06* 月光浴
デイル公爵は色恋沙汰に興味を持たない堅物だと専らの評判だ。
だが、本人として言わせて貰えばそれは少し間違っている。
興味を持たないのではない、既に知っているからそれ以上は必要ないだけだ。
月夜の晩にひっそりとした静けさを楽しんでいたデイルは、執務室の机にあった物と同じ栞を大切そうに手にしてそれを額に当てた。
これはとても大切な思い出の証で、約束の形だ。
黄ばんだ台紙に貼られているのは、元々は金陽花と呼ばれる黄色い五弁の小花だった物だ。
既に色は茶色く変じていたが、思い出までは褪せる事はない。
目を閉じれば、明るい笑い声と共に思い出せる陽だまりの記憶。
あれは公爵家に連れてこられて間もない時だった。
無理やりに母と離されて厳しい貴族の暮らしを強いられていた頃だ。
歴史だ政治史だと、いい加減嫌になって屋敷を抜け出して適当に逃げ出した先で出会った優しい人。
今では、その場所が何処だったか曖昧だが、その人の事は良く覚えている。
栗色のふわふわとした長い髪をした美しい女性。
多分、何処かの貴族に囲われていたのだと思う。
けれどそんな影を感じさせない溌剌とした笑顔の素敵な人だった。
最初は迷い込んできたデイルに驚きながら、手作りの決して上手とは言えないお菓子を振舞ってくれた。
それからも何度となく訪れては、一緒に花を摘んだり洗濯をしたりと貴族の子弟とは思えない事を二人で楽しんでやった。
今でも忘れられない思い出がある。
数ヶ月ほど勉学の一環だと地方にやられていて戻って来た時。
彼女しか暮らしていなかった筈のその家に新しい住人が増えていた。
住人と言っても、小さな小さな子供。
生まれて一月ほどの赤ん坊だった。
彼女の子供だった。
―可愛いでしょう。やっと一ヶ月なのよ―
そう言って見せてくれた赤ん坊は、確かに可愛かった。
溶けるような愛おしそうな微笑みを向けられた幼子。
幸福を絵に描いたような母子の姿がまだ子供だったデイルにも強烈な印象を与えてくれた。
それが、長く続かない幸せだったとしても。
―名前はね、私の旦那様が与えてくれるのよ。でも、当分帰って来れないから勝手に私が付けちゃったわ―
旦那様、その言葉を口にする時彼女は恋する女性だった。
デイルの遊び友達でも、揺ぎ無い母親の顔でもなく。
一途にたった一人だけを心から愛する女性の顔だった。
―ねぇ、デイル。もし私に何かあったらあの子をお願いね―
いつだっただろうか。
突然にそんな事を言われて、驚いたことがあった。
今から思えば、何かしら感じ取っていたのかもしれない。
その時には赤ん坊は三歳になっていた。
母親に似て良く笑う子で、デイルはすっかり懐かれていた。
デイル自身、そんな子供が可愛くてお兄さん気分を味わっていたのだ。
―お願いね。旦那様が戻って来るまで、この子を守ってあげてね。約束よ―
約束。
その言葉と共に差し出されたのは、金陽花。
神々が誓いを交わした詞の欠片から生まれたと言われる美しい花。
―この子を、ミルレイアをお願いね―
―約束よ―
けれど、その約束を交わしてから二月後。
彼女は姿を消した。
ささやかな家は見る影もなかった。
勿論、小さなミルレイアの姿も。
体が砕けるかと思った衝撃を思い返して、デイルは唇を噛み締めた。
あの時の自分は彼女たちのその後を突き止める力はなかった。
だが、今はそれが出来るだけの力を得た。
今度こそデイルは彼女との約束を守ろうと決意していた。
小さなミルレイア。
母である彼女は病で没したのだと風の便りで知った。
けれどミルレイアの消息だけは、どれ程手を尽くしても判らなかった。
だが、死んだという確固たる証拠もなかったのだ。
まだ生きている可能性はある。
何としても見つけ出したかった。
褪せた栞を握り締めてデイルは目を閉じる。
目蓋の裏に、光を背に笑う彼女と幼子の笑顔が浮かんで消えた。
「ん?あれは……?」
目を開いて窓から庭を覗いたデイルは、視界を横切った物を捕らえ小さく呟いた。
