03* 硬き蕾
リゼイラが馬車から降り、通されたのは見た事もない程大きな屋敷だった。
数日過ごした家も大きいと思っていたが、此処はそれ以上だ。
どんなに大きな人が暮らしているのだろう、天井があまりに遠くてクラクラする。
圧倒されてしまったリゼイラの足が怖気付いたように緩やかになる。
何も知らずに狭い部屋で無為に過ごしていた日々がどれだけ幸せだったか。
身が竦む。
「リゼイラ様、こちらです」
そんな緊張を感じ取ったのか、馬車から連れ添ってくれていた青年がそっと手を引いてくれた。
広い玄関を通り、長い廊下を歩いて、リゼイラは応接室に通された。
大きな窓が開け放たれたその部屋は、若葉色の刺繍を織り込んだ絨毯が敷かれ、季節の花が出過ぎない程度に飾られた気持ちの良い場所だった。
猫足の華奢な造りの椅子に腰を下ろして、少しだけホッと息を吐く。
履きなれない靴が足を圧迫していた事にもようやく気がついた。
痺れるような痛みが歩きなれていない足を苛む。
だが、そんな事は顔に出してはいけないのだ。
教えられたとおりに、品良く腰掛け爪先を揃えて椅子に座っていた。
ここまで付いて来てくれた青年の姿は、既にない。
これからどうなるのだろう、漠然とした不安はあったがそれ以上に何も思えなかった。
ただ酷く身体が重く、この場で眠ってしまいたいくらい気持ちの良い風を頬に感じていた。
そのまま本当に眠ってしまいそうになった時、リゼイラが入って来た物とは違う扉が開いて、見たことのない青年が入って来た。
鳶色の真っ直ぐな髪をした青年をぼんやりと見つめ、それから慌てて立ち上がった。
「あぁ、そのまま座っていて下さって結構ですよ。私は、貴方とは何の関係もありませんから」
にこやかに言われた言葉が理解できず、きょとんと笑う青年を見返す。
それでも座っていて良いと言うところだけは聞き取れたので、良く分からないままに座りなおした。
「申し遅れました。私は、公爵様の補佐として働かせていただいているベルリード・フライゼンと申します。以後、姫様の身の回りのお世話を取り仕切らせて頂きますので、お見知りおきの程を」
滔々と述べて大仰に一礼した青年にリゼイラはただ頭を下げるしか出来なかった。
この青年が言うには、彼は公爵様ではなくて。よってリゼイラが取り入らなければならない相手とは違うようだ。
「差し支えなければお名前をお教えいただけますか?まさか妾姫様と呼ぶわけにもいきませんので」
明るい笑顔だ。それなのに何処か寒々しい印象を与えられる。
嫌われているのだな、とごく自然に思った。
小さく胸が痛んだけれど、その痛みすらも段々と麻痺していくような気がする。
「どうなさいました?私程度には、お名前を教えては頂けませんか?」
漫然とした胸の痛みに気を取られていたリゼイラは、再度の問いにハッとして顔を上げた。
だが、リゼイラにその答えを告げる術はない。
どうしたものかと思って、口を開いては閉じる。
少々、捻くれた態度で接していたベルリードもその様子に眉を顰めた。
「失礼ですが、お声が出ないのですか?」
声が出ないわけではないが、喋れないのは確かだとリゼイラはそっと頷いた。
恥じるように俯いたリゼイラに、ベルリードは困ったように天を仰いだ。
「それは大変失礼しました。えぇと、少々お待ち下さいませ」
予想外の展開にさしもの側近も戸惑い気味だ。
それでも、リゼイラを迎えに行った従僕を呼び出す。
さほど待たずに、あの生真面目な青年が部屋に招かれた。
「悪いけれど、この方のお名前とかそう言うの向こうで聞いてない?」
リゼイラから離れた場所に立ってベルリードは情報を収集する。
その様子をぼんやりと見つめて、すぐに視線を外へと向けた。
大きな窓の向こうには、あの青年が美しいと言った庭が広がっている。
木々の緑に隠れるようにして、黄色や赤の彩が垣間見えた。
座っているため余りに見ることは出来なかったが、それでも目を奪われる。
叶うなら庭に出て歩いてみたかった。
出過ぎた願いかもしれなかったけれど。
「申し訳ありませんでした。リゼイラ様、でよろしいですね」
声をかけられて惜しみながら庭から視線を外した。
ベルリードは、先程とは違う労わるような笑みでリゼイラの名を呼んだ。
初めて他の人から呼ばれた名前の響きが嬉しくて、その思いのままに微笑む。
「……まいったな」
小さく零されたベルリードの呟きは、リゼイラには届かない。
「公爵はただいま執務中でして、先にお部屋の方にご案内いたします。今後についてはそれからに」
ベルリードの言う今後が何を指すのか判らなかったが、促されて立ち上がる。
だが、足の疲れは思った以上にリゼイラの足を痛みつけていた。
