01* 土に眠る種
このお話はBLとは言えませんが、ノーマルとも言い切れません。
両性・無性と言ったキーワードがNGな方は目を通されない事を強くオススメします。
(保険として警告タグに「ボーイズラブ」をつけさせて頂いております)
また、一部流血・暴力的な表現なども含まれますのでご注意くださいませ。
とはいえ、強烈な描写はほとんどありませんのでゆるーくお付き合い頂けたら嬉しいです。
その子供は、空を知らなかった。
その子供は、星を知らなかった。
その子供は、風を知らなかった。
その子供は、大地を知らなかった。
その子供は、言葉を知らなかった。
その子供は
名前を知らなかった。
じめじめとした暗い石段を降りてくる足音が聞こえてきた。
物憂げで擦るような足音は、朝がやって来た合図なのだ。
朝がどんな物か、知らなかったけれど。
幼い囚人にとって、朝は憂鬱な足音と高い天窓から差し込む四角い光だった。
柔らかな木綿の掛け布から抜け出して、気まぐれに与えられた櫛で髪を梳かす。
そうしている内に、頑丈な扉の下に付けられた小窓から朝に使う分の水差しと食事が与えられるのだ。
だが、今日は少しばかり、いや大きな変化があった。
今までに数回だけしか聞いた事のない大きな物音がして開く筈のない扉が開いた。
何が起きたのかと、寝台に腰掛けたまま開かれる扉を見つめた。
入って来たのは、キラキラとした衣服で恰幅のいい身体を包み隠した中年の男。
薄暗い部屋の中で、嫌悪も露な瞳だけが浮かび上がって見える。
「お前が、アリゼの子か」
吐き捨てるような声に、細い肩が震えた。
アリゼ、その単語は子供にとってとても大事な物だった。
それを汚い物のように口にされ、まるで打たれたかのような痛みが心を走った。
かすかに愁眉を寄せた様子になど気付かず、突然の侵入者は壁に寄り添うようにして蹲る捕らわれ人に、煌々と火の燈った手燭を突きつけた。
薄暗い部屋に突然、小さな太陽を持ち込んだような輝きが満ちる。
あまりの眩しさに子供は、怯え固く目を閉じた。
物心ついてからこの地下に押し込められて過ごして来た人間に、眩いまでの光は恐怖でしかなかったのだ。
だが、そんな物に頓着せず男はしげしげとその子供を観察した。
心行くまで値踏みするとフンッと鼻を鳴らして、扉の外で控えていた下働きにぞんざいに命令を下した。
「これを外に連れて行け。それから湯殿に連れて行って徹底的に磨け。思ったほどの造作ではないが、これなら幾らかの担保にはなるだろ」
何が起こったのか判断も出来ない子供に、さらに理解不能な言葉が投げかけられる。
引き立てられるように腕をつかまれ、一度として許されなかった外への階段に足をかけた。
「良くもまぁ、捨てずに置いた物だ。こんな所で役に立つのだから」
含み笑う不気味な声に、訳も判らず震えるしかなかった。
初めて見た空は、恐ろしい程広かった。
空の端は紫暗に暮れ、太陽の光が朱色の帯を残す。
初めて見る色は、涙が出るほど美しい物だった。
声にならない吐息が漏れる。
ざわめく葉が弾く緑の光。
風に混じる太陽の匂い。
裸の足に触れる土の柔らかさ。
歩くことに慣れていない足は、生まれたての子鹿にも劣るものだったけれど、身体を巡る喜びに弾むように動く。
踏み出したばかりの世界は、光と音色に満ちていた。
今までの感じていた自分の世界は、あの小窓よりも狭い物だったのだとようやく知った。
腕を取られ、奴隷の様に引きずられるようにして歩かされていたけれど、日差しの強さを知らない唇は幸せそうに微笑んでいた。
「……まったく、こんなに汚れていては三度洗ってもまだ足りやしない」
連れて来られた湯殿には、数人の女が待ち構えていて、突き出された反動で床に倒れこんだ細い身体から、問答無用で衣服を剥ぎ取った。
