12* 影
リゼイラが小さな決意を固めたとしても、大きく何が変わるわけはない。
数日後には、デイルから誕生会の時にと美しい衣装が届いた。
この前の首飾りの件から、少しだけどんな物が届いたのかと不審そうだったレジーナも、思わず息を呑んだほどだった。
ふんわりと広がる柔らかな絹は薄紅と淡い紫を重ねた神秘的な色合いに染まっている。
リゼイラの可憐な容貌を引き立てる仕立てになっており、絹で作られた小花が散らされている。
「まぁ、こんなに綺麗なご衣裳は初めて見ましたわ」
感嘆しきりのレジーナは丁寧に薄紙を巻き取りながら、遠巻きに眺めるリゼイラに微笑んだ。
「近くで見てみませんか?」
そう勧められて、おずおずと近寄ってみるが触れるには恐れ多かった。
綺麗だと思う。
いつか見た夕焼けのような、庭園に咲き誇る花のような、それ以上に美しい彩妙な色合い。
夢のような色彩だ。
ふと、地下の薄暗い灰色にまみれていた自分が思い出された。
伸びた手が強張った。
なんて違いだろう。
こんな綺麗な物があるなんて知らずにいた。
あの小さな石の部屋。
埃ではなく泥が溜まっていた地下。
垢にまみれ、薄汚れていた自分。
忘れかけていたことをどうして、思い出したのだろう。
あぁ、違う。
どうして、忘れていられたのだろう。
あの静かで穏やかな閉塞の時間を。
「リゼイラ様?」
焦点を失った虚ろな様子に気がついたのはライドールだった。
食べ終わった昼食の片づけを終えて戻って来た彼は、そっと声を掛けてぼんやりと立ちすくむリゼイラの肩に触れた。
途端、ライドールが驚いたほどにリゼイラの肩が震えた。
『……あ!』
聞こえないはずの声をライドールは聞いた気がした。
「リゼイラ様!」
くずおれた華奢な身体を咄嗟にライドールが支える。
レジーナも慌てて駆け寄る。
ぼんやりした青灰色の瞳が怯えるように揺れていた。
それは、この屋敷に初めて来た時のリゼイラのようで言いようのない想いがライドールの喉元を渦巻いた。
「大丈夫ですか?最近、良く眠れて居ないのではないですか?」
驚くほど軽いリゼイラに、ドキリとしながら長椅子まで運んだ。
レジーナに温かい飲み物を頼んで、身体を休められるように腰より少し上で結ばれた飾り帯を緩める。
ころんと寝返りを打って丸くなろうとした所で、ライドールの心配そうな目に気がついた。
「リゼイラ様、このごろきちんとお眠りになっていらっしゃいますか?」
青白い顔でぼんやりとしてばかりいる主人に、ライドールは懸念を抱いていた。
それはリゼイラと出会ってから感じている違和感に続くものだ。
真剣な問いかけにリゼイラは、惑うように視線を泳がせた。
デイルとはあの夜以来会っていない。夜にしか会わないと決めたのに、不意に会うのが怖くなってしまった。
怖くて、それなのに会いたくて。相反する思いに戸惑いながら毎夜過ごしていた。
闇夜の帳は幾重にも重なって、少しずつリゼイラから眠りを奪っていった。
ハクランも顔を見せてはくれるが、あの頃のように一晩傍についてくれる事はない。
少し寂しい気もするけれど、仕方のない事だから。
眠れないのは、ただデイルさまがあそこで待っているかもしれないことが心苦しいせい。
「眠れていないのですね」
ため息混じりの声に、リゼイラはハッとした。
怒られるかもしれない。
血の気の引いた唇がかすかに震えだす。
冷たい目線や叱責を思い出す。
リゼイラの喉がひゅっと鋭い音を立てた。
嫌だ、怖い。苦しい、寒い。
「リゼイラ様!ライドール、何をしたの!」
温かい蜜湯を貰ってきたレジーナが、ライドールを押しのけるようにしてリゼイラの手を握り締めた。
「大丈夫ですか?後でライドールは私がきちんと叱りますから」
ぎゅっと強く握られた手が優しくて、冷えた指先がほんのりと温もってくる。
苦しげだったリゼイラの表情がほんのりと綻んだ。
まだ青い顔色でゆっくりと起き上がったリゼイラに、押し退けられていたライドールが甘い匂いを漂わせる蜜湯を差し出した。
ライドールが困ったように微笑んでいて、あぁ怒っていないのだと改めて安心する。
「リゼイラ様、これからお昼寝をなさってください。このままでは身体を壊してしまいます」