一歩進みだそうとした瞬間に、痛みが走り膝から力が抜け、その場に座り込んでしまった。
「リゼイラ様?!」
驚いたベルリードと部屋の隅に控えていた実直な青年が駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか?」
労わる声に頷き返すが、どうしても立ち上がれない。
「失礼いたします」
堅い声がして青年がそっとリゼイラの足から華奢な靴を取り去る。
それだけで足の痛みが遠ざかって、リゼイラはホッと息を吐いた。
「どうやら歩き慣れていらっしゃらないようですね」
ベルリードの声が、僅かに険を帯びる。
「ライドール、リゼイラ様をお運び申し上げなさい」
突き放すような命令の後、すぐに身体が浮いてリゼイラは驚いて硬直した。
今までに誰かに抱き上げられた事など皆無だ。
こんなにも、自分以外の温もりが近くにあることも。
僅かの身じろぎもせずに腕の中で小さくなっている令嬢に、ライドールと呼ばれた青年は申し訳なさそうにリゼイラを見つめた。
強張った顔で抱きかかえられているリゼイラは、ライドールのそんな視線に気付く余裕すらなかった。
ただひたすらに早く降ろされる事だけを願っていた。
そうして、リゼイラのために設えられた部屋に到着するとそっと柔らかな長椅子の上に降ろされた。
あまりの事に満足に息も出来なかったリゼイラは青い顔で呼吸を整える。
「このお部屋はご自由にお使い下さい。侍女はこちらで選んでおきましたので、何かあれば彼女に。あぁ、ライドールも護衛としてお付けしますので、お出かけの際はご用立て下さいませ。それでは、私は執務が立て込んでありますので御前を失礼します」
風のように一気に喋りぬけたベルリードの言葉の半分も理解できなかった。
それでも、やはり嫌われているのだけはしっかり分かって、何だか泣きたくなってしまった。
初めて会う人にも嫌われてしまうほど、自分は駄目なのだろうか。
そんな思いがグルグルと心を占めていく。
「足の手当てを致しましょう」
悄然としたリゼイラに、そっと声が掛けられて痛む足に手が添えられた。
恐る恐る顔を上げれば、ライドールが足元に跪いていた。
まるで親からはぐれた小鹿のように頼りない視線にライドールは、思わず微笑みかけた。
「痛かったでしょうに、良く我慢なさいましたね」
優しい言葉にリゼイラは目を丸くした。
労わられた事など初めてだった。
驚きすぎて固まってしまったリゼイラの耳に、新たに扉を叩く音が届いた。
「失礼致します。あら、ライドールじゃない」
しとやかな声と共に姿を現したのは、侍女服に身を通した少女だ。
ライドールの姿を見て思わず声をもらしてしまったが、直ぐにリゼイラに気付くと丁寧に頭を下げた。
「失礼しました。今日からお世話させていただきます、レジーナです。何なりとお申し付け下さいませ」
ふわっと笑って名乗ったレジーナにリゼイラもホッとして微笑み返した。
「まぁ、本当にお綺麗な方……」
見惚れたレジーナにライドールが咳払いで注意を向けさせる。
「レジーナ、悪いが傷薬と包帯を持ってきてくれないか」
「え?……まぁ!すぐにお持ちしますわ」
怪訝な顔をしたレジーナだったが直ぐにリゼイラの足に気が付いたらしい。
大人しやかな容貌に反して、行動は機敏だった。
「悪い娘ではないのですが、少々元気が良すぎますね」
部屋に備え付けられていた水盥に水を注いで、ライドールは傷ついた足を丁寧に洗っていく。
沁みる痛みに少しだけ顔を顰めたが、ライドールの言葉に小さく笑った。
強張った心がほんのりと解れる。
「それにしても本当に、この足で良く歩いて来ましたね」
半分呆れたようなライドールの言葉に自分の足を見つめた。
ライドールの手にすっぽりと納まる足は、皮が剥け、血が滲み、肉刺が潰れ膿が出ているところもあった。
痛いのは痛かったのだが、皆この痛みに耐えて歩いているのだと思っていたし、痛み以上に気を取られる事が多すぎたせいだ。
戻って来たレジーナも余りの惨状に悲鳴を飲み込んだ。
「大丈夫ですか。化膿止めも塗布してますけど。痛み止めも持って来れば良かったですね」
自分の方が痛そうに顔を顰めたレジーナにゆるゆると首を振った。
痛みは慣れてしまえば何も感じなくなる。
テキパキと手当てを終えるとライドールはそっと立ち上がりリゼイラは慌てて頭を下げた。
喋れないリゼイラに感謝を伝える方法はそれしかない。
ライドールもその思いを感じ取ってくれたようだ。
微笑み返してもらった事にホッとする。
安堵が最後の緊張感を断ち切ってしまったらしい。
糸の切れた人形の様にリゼイラは倒れこんだ。