゃと笑う。
そんな表情は、まるで赤ん坊のようで見るたびに実は癒されているレジーナだ。
抱きしめて頬ずりしたくなる衝動を必死で抑えて、目をこすりながら起き上がる主人のために水差しを用意する。
リゼイラの髪は、真っ直ぐだが触ってみると見た目に反してとても柔らかい。
そのせいか朝起きると、くるくると変な癖が良くついている。
今日も、枝豆の蔦の様になっている髪をレジーナは櫛で梳く。
半分寝ぼけているリゼイラは、促されるように顔を洗って、鏡の前でされるがままになっている。
「今日は珊瑚の耳飾りに合わせましょうか」
小さな花を二つ重ねた華奢な耳飾りでリゼイラを飾って、専用の部屋からそれにあう衣装を取り出してくる。
レジーナが選んだのは、淡紅色の絹にそれよりも明るい色で小鳥の刺繍がしてある物だ。
リゼイラが輿入れした時に用意された多くの衣装の内の一着だ。
綺麗な絹はただの女官であるレジーナなど一生袖を通せないくらい高級なものだ。
少しだけひんやりした布地にうっとりしながら、ぽやぽやしているリゼイラに着せ付けていく。
あまり派手ではないが、無垢な印象の強いリゼイラが着ると、病的なほど白い肌に色が添えられて明るく映える。
最後にふんわりとした布を背中で結んで支度が完了する。
本当ならこの後で、対で用意された靴を履いてお仕舞いなのだが、足を痛めてから室内では素足で通していた。
前の様に誰か訪れてくれば別だが、それ以外であれば特に見る者もいないのだからとライドールが提案したのだ。
レジーナも、リゼイラの足が無闇に傷つくよりは、とその考えに賛同した。
結果、リゼイラは痛みから離れて自由に歩きまわれるようになった。
「それじゃ、髪をまとめますね」
一度梳いた髪を、今度は少量の蜂蜜を混ぜた水を振りかけながら綺麗に結っていく。
長い髪を一つに大きく結うのが今の流行だが、まだ幼いリゼイラには似合わない。
とは言っても少女たちのように、二つに結わえてしまうのも子どもっぽくなりすぎる。
櫛を片手に考えて、両脇の髪を緩く編んで耳の上で纏め上げた。
小粒の真珠の髪飾りを添えれば、まるで神話に出てくる春の女神のようだ。
自分の腕に満足して一人頷いていると、そこで目がハッキリと覚めたらしいリゼイラがびっくりしたように鏡を見ていた。
「あ、どうですか?頭とか痛くないですか?」
恐る恐る髪に手を伸ばしていたリゼイラは、パッと手を放してから小さく首を横に振った。
レジーナはまるで精霊のようだといつも思う。こんなに凄い事がすぐに出来てしまうのだから。
尊敬の眼差しで見上げると、にっこりと屈託ない笑みが返された。
「それじゃ、朝食の準備を致しますね。今日は、美味しいチーズがあるんだそうですよ」
軽やかに部屋中を飛び回るレジーナを、小さな微笑みと共に見ながらその後について食事を取るための部屋へと向かった。
公爵様のお屋敷はとても広い。
与えられた部屋だけで、お屋敷が埋まってしまうのではないだろうか。
そんな事を思ったけれど、庭に出て見てみれば、この部屋が幾つあっても足りないくらい大きかった。
円卓に置かれた花瓶に、まだ綻んだばかりの花が一厘飾られていた。
この花は、毎朝ライドールが庭園で取ってきてくれているらしい。
こっそりレジーナに教えてもらった時は、驚きと嬉しさで涙が零れそうだった。
準備された席に着くと、部屋の隅にいたライドールが銀のお盆に朝食を乗せて運んでくる。
今日の献立は、柔らかい白パンと塩付けのハムにとろんとしたチーズ、小皿には採れ立ての果物たち。
あまり食べれないリゼイラの負担にならないようにと、その量も加減されている。
パンに付けるためのジャムや蜂蜜も数種類ずつ用意されあった。
最近のリゼイラの楽しみは、この豊富な種類の中から一つを選ぶ事だ。
望めば好きなだけ、好きな種類を食べて許されるのに、リゼイラは毎朝一つだけ選ぶ。
「今日はどれになさいますか?昨日新しく作られた杏もありますよ」
レジーナが紅茶の準備をしている横でライドールが、ジャムの小瓶をリゼイラの前に並べる。