ふと目が覚めたのは、優しい気配を感じ取ったからだ。
柔らかな羽毛の布団を退けて起き上がったリゼイラは、痛む足でひょこひょこと露台に続く窓へと向かった。
大きな窓硝子を音を立てないように開いて、誰も居ない庭へと出る。
素足で触れる草の感触は昼間は感じれなかった心地よさで、痛みを忘れてリゼイラは歩んだ。
夜風が薄い夜着をくすぐるが、風はリゼイラを傷つけない。
優しい温もりを与えながらただリゼイラを導くだけだ。
ゆっくりと歩を進めながら、昼間とは違う外の様子を見つめてうっとりと息を吐いた。
空は透明な黒に藍を垂らしたようで、星々が砂の様に散っていた。
草花は眠っているのか、そっと下を向いている様子が可愛らしい。
清かな空気を味わいながらリゼイラは迷うことなく足を進めていく。
そうして、辿り着いたのは庭の奥の生垣を越えた所にある小さな泉だった。
星明りに輝くその泉にリゼイラが近づくとふわりと胞子のような光が立ち上って一人の青年の姿を形作った。
『会いに来るのが遅くなってしまって、すまなかったね。愛しい子』
『ハクラン。いそがしいの?』
『いいや、心配する事は何もないよ。それよりも此処での暮らしはどうだい』
心配そうに眉を寄せたリゼイラに精霊はそっと否定した。
この無垢で優しい魂を悪戯に心配させる事をハクランは好まない。
誰よりも慈しみ、大切に愛されるべき子供。
甘やかな視線を注いで問いかければリゼイラは、幸せそうな笑みを浮かべて答える。
『レジーナもライドールも、とてもいい人。やさしい人』
『そう。それは良かった。愛されるべき子、そなたはもっと優しさを注がれるべきであるのに』
薄く透ける手がリゼイラの頭を包み込む。
すると、その手がゆっくりと下ろされるのに従ってリゼイラの姿が変じた。
亜麻色の柔らかな髪は、星明かりに輝く美しい月金色に。
『ハクラン?』
戸惑うように見上げる瞳は、宝石の様な淡く煌く蒼空色。
そうして何より変わったのは、リゼイラ自身の姿。
13歳ほどの幼い面立ちは、凛とした華やぎを見せる成人のものへ。
身体もそれにあわせるように成長している。
それは、リゼイラの数年後の姿。
やはり性別を感じさせない無垢さと儚さが印象的だ。
人の身には持ち得ないその色を纏ったリゼイラの姿は、まさしく天上の美しさだった。
『もう少し、もう少しだよ。悲しみの子。あと幾月も待たされはしないだろうから』
『どうしたの?ハクラン……』
『もうすぐ……っ、どうやら招かざる者が来たよう。今宵はここまでに』
すぅっと消えていく精霊に、取り残されたリゼイラは困り果てた。
悲しみの子、そんな風に言われたのは初めてだった。
考えに囚われれば不安が湧き上がってくる。
けれど、その前に消える寸前の言葉が気になった。ハクランはこの場に何かが訪れるのだと言っていた。
一体何が来るのだろうか。
此処からいなくなった方が良いのだろうかと考えたリゼイラだったが、それは少し遅かった。
ガサッと木々のこすれ合う音がして、黒い影が繁みから飛び出して来る。
思わず身を竦めたリゼイラだったが、やって来た者の方が驚いたようだった。
息を呑む音がリゼイラの元まで届いた。
ゆっくりと近づいてくる影を強張った身体で見つめどうすれば良いのかと必死で考える。
その間にも距離は詰められ、互いの顔が見られるまでになる。
「……まさか、神族?」
吐息のような声がごく近くで聞こえ、黒い影の顔をリゼイラは見つめた。
思いの外に端整な顔立ちの若い人間だった。
実直そうな面差しがリゼイラの何かを刺激した。
更に一歩踏み出してきた青年が、続けて手を伸ばそうとした時。
強い精霊の力が働いた。
「待って下さい!」
風の力に運ばれながらリゼイラの目は、何かを叫んでいる青年から離れられなかった。
ドキドキと胸が痛かった。
苦しかった。
それが一体何なのか、リゼイラには判別がつかない。
ただ、その夜からリゼイラは青年の面差しを追い続けた。
己にも良く分からない胸の痛みを抱えて。