05* 光合成
新しく始まったリゼイラの日常は、穏やかで楽しいものだった。
暗く湿った地下の生活の静寂も、蔑みと叱責の飛び交う冷たさも、この屋敷にはなかった。
レジーナがいつも何かしら話しかけては笑っているし、控えているライドールもいつも優しく気遣ってくれる。
屋敷に来てから数日たっても姿を見せないご主人様が気にならないではなかったが、それよりもリゼイラは生まれて初めて誰かと過ごす温かさを噛み締めていた。
「今日も良い天気ですね。風も気持ちいいですよ」
窓を開けながらレジーナが言うと部屋の中で何をするでもなくぼんやりと過ごしていたリゼイラの元にも花の甘さを含んだ風が届いてきた。
『今日も良い日だよ。気持ちの良い一日だ』
風の流れに乗って精霊たちの声がリゼイラに降り注ぐ。
誘いかけるような彼らの言葉に微笑んで、そっと立ち上がった。
すると部屋の奥で別の仕事をしていたライドールが飛んでやって来て身体を支えてくれた。
まだ、足の怪我は治りきっていない。
歩くには介添えが必要だった。
ありがとう、と微笑むのも日常となっていた。
ぎこちないながら窓辺まで行くと柔らかな緑と華やかな彩りの花々に目を輝かせる。
空には小さな真白の雲が浮かんでいる。
そっと風に触れるように手を伸ばせば、透き通る精霊たちが細い指先に口付けていく。
「今日は外でお昼にしませんか?良い天気ですし、きっと気持ちいいですよ」
半ばうっとりと外を眺めていたリゼイラは、そんな明るい提案を半分聞き逃して小首を傾げた。
何だかとても嬉しい事を言われたような気がした。
「お庭に敷き布を広げて、篭にお弁当を詰めて。如何ですか?楽しいですよ」
ニッコリと笑いかけてくるレジーナにリゼイラはただ戸惑った。
あんなにきれいな庭に自分なんかが出ても許されるのだろうか。
「お嫌ですか?」
困惑を別の意味にとったレジーナに慌てて首を振った。
強く振りすぎてちょっとクラクラした。
「良かった。それでしたら、私は早速準備をしてきますね!」
言うが早いか飛び出して行ったレジーナをリゼイラは呆気に取られて見守った。
「まったく。リゼイラ様、お嫌でしたらそう示して下さっても構いませんよ。彼女はどうも押しが強すぎます」
困ったように言うライドールにも頭を振る。
とても嬉しいから。きっとレジーナよりもずっと自分の方が嬉しいのだ。
明るい表情のリゼイラにライドールもそっと微笑んだ。
あまり感情を表に出さない彼にしては珍しい慈しみの微笑みだった。
「まだお昼には時がありますから、お部屋の中に戻りましょう。髪も少し崩れてしまったようですし」
言われて気がついた。
先ほど強く頭を振ったせいで、レジーナが結ってくれた髪が解れてしまっていた。
折角きれいにしてくれたのに。
悲しそうに眦を下げたリゼイラに椅子まで導いてライドールは元気付けた。
「大丈夫ですよ。これくらいなら私でも直せますから」
言って予想以上に器用な手つきで髪を直していく。
単純に横髪だけを編んで後ろでまとめていただけとは言え器用だ。
若草色の綾紐をきっちりと結んでしまうと朝と寸分変わりない形になった。
嬉しそうに髪に手をやってリゼイラが振り返ると実直な近従は穏やかな笑みで応えた。
誰かとこうして微笑みあう事など前までなら考えられなかった。
他の人間が知ったら愕然とするような小さくてささやか過ぎる幸せをリゼイラは大切に胸にしまった。
「さぁ、この辺で如何ですか?木陰になってて気持ち良さそうです」
「レジーナ、あまり先走るなと言っているだろう」
「はぁい。でもリゼイラ様、此処じゃ駄目ですか」
パッと籐籠を下げた両腕を広げたレジーナの先には、彼女の言うとおり気持ち良さそうな木陰が広がっていた。
均一に駆られた芝草も柔らかで気持ち良さそうだ。
何より木陰を作り出しているどっしりとした楠にリゼイラは心惹かれた。
ほんのりと微笑むのは了承の印。
レジーナは顔を輝かせて弾むようにお昼の支度を始めた。
ライドールに手を貸してもらっていたリゼイラは、そっとその場で膝を折るとサラリと芝を撫でるように触れる。
くすぐったいような柔らかな感触が気持ち良くて何度も手を左右になぞらせる。
「完璧です!」
明るい声が響いて顔を上げると額を腕でぐいっと拭ったレジーナが誇らしげに笑っていた。
立ち上がって彼女の成果を見て、リゼイラは凄いと目を輝かせた。
菱形を組み合わせた意匠を薄茶色と黄緑色の糸で織り上げた敷布の上には、豪華な軽食と幾つかの果実水が並べられて、採れ立ての果物も色を添えていた。
リゼイラは見た事もない光景にただ驚いて夢の様な光景を見つめるばかりだ。
「どうぞリゼイラ様。ちょっと座り心地はよろしくないかも知れませんけど」
そっと手を引かれ、おずおずと敷布の上に腰を降ろす。
柔らかな草の感触を布越しに感じてリゼイラは、不思議そうに何度も手で布に触れた。
大地は硬いのにそこから生えている草たちは踏んでも大丈夫なくらいに逞しい。
リゼイラの微笑みを見てレジーナはどうやら大丈夫らしいと内心でホッとした。