「あら、ライドールが苛めてたんじゃないの」
「レジーナ……」
ほとほと疲れたらしいライドールの情けない声にリゼイラが小さく笑った。
両手で持った茶器のじんわりとした温もりに、胸の奥で目覚めたひんやりした記憶がほろほろと解れる。
一口含むと、蜜の甘さが口中に広がって喉を通り過ぎると、お腹の中でぽつっと熱が広がった。
「少しだけ生姜も入れてあるんですって。身体が温まりますよ」
血の気のない顔が段々と熱を帯びてくる。
レジーナの言うとおり飲んでいると身体中がぽっぽとして来た。
それにさっきまで感じなかった眠気が全身を覆う。
とろんとしてきた目蓋と必死に戦うが、蜜湯を全部飲みきる前にリゼイラは眠ってしまった。
「……お眠りになられたみたい」
持ったままだった茶器をそっと受け取ってレジーナが、小さく囁いた。
けれど、妙に寝つきがいいのにレジーナが不審そうに首を傾げる。
茶器を盆へと戻しながらある事に気がついた。
「あら、これ蒸留酒の小瓶…。ライドール?」
ちらりと睨むと気真面目な同僚は、軽くため息を吐いて降参した。
「数滴、混ぜたんだ。このままだとお体を悪くしそうだったから」
酒類にはあまり強くなかったようだ。
眠ってくれた事にホッとする。
寝室まで抱きかかえて、羽毛の枕に小さな頭を沈める。
結っていた髪はレジーナが手早く解いてくれていたから、ゆっくりと休めるだろう。
仮初の安息であったとしても。
ライドールは静かに寝室の扉を閉めた。
マリーニエの誕生会当日。
贈られた美しい衣装を身にまとい、鏡の前で最後の仕度を整えていた。
丁寧に梳られていく髪は、日頃の入念な手入れもあって艶やかに輝いている。
蝋燭の火に照らされるとまるで琥珀のような光を帯びる。
薄っすらと化粧を施されたリゼイラは可憐な容貌をさらに魅力的見せている。
衣装自体が華やかであるから、レジーナはあえて装飾品は控えめに揃えていた。
乳白色に虹の輝きを宿した蛋白石の首飾りは慎ましくリゼイラの細い首を彩り、紅水晶と藍玉の蕾を模した耳飾りも繊細な輝きを放っていた。
髪も少し背伸びを見せて一つにまとめて、銀と蛋白石、真珠などの髪飾りで整えられた。
全ての仕度が整ったとき、隣りの部屋にいたライドールが思わず息を呑んで見惚れたほど素晴らしい出来栄えだった。
リゼイラの持つ、可憐で無垢な印象は少しも損なわずに、華やぎと明るさを醸し出すいでたちは美しいの一言だ。
「とてもお似合いですよ」
ライドールに褒められて、リゼイラは頬を緊張で紅潮させながら何とか微笑んだ。
あまりご令嬢の相手は慣れていないライドールだったが、まるで物語の王子のように手を差し伸べた。
花のようなお姫さまは戸惑うように己の従者を見上げてから、おずおずと手を重ねる。
緊張で冷たくなった指先は、ほんのりと色が乗っている。
文字通り指の先まで磨き上げられたらしい。
「今日はたくさんの方がお集まりになられます。色々と不躾な視線を受けるかもしれませんが、頭を下げずに微笑むことを忘れないでください」
背の高いライドールに導かれるようにして歩いていると、公爵様のことを思い出してしまう。
あぁ、そうだ今日がお会いできる最後の日。
それに、とても大切な宴なのだろうからお邪魔にならないようにしないと。
心構えを新たにすると可憐な容貌がさらに強張る。
苦笑してしまったライドールは、最後の部屋から出るための扉の前で立ち止まった。
この先に本来のリゼイラの相手である公爵が待っているはずだ。
「リゼイラ様、大丈夫です。宴の始まりは無理ですが、途中から私がお傍に付くことが許されてますから」
暗い地下にパッと光が差したようだった。
縋るような視線を受けてライドールは、不謹慎にも笑い出しそうになってしまった。
本当に可愛らしい方だ。
喋れないという事すら気にならないのは、感情が素直に現れるせいだからだろう。
だが、これからリゼイラが向かう場所は美徳が美徳として認められない世界だ。
マリーニエがあれから接触してくる事はなかったが、何かがあるとすれば誕生会だろう。
贔屓目もあるかもしれないが、今宵のリゼイラはまるで大輪の花のように美しく印象的だ。
集まった人たちの目を一身に浴びるだろう事は予測がついた。
