10* 新芽
公爵様がいらっしゃる。
レジーナはそう言った。
それから、レジーナとライドールは急がしそうに部屋中を動き回っている。
お昼のご飯の後に公爵様は来るらしい。
一人、リゼイラは邪魔にならないように寝台の上に座っていた。
膝の上にはライドールがくれた絵本を広げている。
だが、その美しい絵の世界にもうまく入り込めないで居る。
理由は明らかだ。
公爵様がいらっしゃるから。
『公爵さま……』
呟いて目を閉じる。
どんな方だろうか。取り入らなければならない方だ。
レジーナは厳しいけれど優しい方だと言っていた。
それなら、取り入れるだろうか。
そう考えて、ふと首を傾げた。
取り入るってどうすれば良いのだろう。
アリゼの子どもだから取り入るのは得意だろうといわれた。
その顔と身体があれば簡単だとも。
ぺたりと自分の顔を触って、次に腕や胸に手を当てる。
この身体があれば良いのだろうか。
何かしたりしなくても大丈夫なのだろうか。
それだったら何とかなるかな。
初めて会う人に、笑顔を向けたり親しくしてみせたりするのは苦手だ。
まず顔を満足に見ることも出来ないのだから。
怒られないと良いな。
怖い声や大きな声を出されると身体が動かなくなってしまって、苦しくなるから。
ぼんやりと思いながら、リゼイラは寝台の上に寝転んでいた。
うつらうつらしながら、思い浮かべた公爵様の顔はどうしてか昨夜の青年の顔になっていた。
午前中の決済を全て終わらせて、デイルはぐっと伸びをした。
うららかな日差しが、満足に寝ていない身体をやわらかく包む。
思わず午睡へと強い誘惑を感じるが、午後一番に行かねばならない所を思い出してガシガシと両手で顔を擦った。
今度のマリーニエの誕生会にまだ会ってもいなかった自分の妻と出かける事になったのだ。
幾らなんでも、その前に顔をあわせておく必要があった。
本当なら憂鬱この上ないのだが、今のデイルはむしろ少しばかり浮き立っても居た。
ベルリードなどそんな様子に訝しそうだったが、すぐに原因に思い当たったらしい。
曰くありげな微笑みを一瞬だけ向けて来た。
見透かされている事に居心地悪い気もしたが、この幸福感を幾らも削ぎはしない。
何故なら昨夜、二度と会う事も叶わないと思っていた想い人に再会出来たのだ。
そればかりか僅かな間だったが二人きりで話す事もできた。
いや、話を聞いてもらえた、と言うのが正しいだろうか。
あの人は声を出す事が出来なかったのだから。
それだけは残念で仕方がなかった。
彼の人の名を呼ぶ事が叶わないから。
ため息を吐きかけて、いやいやと己を叱咤する。
そんなにあれもこれも望みすぎてはいけない。
一時、同じ空気に触れられただけでも奇跡なのだから。
そっと両手を開いて、指先を見つめる。
この指が、昨日あの人に触れたのだ。
細く小さな指先に。
少し冷えた指は、触れている間にゆっくりと温まって、気付けば自分と同じ温もりを持っていた。
困ったような戸惑ったような蒼の瞳を思い出す。
この世の何よりも美しい青だった。
透き通る瞳は、どんな宝石よりも美しく見えた。
思い出すだけでデイルの胸は少年のように高鳴る。
まだ自分にこんな情熱があったとは驚きだった。
仕事以上に打ち込める事など、もう何もないと思っていたのに。
くすぶる胸の熱を持て余すことさえ、こんなにも喜びに満ちている。
苦笑交じりに緩んでしまう口元を押さえて、窓辺から熱を持った顔に風を受ける。
「デイル様、早いですが昼食に致しましょう。午後からも予定がつまっていますからね」
夢見心地から現実に立ち返る一言を無造作に投げた側近に、デイルは思う存分嫌な顔をした。
公爵になってから建前も取り繕う事も覚えた。
だが、本来は素直な性格だったデイルは、身近な人間の前では感情がそのまま表れてしまうらしい。
ベルリードにしてみれば、そういう所が不相応に可愛らしく思えてしまうのだが。
本人には不名誉極まりないことだろう。