真剣な眼差しで悩んでいるリゼイラに、ライドールの口元が知らず綻ぶ。
そうしてそっと指差された新作の杏のジャムを掬い取って皿のふちに乗せる。
「この前、厨房の者たちにリゼイラ様がジャムがお好きなようだと伝えたら、早速作りだしたんですよ」
その時の料理人たちの意気込みを思い出してレジーナはクスクスと笑う。
あまり部屋の外から出ないリゼイラだったが、あの庭でお昼を食べた時に厨房まで足を運んだのだ。
美味しいお料理のお礼を言いたくて、少し困ったようだったライドールに珍しく強く頼んだのだ。
突然現れた公爵夫人に厨房は大混乱だったが、言葉でなく身体いっぱいで感謝を表したリゼイラに、一目で好感も持ったようだ。
あれ以来ライドールやレジーナが厨房に顔を出すと、お好きな物は何だ、今日はたくさん召し上がったのか、と質問が怒涛のように押し寄せてくる。
本来であれば、もっと品数も量も多く出てくるはずの食事が少ないのも、厨房の心遣いの一つだった。
そんな優しさが嬉しくて、頬を紅潮させながら杏のジャムを乗せたパンを一口食べる。
杏の香りと甘みがふわりと口の中に広がって解ける。
美味しい。
心のままに笑えば、美味しかったと伝えておきますね、とレジーナに言われた。
本当に夢のような幸せだとリゼイラは、不思議と苦しくなる胸を握り締めた。
美味しい朝食も済んで、ぼんやりと柔らかな日差しに身を委ねていると自然に思い浮かぶのは昨夜の事。
たくさんの話を聞いて、そのどれもが面白かった。
けれど、その話を思い出そうとしても何も思い出せないのだ。
記憶を反芻すれば、浮かび上がるのはあの青年の笑顔。
夜空の下で語らったと言うのに、その人が思い浮かぶのは温かな太陽の光なのだ。
温かくて、とても印象的な微笑み。
見ていると苦しくて、心臓が痛くなるのだ。
笑っている顔で、怒っていたり、嫌な顔をしているわけじゃないのに。
何故だか、いまこうして思い出すだけでも苦しくなる。
どうしてだろう。
ここに来てずっとたくさんの想いを経験したと思う。
けれど、その中にもこんな気持ちは存在しなかった。
痛くて、苦しくて、熱くて。
ふっと吐き出した息にも、熱がこもっているような気がする。
一人掛けの柔らかな椅子の上で、リゼイラはころんと丸くなった。
綿打ちのされた椅子は、膝を抱えるリゼイラを包み込んでくれる。
まるで自分自身を守るようにうずくまるのはリゼイラの癖だった。
「リゼイラ様、眠いのでしたら寝台までお連れしましょうか?」
朝からどこかぼんやりとしている主人を気遣って、ライドールが申し出る。
心配かけてしまっただろうかと慌てて顔を上げて、首を横に振る。
ホッとしたように笑うライドールは、手にした本をリゼイラに差し出した。
「よろしければお読みになりますか?昨日、部屋の整理をした時に出てきた物ですが」
両手で受け取ったその本は、正方形に近い形をした大判の絵本だった。
少しだけ色褪せた表紙には美しい庭園の風景と東屋が描かれていた。
ライドールが本来なら処分されるはずだった本をとって置いたのも、この表紙絵を見たからだ。
庭の風景をいつも憧れるように見つめている主人に見せたら喜ぶだろうかと思ったのだ。
その考えが正しかったのは、見る間に綻んだ表情で明らかだった。
絵本は今まで見たこともないくらい素敵なものでいっぱいだった。
四季折々の花が咲き乱れ、極彩色の小鳥や蝶がとびかっている。
一枚一枚の絵をまるで夢見るような顔で眺めて、リゼイラはほうっと吐息を吐き出す。
なんて素敵な場所だろう。
ここのお庭も素晴らしいものだけれど。
虹色に輝く空や青い羽を散らす小鳥、黄金の果実などは見た事がない。
広い世界には、こんな華やかな場所が存在するのだろうか。
リゼイラにはこの絵以上の想像など全く浮かばない。
食い入るように見つめるリゼイラに、ライドールが紅茶と焼き菓子を用意して声をかける。
レジーナは、先ほど呼ばれてこの場にはいない。
「それは神界の様子を描いたと言われる絵なのですよ」
適度に冷まされた紅茶を受け取って、リゼイラは初めて聞く単語に首を傾げた。
シンカイって何だろう?