叶うなら、何事もなくこの宴が終わるように。
不安を煽らないように、優しく手を握って扉を開いた。
リゼイラに与えられた一室の前の待合室。
それほど広くはないが、美しく設えられたそこでデイルは着飾ってくるであろう令嬢を待っていた。
堅苦しい詰襟を指で弄りながら、やれやれと息を吐く。
だいたい私邸で開かれる宴に着飾るも何もないものだ。
それでも、今日は伯爵令嬢だの侯爵夫人だのが集まってくる。
むせ返るような香水や化粧の臭いを思い出して、すでに気が滅入ってくる。
濃い青の上着は裾に蔦と獅子が刺繍されている。
前日になってマリーニエが贈ってきたものだ。
本来ならリゼイラの衣装に合わせて、紫の色調の上着を着るはずだったのだが、本日の主役の頼みを断る事もできなかった。
こんな相手の意向を無視しての行動が、義妹を苦手とする一因になっている。
窓の外には夕闇が迫っている。
今頃は中央の広間に招待客が続々と集まっているはずだ。
金や銀、宝石に象牙の装飾を施した馬車が列をなしているのが容易に想像がつく。
きらびやかな宴になどあまり興味を持たないデイルだったが、先代の公爵、デイルの父親の時代は夜毎華やかな園遊会が開かれていた。
何度か出席した事もあったが、あまり楽しい思い出ではない。
暗い幼少期の思い出を数え上げてしまうのは、ここ最近のデイルが落ち込み気味だからだ。
「……嫌われたのか」
がっくりと肩を落として、影を背負う姿は惨めだ。
最後に会った時、あの人はどこか変だった。
具合が悪そうで疲れているようにも見えて。
なるべく気を使ったのだが、もしかして反対に負担に思われてしまっただろうか。
それどころか押し付けがましい人間だと思われただろうか。
どんどん沈み込んでいくデイルは端で見る分には滑稽だが、本人にはこれ以上ないほど一大事だ。
泉で夜を明かした事もあった。
愛しい人は顔を見せてはくれなかったけれど。
悲しそうに俯いていた顔が浮かんで消えない。
何があったのだろうか。
もし、誰かがそんな顔をさせていたとしたら許せない。
この手で守れれば良いのに。
少しの怪我も、災いもないように。
大切に守ってやる頃ができれば、幸せだと思う。
この空っぽの手に包み込む事ができたら。
強く握り締めて硬いため息を床にぶつけた。
「それにしても、遅いな」
女性の仕度の遅さは、それなりに知っているつもりだが、あまり遅くなるのは困る。
私的な宴とは言え、当主として挨拶もしなければならないのだ。
声をかけようかと考え始めた時、小さな音を立てて扉が開いた。
特別に付けた従者がまるで大切な恋人を紹介するように連れ添っていた。
その光景を見て、不意に怒りに近い感情が浮かんで戸惑った。
変だ。
「お待たせいたしました」
そっと導くように手を離してリゼイラが一歩前に出る。
どんな衣装を贈るのか、事前に見て知っていたが、それでも思わず見入っていた。
初めて会った時は純無垢な印象の強かったリゼイラだが、今は可憐で彩麗な印象が加味されていた。
ほんのりと混じる艶が、まだ幼い少女だと思っていたデイルすら惹きつける。
緊張しているのか戸惑うような視線はデイルの方を向かない。
胸の前で組まれた小さな手が稚い。
「手を、どうぞ」
警戒心の強い野うさぎを前にしているような気持ちで、デイルは手を差し出した。
細い喉が大きく上下する。
無意識なのか後ろに控えているライドールに窺うような視線をやっている。
数瞬の間が空いて、冷えた指先がかするように添えられた。
それをしっかりと繋ぎ直して、リゼイラを傍に寄せた。
ひゅっとか細く息を飲む音がして、小さな身体から発せられる緊張が手のひらに伝わった。
ライドールも驚いたらしい。
あまり表情の変えない男の、そんな変化を小気味良く思いながら、自分の感情の不可解さに首を捻る。
「宴の間は、なるべく私から離れないようにしてください。守りますから」
付け加えるようにして言った言葉に、リゼイラが大きく目を見開いた。
零れるような大きな瞳。
戸惑い、揺れる青灰色。
似ている。
小さなミルレイアもこんな大きな瞳で見上げていた。
似ている。もう一度思って、今度は強く否定した。
似ていない。似てなど居ない。
あの人になど…。