嫌いな食べ物を前にした子どものような顔で、手早く昼食の支度をするベルリードに近寄って篭に盛られたパンを一つ摘む。
「支度が整うまでお待ちなさい」
まるで母親の様に手の甲を叩かれて、不服そうに白パンを齧った。
公爵家に来る前からの付き合いがある二人に遠慮もない。
「軽くで良い。どうせ向こうに行けば、嫌でも食べるんだ」
「無言で居るために食べるのは、無作法ですよ」
「そんなもの気にされようが、関係ないだろう」
意に介さない公爵にベルリードも、やれやれとため息を吐いて小皿に盛り分けられていた野菜とこんがりと焼かれた厚めの肉をパンに挟んで渡してやる。
簡単にすむこの食べ方は、デイルは気に入っている。
もともと美味しい食事は好きだが、作法だ行儀だのを気にするのは嫌いなのだ。
この辺り、悪がきがそのまま育ってしまっている。
晴れ渡った青空を見上げ、デイルは軽食を片手にそっと息を吐いた。
「リゼイラ様、もうすぐ公爵様がいらっしゃいますよ」
なるべく優しく聞こえるように気遣ったレジーナに、硬い表情で頷き返して膝の上の手をぎゅっと握り締めた。
うとうとと眠ってしまった後、レジーナに崩れた髪を編み直してもらって、その後で薄っすらと化粧も施された。
白皙を通り越して透き通るように白いリゼイラの肌に白粉は浮いてしまうので、かわりに頬紅をはたかれて、唇にも薄く色を乗せられた。
化粧のおかげで、ともすれば不健康に見えるリゼイラの顔立ちはずっと華やかになった。
小鳥の舞う刺繍が施された裾からは、柔らかな布靴が見え隠れする。
部屋はいつも以上に磨き上げられ、窓辺には水の上に浮かべた花びらが硝子の器に飾られている。
ほのかに香るのは、特別に南国から取り寄せた練香だ。
少しでも落ち着こうと外を見つめてみたり、目を閉じてみたりするけれど緊張は高まるばかりだ。
強張ったリゼイラの姿に、部屋の中で遊ぶ精霊たちも心配そうに近寄ってくる。
『大丈夫かい、穏やかな方』
『落ち着くように気持ちの良い風を送ろう』
清かな風が送られて、リゼイラはそっと微笑んだ。
『ありがとう。少しおちついた』
『それなら良かった』
『その笑顔が何より素晴らしい』
さざめく精霊たちは、けれど部屋から出てはいかなかった。
これからの事を知っているかのようにリゼイラの傍を離れない。
そんな気遣いが嬉しく、また勇気付けられる。
「公爵様のお越しでございます」
いつもより堅いライドールの声にリゼイラは息を深く吸い込んで背筋を伸ばした。
痛々しいほどに真っ直ぐな視線が扉へと向けられる。
背の高い姿が部屋の扉をくぐる。
あわせるようにレジーナが、深く頭を下げ公爵を出迎えた。
思っていたよりも大きな人だ。
あの館にいた人のような男の人想像していたが、全然違う。
着ている物も、もっとずっと簡易なものだ。
なかなか視線を上げられず、胸から腰辺りを見ていたリゼイラはその影が近くに重なってやっと顔を上げる事が出来た。
身体と同じく立派な風采の青年だった。
ライドールと同じか、もしかしたらそれ以上に背が高い。
視線が遠すぎて、顔立ちまではっきりと窺えない。
だから、初めは気付かなかった。
「……こうして顔を会わせるのは、初めてだな。私の名はセルゲイラ・デイル・ベラール、貴女の、仮初の夫になるな」
苦い口調だった。
だが、それよりも引っかかったのはその名前、そして声。
『デイル、さま?』
驚きに目を見張って、知らず立ち上がって見上げてしまった。
目線は違う。
けれど、確かに目の前にいるのは昨夜に出会った青年だ。
髪を上げ、ずっと厳しい表情をしてはいるが見間違えることはない。
「貴女の名は、すでに聞いてある。名乗りは必要ない。挨拶もだ。座ってくれ」
リゼイラの眼差しをどう受け止めたのかデイルは、煩わしそうに早口で促した。
リゼイラが座りなおしたのを見計らってレジーナが手際よく、紅茶を注いでいく。
白磁に赤の染料で絵付けした茶器は、風華の名産である磁器の一つ。
