08* 予兆
愛も恋も知らない。
愛される事も、恋する事も。
望んだ事など一度としてないから。
ただ、安らかに。
ただ、穏やかに。
日の光の下で笑うことを許してもらえるなら、それだけで幸せだったのに。
太陽が朱色の残光と共に褥に入り、清冽な月光が導となる。
昼間の突然の訪問者に疲れていたはずの体は、月の光に誘われるようにして寝台から起き上がっていた。
リゼイラは夜が好きだった。
あの暗く湿った地下に蹲るように寝ていた時から、夜が来るのが待ち遠しかった。
何故なら、ハクランが訪れてくれるから。
気がつけば傍にいてくれた精霊は、いつも夜になると変わらぬ微笑みで会いに来てくれた。
誰にも構われる事のなかった子供にとって、精霊の存在だけが喜びであり楽しみだった。
だからか、夜になりハクランが訪れる時刻になると自然と目が覚めるのだ。
慣れた足取りで露台から庭へと降りる。
空には満ち始めの細い三日月。
戯れる風が、リゼイラの全身を洗うように吹き抜けた。
瞬間、リゼイラはがらりとその姿を変じる。
幼い子供の姿から、大人へと足を踏み出した狭間の美しい姿へと。
月金色の髪がキラキラと星明りに揺れて、視線が高くなった頃にリゼイラは戸惑った。
思わず足を止めたリゼイラは、輝く金の髪を疑問に思いながらもあの泉へと急いだ。
ハクランなら何か知っているかもしれない。
ドキドキと高鳴る心臓は、この姿のせい。
リゼイラは敢えて考えないようにしていた青年の事を思い出して、知らず頬を赤く染めた。
背の高い、逞しい体躯の青年だった。
現れた一瞬に、恐怖は覚えたが、穏やかな瞳と清潔感のある顔立ちに一目で好感を抱いた。
何故かその顔を見た時に嬉しい、と思ったのだ。
知らず、もう一度会いたいと思っていた。
ハクランがあの場から連れ戻してくれた一瞬前。
何かを言おうとしていたのも思い出す。
風に音を遮られて、声が聞こえなかったのだけれど。
何を言っていたのだろうか。
気付けば、名前も知らない青年の事ばかり考えていたリゼイラはふるふると顔を振った。
火照った顔を夜風で冷やす。
見覚えのある繁みを越えて、リゼイラは泉の元へと足を踏み入れる。
『ハクラン?』
誰よりも安心出来る精霊の名を呼んで、リゼイラは驚きに足を止めた。
そこに精霊の姿はなかった。
代わりに、かけられたのは聞いたことのない声。
「……また、お会いできましたね」
あの夜、出会った青年が泉の淵に立っていた。
デイルは、夜が訪れると居ても立っても居られなくなった。
また会える保証など万に一つも存在しない。
けれど、幾ばくかの可能性であの泉に彼の人が現れるかもしれないのだ。
そう思うと夕食もそこそこにデイルは月が昇るのも惜しんで泉へと向かっていた。
滾々と湧き出る泉が三日月を映し、やはり無謀な賭けだったかと肩を落とした、その時。
かさ、と小さな葉擦れの音に一瞬で振り返っていた。
繁みから顔を出した姿に、初めは夢かと思った。
恋焦がれすぎた想いが見せる幻だろうかと。
惹き付けられるようにその顔から視線が外せないまま、また逃げられないようにと努めて優しい声を出した。
他人にここまで気を使ったのは初めてだった。
改めてその美しい姿を目の当たりにして、デイルは己が恥ずかしいほど緊張している事を自覚していた。
無様に掠れてしまった声に、深い羞恥心を感じながら、必死で続く言葉を探す。
「あの、どうか此方にいらしてもらえませんか?」
繁みの所で、立ち止まったままの美しい人を必死で掻き口説く。
もっと社交界にも興味を持つのだった。
そうすれば、もっと洗礼された所作で会話を繋ぐ事も出来るのに。
深く後悔しながら、けれどそんな悔やみはそっと踏み出された足音に瞬く間に消えて行く。
躊躇うように目の前まで現れた人は、やはり美しい。
流れる金の髪も、深い思慮と恥じらいを覗かせる青い瞳も。
触れたら壊れてしまいそうな華奢な身体つきまでが、デイルを魅了した。
「わ、私はデイルと申します。失礼でなければ、お名前をお聞かせ頂けませんか?」
ひっくり返る声を無様だと感じる余裕すら、デイルにはない。
ただ、今にも消えてしまいそうな恋しい人の事が一つでも多く知りたかった。
眩しげに見上げられて、デイルの心臓が大きく高鳴った。
花のような唇が、何事か音を紡ぐがデイルには聞こえない。
数度動いた唇は、やがて申し訳なさそうに閉じられてしまった。
「失礼ですが、お声が?」
そうだとしたら何と痛ましい事だろう。
ほっそりとした喉からは、きっと妙なる声が紡ぎだされるはずであるのに。
華奢な手が薄い絹の帯びの前で組まれ、ゆっくりと白い顔が上下した。
「それは、失礼しました!ですが、あの、お嫌でなければ少しの間でよろしいのです。貴方の幾ばくかの時間を私に与えては下さいませんか?」
