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02* 芽吹き

「お前には、これから礼儀作法を徹底的に学んでもらう。期限は二週間だ。生まれの卑しさはどうにもならないが、見掛けだけでも磨いておかねばな」

部屋から連れ出されたその子供を待っていたのは、意味の判らない作法の稽古だった。

男の一言で始まったそれは、歩く事も満足に出来ない子供には厳しい物だった。

身体に傷をつけない様言われているのか、鞭や手が出ることは無かったが、止む事のない厳しい声は精神を確実に疲弊させていった。

「まったくこの程度の事なら、アリゼ様は一度で覚えましたよ。はい、もう一度」

歩き方から、茶器の持ち上げ方、手の上げ下げまで。

容赦のない叱責が飛ぶ。

自分以外の人と会話をした事もない人間に、詰りにも近い言葉は堪えた。

期限の日が近づくにつれ、優雅な挙措は身に付いたが同じように人に対する恐怖も根付いていた。

大きな声を叩きつけられると全ての動作が麻痺して息苦しくなるのだ。

今も目の前の女の釣りあがった眦に恐怖を覚えながら、震える指先で紅茶をそそぐ。

色を失った唇は、今にも倒れそうな程であるのに、周りは頓着せずに何度も繰り返させる。

満足に呼吸出来ない喉が大きく喘いだ。

それでも助けを求める声も、拒否の言葉もその子供からは出されなかった。

気の遠くなる思いを何度もしながら礼儀作法を習う。

期限の日。

男はその成果を満足気に眺めてその子供に言った。

「お前には、ベラール公爵のもとに行って貰う。せいぜい振る舞いに気をつけて媚びる事だ。なに、その顔と身体があれば容易いだろう。お前は、あのアリゼの子だからな」

初めて会った頃は感じなかった男からの蔑みを、強く感じた。

目の前の男は、自分を蔑み、嫌悪し、憎んでいる。

向けられる負の感情を自覚した時、無垢な捕らわれ人は顔を俯けた。

何も見たくなかった。

周囲の全てが自分を嫌っているように思えた。

「公爵には既に言ってある。出立は明日だ。今日はもう休め。その顔に惨めなところでもあれば家の恥だ」

それだけ言い捨てて出て行こうとした男は、ふと足を止めた。

「そうそう、名がないと不便だな。アリゼの子だからな、リゼイラとでもするか。良いか、これからお前の名前はリゼイラだ。リゼイラ・カンターナの名、ありがたく受け取るが良い」