大丈夫だとは思っていたのだが、高貴な生まれの人は地べたに座るのを嫌がる事があるから少しだけ緊張していたのだ。
この分だと全く筋違いの懸念だったらしい。
「それじゃ早速、お昼ご飯にしましょう。厨房にちょっと贅沢言ってみたので、期待してくださいね」
悪びれなく言うレジーナに額を押さえながらライドールは、敷布ではなく芝草の上に直に座った。
侍女であるレジーナならともかく、ただの護衛官でしかないライドールがご令嬢と同じ敷布に座るわけには行かない。
それにリゼイラが気付いて首を傾げた。
もしかして場所がなくて座れないのだろうか。
「リゼイラ様?」
そっと場所を空けたリゼイラにライドールが戸惑う声を上げる。
ぽんぽんと自分の隣りを叩くリゼイラにどうしたものかと困惑してしまう。
「ほら、ライドールも此方に来て座りなさいな。リゼイラ様のお召しですよ?」
からかうレジーナに苦い顔をしつつ、繊細可憐な新しい主人の期待にも似た眼差しにさしものライドールも屈した。
それでも半分ほど身体をはみ出させたのは護衛官としての忠義心からか。
「まったく素直じゃないんだから。それでは気を取り直して。どうぞ、リゼイラ様」
レジーナが勧めたのは、厚切りのパンに薄く削いだ塩漬けの豚肉と季節の野菜を挟んだもの。
庭園や散策などでの軽食として一般的な物だが、さすがに公爵家ともなると使われている材料が桁外れだ。
初めて見る食べ物に恐る恐るかぶり付く。
パクリと言うよりもハムッとした食べ方だったが、パンの小麦の甘さと少し濃い豚肉の塩気が程よく混ざってとても美味しかった。
肉が苦手なリゼイラだったが、サッパリした野菜が過分な油分を消してくれるため思った以上に食が進んだ。
此処に来てから病み上がりだとしても、痛ましい程の量しか食べないリゼイラを心配していたレジーナは、外に誘って正解だったと胸を撫で下ろした。
今日の軽食も一般的に見れば子供のままごとのような大きさしかない。
「こっちのパイは如何ですか?林檎と苔桃の二種類あるんですよ」
同じように手のひら程の大きさのパイを差し出すと、半分ほど食べ終わったパンを置いてリゼイラが狐色に焼きあがった菓子をきょとんと見る。
パイと言うもの自体を知らないリゼイラは、ふんわりと甘い匂いを漂わせる物を見つめた。
「食べてみませんか?」
篭から取り出した小さな包丁でサクサクッと四分の一に切っていく。
どうぞと手渡された焼き菓子を、じっと見つめてからカリッと欠片を齧ってこくんと飲み下す。
砂糖で煮付けられた林檎の甘みが広がって、リゼイラの大きな瞳がパチパチと瞬いた。
「美味しいですか?」
続けてぱくぱくと食べるリゼイラを見て傍使え二人はそっと目を見交わして笑いあった。
こんなに沢山食べる姿を見たのは初めてだった。
それでもパイを四分の一と小さめのパンを一つ食べて、リゼイラの胃は精一杯だった。
もともと薄いスープと拳ほどの堅いパンが常食だったリゼイラの胃は、健康な人の半分ほどの大きさしかない。
杏の果実水で喉を潤す華奢な主人に言いようのない不安を抱いたのはライドールだ。
透けるように白い肌に歩き慣れていない足。
ベルリードが愛された証と見なしたそれらはライドールには別の物のように思えた。
リゼイラを傍で見ていれば良く分かる。
愛されて育った姫は、こんなに周りを警戒したり他人の心を見透かすような眼差しをしたりはしない。
いつでもこの令嬢は他者に気を使い自分の心をすり減らしているように見えた。
そして、食の細さもライドールに疑念を裏付ける。
もしかしたら、と考える。
ただその考えを表に出すわけには行かない。
勝手な想像でしかないからだ。
レジーナの弾けるような笑い混じりのお喋りを楽しそうに聞いているリゼイラを見つめ、ライドールは願った。
叶うなら、自分の想像が誤りであるように。
優しく美しいお姫さまに似合うのは輝く微笑であるのだから。
そんな楽しげな様子を離れた場所で見ていた影があった。
レジーナが誘った庭は、デイルの執務室から見渡せる場所にあったのだ。
休憩として窓辺に立ったデイルは其処で、軽やかな笑い声を耳にして怪訝な面持ちで首を傾げた。
目を向ければ、未だに顔を合わせていない自分の仮の妻の姿が遠くに見えた。
さすがに顔まで詳細に判別する事は出来ない。
だが、周りの様子からすると随分楽しそうだ。
どうやら彼の姫は自分がいなくともそれなりに面白楽しく暮らせているらしい。
皮肉気に思って、窓辺に肩を凭れさせる。
長く椅子に座って同じ姿勢を取り続けたせいで流石に体が強張った。
グッと伸びをして息を吐く。
「まぁ、贅沢な楽しみに浸れるのも今の内だけだろうがな」
その時、深窓のお姫さまは一体どんな思いをするのだろうか。
ベルリードの話では容色は素晴らしいそうだから直ぐに何処か良い所に嫁ぐだろう。
淡々と遠からず来る未来を思い描いてデイルは執務へと戻る。
未処理の書類と処理済の書類が同じだけ積み上がった机の隅に、色褪せた小さな押し花が飾られていた。
栞にされたそれをそっと撫でてデイルは、己の計画を成功させるため精力的働き始めたのだった。