咳き込むようなデイルの願いに、戸惑うように蒼空色の瞳が揺れる。
返事が返される僅かの間が酷く長く、まるで断頭台に上がる囚人のような気分で待つ。
呼吸すら止めて食い入るように見つめてくる眼差しに押されるように、天上の美しさを持つ人はそっと頷いたのだった。
デイルと名乗った青年の話はとても面白かった。
知らない世界の事を知るのは興味深かったし、何より楽しそうに語るデイル自身が素敵だと思った。
リゼイラには、こんなに熱中して語れるような事は何一つなかったから。
決して大きな声ではなく、ささいな日常の出来事や最近読んだ本の事を身振りを交えて話すデイルを眩しく思いながら、リゼイラは静かに耳を傾けた。
そうして過ごしている内に、初めに感じていた緊張はいつのまにか解れていた。
ただ、時折ジッと見つめてくる眼差しは不可思議な熱をリゼイラに伝えてくる。
決して嫌なものではない熱は、じんわりとリゼイラの心にしみこんで同じだけの温もりを残していく。
今までに感じた事のない感情に戸惑いながらも、この場から立ち去ろうとは思わなかった。
驚くほど打ち解けた空気の中、気付けばデイルの話にあわせて微笑んですらいた。
「……笑ってくださいましたね」
まるで少年のように素直な喜びを表すデイルに、リゼイラが慌てたように自分の顔を指で押さえた。
変な顔をしてしまっただろうか。
見当違いの懸念を抱くリゼイラを微笑ましく見つめながら、少しだけ照れながらそっとその指を捕らえた。
一回り大きく堅い指に、まるで硝子細工でも包むように触れられて、どうして良いかわからず掴まれた指先から硬直してしまう。
こう言った時に、どうすれば良いのか。
あの館の人たちは誰も教えてくれなかった。
ただ指先だけが触れているだけなのに、全身が縛られてしまったように動かない。
デイルの方もリゼイラの反応に、改めて意識してしまったのか赤い顔で固まってしまった。
身動きの取れなくなった二人は、造作が際立っているせいもあってかまるで彫像のようだ。
時間が止まってしまったような一時。
それを壊したのは、跳ねた水音。
泉の精霊がいたずらな笑い声を立てて、初々しい二人をからかう。
ハッとしたリゼイラが、思わずデイルの手から逃げ出すように立ち上がった。
あらためて見れば、どんなに二人の距離が近かったのか判って、驚く前に顔を赤くしてしまう。
どうして自分がこんな風になってしまうのかも、理解出来ずに混乱ばかりが先立つ。
それでも、空に架かっていた月がもう沈み行こうとしている。
戻らないと。
いや、それよりも早くこの熱い顔を冷ましてしまいたい。
『……ハクラン!』
混乱する中で、一つの導のようにリゼイラは誰よりも近しい精霊の名を呼ぶ。
呼びかけに応える様に風が、金色の髪を躍らせる。
去ろうとする気配を感じ取ったのか、追いかけるように立ち上がったデイルが声を上げた。
「また!また、お会いして頂けますか!この泉で、お待ちしておりますから」
必死の呼びかけに、リゼイラは馴染んだ風の腕に抱かれながら小さく、それでもハッキリと頷き返した。
『……ハクラン?』
部屋へと運び込んでくれた精霊はいつもと少しだけ様子が違っていた。
いつもなら、いくつかの言葉を贈ってくれて姿を消してしまうのに、今夜は考え込むように難しい表情で黙っている。
常と違うハクランの様子に、リゼイラは不安になる。
『ハクラン、どうしたの?』
月が光を消して、いつのまにかリゼイラは幼い姿に戻っていた。
小さな手が、透き通る精霊に重なる。
不安な気持ちが揺れる空気に溶けたのか、精霊は宥めるような笑みを浮かべた。
『いいや。なんでもないよ愛しい子。あの人間の男は…』
『デイル、さま?』
『そう……。好きかい?』
『好き?』
唐突な問いかけにリゼイラは、無垢な表情のままで首を傾げた。
言われた意味が判らない。
好き、と言う言葉はリゼイラの中であまりに希薄だ。
『ハクランは好き』
考えて出された言葉に、ハクランはホッとしたような困ったような不思議な笑みを浮かべた。
リゼイラは誰かを愛さない。
愛せない。
幼い姿のリゼイラにずっとその成長を見守ってきた精霊は安堵する。
『……でも、デイルさまは』
続けられた言葉は途中で途切れてしまった。
『悪かったね。変な事を聞いてしまって。良くお休み』
『ハクラン』
透明な眼差しに、そっと手を重ねてハクランは夜空に解けた。
一人、露台から外を眺めてリゼイラはそっと手摺に顔を伏せた。
『好き……じゃないよ』
好きなんて、優しくて心地よい感情じゃない。
ハクランに感じる気持ちはデイルには感じなかった。
一緒にいて好きだとは思わなかった、安心も出来なかった。
好きじゃ、ない。
ただ、呼吸が出来ないくらい。
熱くて、苦しくて。
笑った顔が、忘れられないだけ。