リゼイラ。アリゼの子の名前。

その子供に初めて己を現す言葉が出来た瞬間だった。

例え、片手間に与えられた名であろうと、子供は心から喜んだ。

リゼイラ、声のない言葉が繰り返される。

リゼイラ、リゼイラ。

何度も繰り返して、大事に胸に仕舞ったのだった。



出立の準備は、慌しかった。

リゼイラは、太陽が昇る前から身体中を磨き上げられ、見た事もないような豪勢な絹を着せられた。

それからキラキラと光る石を首から掛け、耳にも同じ色の石が下げられた。

今までは長く下ろしたままだった髪は、痛いくらいにキッチリと纏め上げられ複雑な形に結い上げられた。

踵の高い銀の靴を履いて、リゼイラは馬車へと運び込まれる。

周りの者は笑い声一つ立てず、ただ黙々と支度を整えていく。

そうして、リゼイラの乗った馬車の他に身の回りの品を乗せた馬車をもう一台が用意され、静かに館を出発した。

見送りもない、まるで葬送にも似た出立であった。




貿易と商業の国、風華。

物品の流通が盛んなこの国は、家一つでも様々な個性を持っている。

商人として成功した屋敷などは、南国の守り神が金無垢で門前を飾っていたりもする。

そんな個性豊な屋敷を抜けていくと、閑静な館が並び立つ。

派手な色彩はないが、落ち着いた色合いの上品な屋敷が並んでいく。

専属の庭師もいるのだろう、丁寧に剪定された庭木に風華らしい色の鮮やかな花が覗いて華やかだ。

布で覆われた小窓からそっと外を眺めて、物珍しさに目を見張った。

『貴方たちは花の精霊?』

小さく開いた小窓から飛び込んできた花びらの上に、同じような色を纏った精霊の少女たちが楽しそうにひらめいた。

『そうよ、変わらない方』

『あたしたちは風扇花ふうせんかと言うの』

『花嫁には相応しいでしょう』

細い手のひらに乗った花びらは、その名前の通り扇形をしており、中心に沿って黄色から橙色へと色を変じている。

リゼイラは知らなかったが、この辺りでは花嫁の髪を飾る花として良く知られている。

『きれい』

一言そう褒めると精霊たちは嬉しそうにさざめいた。

『ありがとう』

『あなたに褒めてもらえて嬉しいわ』

『公爵様に嫁ぐあなたに幸運を』

可愛らしい笑い声を立てて、花びらの精霊たちは風に流されていった。

橙色の花の欠片が遠く消えていくのを知らず切ない想いで眺めていると、そっと脇から手を伸ばされた。

「ご無礼を。ですが、もうお屋敷に着きますのでお席にお着きください」

リゼイラの向かいに座っていた従僕が開いた小窓を閉じる。

公爵家からの出迎えだと言う彼を、リゼイラの家の者たちは酷く丁寧に扱っていた。

出会った時は、それに倣って礼を取ろうとしたら、自分には必要ないと諌められてしまった。

やはり外の人たちのやる事は良く分からない。

言われたとおりに柔らかな椅子に腰を下ろして、ぼんやりと前に座る青年を見つめる。

まるで型に嵌めたようにピンと伸びた背筋や型崩れなど知らないような衣服は、何だか見ているだけで息苦しくなってくる。

リゼイラの纏うのは宝石や金糸銀糸が縫い取られた豪勢な物だが、目の前の青年ほど堅苦しくはないような気がする。

「どうかなさいましたか?」

しげしげと見つめてくる視線に、生真面目に青年は尋ねた。

何かを言おうとして、結局何も言えずにリゼイラは黙って首を横に振った。

外に出て知った事はたくさんある。

その一つが言葉のこと。

長く人間と言葉を交わすことのなかったリゼイラは、いつしか声を出すと言う行為そのものを忘れた。

リゼイラ自身が話しているつもりでも、他の人間には聞こえないらしいと言う事も。

精霊たちだけがリゼイラの友達で、外の事を教えてくれる唯一の繋がりだった。

辛うじて話される言葉を理解することは出来たが、人間の言葉を話すことは出来ない。

代わりのように精霊たちの言葉を聞き、彼らと会話する事は出来たが。

「花がお好きですか?」

不意に声を掛けられて、窓に向けていた顔を正面に戻した。

生真面目な青年が僅かに目元を緩めてリゼイラを見ていた。

その柔らかな表情に惹かれるようにして、おずおずと頷く。

「そうですか。それならばお屋敷もきっとお気に召すと思います。公爵様のお屋敷は、美しい庭園で有名ですから」

初めて微笑を向けられて、リゼイラは一瞬だけ目を丸くした。

そうして自分でも知らぬ内に、同じように微笑み返す。

向かいに座る青年がその微笑みに息を呑んだことも知らず、リゼイラは公爵様の綺麗な庭に想像を巡らせた。

外は綺麗なものがいっぱいある。

初めて外に出た時の空は、吸い込まれそうな程に青くて大きかった。

それよりももっと綺麗なのだろうか。

ドキドキとしてきた胸を押さえて、リゼイラはそっと目を閉じたのだった。




「デイル様、もうすぐ妾姫様がご到着になられますよ」

広い屋敷の中でも、日当たりと風通しの良い部屋でデイルは執務の真っ最中だった。

その隣りで働いていた側近のベルリードが、今思い出したとばかりに声をかける。

途端にデイルの精悍な顔立ちに忌々しい表情が昇った。

「そんなもの放っておけ。あの男の貢いできた女なんぞ反吐が出る」

「まぁ、あそこまで言いながら、今更取り入ろうとしてくる厚顔さには感心しますね」

「どうせあの男は潰す。やって来る女には適当に部屋でも与えておけ」

どうでも良いように言って仕事に没頭する主人にベルリードはそっと苦笑した。

デイルは公爵としては、文句のつけようがない男だ。

市井を軽んずる事もなく、伝統に無闇に縛られる事もない。

柔軟な思考力と大胆な行動力で、僅かながら斜陽していた公爵家を見事に立て直していったのも彼だ。

今では国王の片腕とも目されている若い公爵に一つだけ欠点があるとするなら、それは浮いた噂の一つもないと言う所だろうか。

艶福家だった父の気質を受け継がず、それどころ反対に色恋沙汰自体を遠ざける彼に落胆を浮かべるご令嬢は数知れない。

ベルリード以下家臣たちも、お世継ぎ云々も含めもう少し仕事以外にも目を向けて欲しい物だと日々頭を痛めている。

普通であれば諌めるべき事柄の筈なのだが、勧めなければ目にもくれない主人であると言うのも珍しい。

今回の事は、相手が相手ではあるが何がしかの刺激になるのではないかとベルリードなどは期待していた。

なので、少しばかり水を向けてみる。

「お会いにはなりませんか?」

「会ってどうする」

一言で切って捨てた主人に有能な側近は肩を竦める。

「ご実家の方はともかくも、今まで大切に育てられてきた深窓のご令嬢だそうですよ。それに、絶世の美姫と歌われたアリゼイラ様に生き写しと聞いてますし」

「家の力で守られてばかりの姫など興味はない」

浅くない眉間の皺に、ベルリードはそれ以上言葉を重ねるのは諦めた。

「それでは、妾姫様の方は私が全て手配しておきます」

「あぁ。直ぐに送り返すが、難癖付けられても面倒だ。それなりに持て成しておけ。宝飾品の一つや二つ与えておけば大人しくしてるだろう」

顔も上げずに指示するデイルに、有能な側近にして幼馴染は苦笑して部屋を辞した。

無理もないと思う。

本来ならデイルは、公爵の地位に就けるような身分ではなかった。

前公爵である、デイルの父が気まぐれに手を出した町娘がデイルの母である。

当時は立派な嫡子もおり、デイルはただの庶子でしかなかった。

その母親も気丈な人で、デイルを公爵家とは無縁の子として育ててくれた。

決して裕福な暮らしは出来なかったが、デイルは幸福に暮らしていたと聞く。

それが何の運命か、気付けば公爵家の跡取りとして祭り上げられたのだ。

流行り病で次々と正妻の子が死に、残ったのは庶子であるデイルだけだった。

父が死に、公爵として正式に家を継いだデイルに世間は厳しかった。

それからはがむしゃらに仕事に打ち込んだ。

庶子として馬鹿にする貴族たちを見返すために。

その努力は報われ、今ではデイルを庶出と馬鹿にする者はいない。

己の手で勝ち上がってきたデイルにとって、生まれだけで周囲に甘やかされてきた姫など軽蔑の対象にしかならないのだろう。

しかも、今日やって来る娘はよりにもよって、デイルを爵位泥棒呼ばわりしていた男の娘。

デイルでなくとも諸手を挙げて歓迎できるはずもない。

かく言うベルリードも、口で言うほどに姫に良い印象は持っていない。

馬車の到着を知らせに来た従僕に付いて行きながら、面倒だな、とこっそりため息を吐いていたのだった。



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