疑問をいっぱいに広げたリゼイラに、ライドールは優しく説明する。
「神の世界と書きますが、神族が暮らす世界のことです。神族は、美しい黄金の髪とこの空の様な青い瞳を持っている種族で、滅多な事では人間界には降り立ちませんね」
ライドールはリゼイラの膝の上の本を指で繰って、一枚の絵を指差した。
そこには、たわわに実る果実の木に戯れる神族の姿が描かれていた。
そのどれもが、ライドールの言うように金の髪と青の目をしていた。
まるで、昨夜の自分と同じように。
今までとは違う熱心さで絵を見つめるリゼイラにライドールは気付かなかった。
酷く取り乱したように戸が叩かれたからだ。
驚いて確認の声をかけるとレジーナが、飛び込んできた。
いつも元気な彼女だが、こんな乱暴な所作は初めてだ。
リゼイラも驚いて胸に手を当てて息を整えている侍女を見つめた。
「どうしたんだ?」
近くの水差しから水を注いでやってライドールが尋ねる。
冷たい水を一気に呷って、ようやく落ち着いたらしいレジーナはまずリゼイラに無作法をわびた。
「す、みま、せん。ちょっと急いでいたもので」
まだ荒い息で謝るレジーナにふるふると首を振って、そっと気遣うように手を伸ばす。
小さく優しい温もりにレジーナは、感謝の笑みを浮かべる。
本当に愛すべき主人だ。
思わずほんわかした室内だったが、レジーナは慌てて我に返る。
「そ、そうです!大変なんです!」
「だから何があったんだ?」
訝しげな仕事仲間に、レジーナは掴みかかる勢いで詰め寄った。
「ご主人様がいらっしゃるそうです!」
「……ご主人様が?」
「そう、公爵様が!」
勢いに呑まれたライドールがなすがままに言葉を繰り返して、最後にハッと表情を強張らせた。
レジーナは泣きそうに顔を歪めている。
「どうしましょう……」
「いつお出でになるんだ?」
「午後からお見えになるって。何のお話なんでしょう。このままお会いにならないのだと思っていたのに」
不安げに呟くレジーナの視線の先には、戸惑うように首を傾げたリゼイラがいる。
何も知らない幼い主人に、まだ仕え始めたばかりの二人だが、本来の主人である公爵よりも心を傾けている。
公爵に問題があるわけではなく、ただどうしても立場が弱くなるであろうリゼイラが愛しいと思うのだ。
貴族の生まれで、何不自由なく育ったであろうに、こうして周りの者たちをごく自然に気にかけてくれるリゼイラに心から仕えたいと思っている。
できるなら、幾らの災いも降りかからぬように。
「とにかく、いらっしゃるのだから準備を整えなければ」
「そうね。リゼイラ様には私から説明するわ。衣装などはこれで良いわよね」
「あぁ。靴を用意するのを忘れないように」
「判っているわ。それと少しだけお化粧も」
慌しく打ち合わせて、二人は大車輪で動き始めた。
にわかに忙しくなった部屋にリゼイラは、本を抱えたまま困惑していた。
居場所なく立ちすくんでいたリゼイラの手をレジーナがそっと引いた。
寝室の方へと誘って、朝の支度の時のように鏡の前に座らせる。
「リゼイラ様、さきほど連絡がありましてお昼に公爵様がお顔を見せに来るそうです」
告げられた言葉にリゼイラは目を丸くした。
そうして、頭に木霊するのは地下にやって来た男の高笑いと蔑むような眼差し。
ぞくりと身体を震わせたリゼイラを、不安がっているのだと受け取ったレジーナは一生懸命に取り成す。
「大丈夫ですよ。少し厳しいところもありますが、本当はとても優しい方ですから」
言いながら、その優しさがリゼイラに向けられるのは難しいだろうと思って、苦い思いを飲み下す。
どうしてリゼイラ様なのだろう。
思っても仕方なのない思いが、何度も巡る。
公爵様を幾度となく貶めてきた子爵の名はレジーナも知っていた。
だから、子爵令嬢のお世話を任じられた時少しだけ嫌な気分にもなったりした。
けれど実際に見えたリゼイラは、まるで繊細なお姫さまそのもので、疎むには純粋だった。
お傍に侍るようになって、どんどんその慎ましやかな性格や分け隔てない優しさが大好きになった。
「……大丈夫ですよ。私もお傍におりますから」
浮かびそうになった涙を、瞬きで乾かしてレジーナはにっこり笑った。
一緒に握り締めたリゼイラの手は、悲しくなるくらい小さかった。