いつものように、ありがとうと微笑むとレジーナはちらりと応えるように笑ってからすぐに円卓から離れていった。
薫り高い紅茶が二人の間で、ふうわりと湯気をのぼらせる。
リゼイラは、向かいに腰掛ける公爵様をあらためて見つめた。
やっぱり、どう見てもあのデイルさまだ。
たくさんの事を一生懸命に語ってくださった方。
デイルさまは知って要らしたのだろうか。
だから、あんなにも熱心に語らってくれたのだろうか。
自分が、花嫁だから。
そう考えた時、何故だか胸の奥が針で刺したように痛んだ。
不可思議な痛みに気をとられる前に、デイルが話しだした。
「先に言っておかねばならない。私は、貴女を妻として扱う気はない。これまでのように賓客として出来うる限りの待遇は取らせて頂くが、それ以上は望まないで貰いたい」
あまりに一気に言われて飲み込むまでに時間がかかった。
だが、自分は花嫁として扱われないらしい。
何だか変に苦しい気もしたが、今までの温かい生活が変わることもないのだとホッと安堵した。
レジーナとライドールが傍にいて笑ってくれるだけで十分だと思う。
それすら、過ぎた幸運のような気がしていたのだから。
素直に頷いたリゼイラにデイルの方が、驚いたような顔をした。
何故だろう。
デイルさまが仰ったのを受け入れただけなのに。
「快く受け入れてくださって感謝します」
快くは、あまりなかったけれど。
その理由が判らないから、少しだけ冷めた紅茶に口をつけた。
茶器から唇を離す時に、なにかべったりした感触があって、口紅をつけていたことを思い出した。
白い磁器に移った紅が何故か気持ち悪かった。
「それで、義妹の、マリーニエの誕生会ですが、それにはご一緒いたしましょう。新しい衣装はこちらからお贈りいたします。今日はこれを貴女にと思いまして」
気付けば、デイルの口調が少しだけ柔らかくなっていた。
首を傾げたリゼイラの目の前に天鵞絨の小箱が差し出される。
これが何なのだろうか。
戸惑うリゼイラに、公爵はその蓋を開け中の物を取り出した。
日の光を弾くそれは、黄金に紅玉があしらわれた首飾り。
華やかに己を主張する装飾品にリゼイラは、困ってしまった。
こんなに豪勢な物はいただけない。
けれど、拒むのも失礼だろうか。
「どうかなさいましたか?」
リゼイラの心中など思いもしない公爵はただ疑問を浮かべて受け取るのを待っている。
胸元をぎゅっと握り締めていると、見かねたレジーナが変わりに受け取った。
「素晴らしいですわね、リゼイラ様。あまりに綺麗で驚いてしまいましたか?」
言いながら手早く小箱にその装飾品を仕舞う。
後で返して貰うようにしようと決めて、デイルにそっと頭を下げた。
「いや、気に入ったのなら良かった。…それでは、失礼だが執務が立て込んでいるのでこれで失礼します」
淹れられた紅茶に口をつけて、デイルは慌しく立ち上がった。
来た時と同じようにレジーナが丁重に礼をとって見送る。
そうして、完全に公爵がいなくなってからリゼイラの元へとやって来た。
あの贈り物について伝えようとしたら、判っていますと微笑んでくれた。
「後で、角が立たないようにお返ししますわ。本当に、公爵様も何を考えておられるのか。こんな派手なものリゼイラ様には似合わないのに」
それこそマリーニエにでも贈った方が余程似合っている。
ずっしりした意匠の黄金より、繊細な銀の透かし彫り。
艶やかな紅玉よりも、淡く光る真珠。
リゼイラを彩るに相応しい物は、そんな可憐な物だ。
贈り物一つにも、相手の気持ちは推し量れるのだと言うのに。
小さな憤慨を胸にしまってレジーナは、小箱を棚のなかに片付けてしまう。
そんな心優しい侍女を見つめて、ホッと息を吐く。
さっきから変に苦しい。
どうしてだろう。公爵様として出会う前なら、デイルさまを思うのは苦しくても辛くはなかった。
それなのに、今は辛い。痛い。
傍に居た精霊たちが、そんなリゼイラに慌てたように言葉をかけてくれる。
優しい言葉を嬉しく思いながら、リゼイラは一粒、涙を落とした。