服とも言えないような埃で灰色にそまった布切れは、眉を顰められてから指で摘まれて捨てられた。
何が何だか判らないでいる間に、水を頭から掛けられて鋭く息を呑んだ。
温められていない水は、慣れていない肌にはいかにも冷たかった。
身体を洗うことなど考えもしない身体は強く匂い、髪は飴でも塗り掛けられたかのようにベッタリとしていた。
湯殿で女たちが嫌悪で顔を顰めても当然の有様であった。
高価な石鹸を惜しげもなく使って、野鼠の様な身体を洗い立てていく。
何度も身体にくぐらせた水が、灰色から透明に近くなって、泡が浮かんでくるまでになる。
額に汗を浮かべて一心不乱に手を動かしていた女たちは目を見張った。
黒く埃が粘ついていた髪は柔らかに亜麻色の流れを作り出し、痛いくらいに擦られた肌はまろやかな乳白色の温かみを露にしていた。
骨格から華奢なその身体は、女性らしい丸みも男性らしい無骨さとも無縁だった。
まだ未発達な無垢な肉体だけが存在していた。
長く密な睫毛の隙間から覗く瞳は、持ち主の心をありのままに移す透き通る青灰色。
今は戸惑うように揺れている。
浴槽に浸けられて温かい水を不思議そうに手に潜らせて、ペロッと舐めてみた。
水は温められても水のままのようだった。
初めて土に触れた足の痛みも、こうしていると解けていくような気がしてうっとりと目を閉じる。
だが、幸せな一時もすぐに終わりを告げた。
入って来た時と同じように急き立てられるように追い出された。
一回り身軽になった身体に、ふわふわとした布で身体を包まれて拭かれた。
やはり数人がかりでの大仕事だ。
体中の水分を取り終わると、何処からか持ってこられた衣を着せられた。
瞳の色と合わせた薄い空色の布を幾重にも重ねた軽やかな衣は、歩くたびに裾が蝶の羽の様にひらめいて大輪の花にも似ていた。
胸の前につけられた細い綾紐を器用に結んでいく指先を面白そうに青灰色が見つめていた。
着付けが行われている間に、髪にも手が入れられる。
一度も刃を入れられていない髪は、床に渦を作るほどに長く伸びていた。
痛みの激しい先が躊躇い無く落とされていく。
それでも光沢のある髪を短く削ぐのは躊躇われたのか、背の中ほどで揃えられた。
全ての準備が整うと女たちは自分たちの腕に満足した。
其処にいたのは薄汚れた野鼠ではなく、輝くような無垢さを纏った一人の幼い美姫だった。
終わった頃を見計らって館の主が扉を開いてやって来た。
「ふん、あのアリゼの子供なだけあるな」
ピクリと貝の様な耳が動く。
アリゼ、紅を引いた訳でもない花唇が音を象る。
無遠慮に近づいた男が細工物の様な顎を掴み上げ、視線を合わせた。
上から下にと値踏みして、ニヤッと口角を吊り上げた。
青灰色の瞳は、何の感情も無くただ男を見つめる。
事実、その子供には男の言っている事も今現在の状況も理解出来ないでいた。
「これなら、あの男も興をそそられるかも知れんな。少しの足止めになればと思っていたが。いやいや、我が妹は良い物を残して逝ってくれたものだ」
含み笑いはだんだんと大きな笑い声となって館中に響いた。
そのただ中にあっても青灰色の瞳は、ぼんやりと窓硝子の向こうを見つめていた。
その夜、美しく磨き上げられた子供は地下の部屋ではなく誂えられた客室に置かれた。
柔らかな寝台に驚きながら横になってみたが、何だか落ち着かなくて抜け出した。
掛け布だけを体に巻きつけて部屋の隅に座り込む。
大きな窓から月光が部屋に伸びる。
格子模様の影を興味深そうに見つめて、そっと手を伸ばす。
白と黒の筋からふわりと幽かな光が立ち上った。
『安らぎの子、ようやく皆に会わせられた』
『ハクラン!』
虚ろだった子供の顔が喜色に染まった。
まるで床に伸びる月光から生まれ出たような貴人は、薄く透ける身体で宙に留まっていた。
淡い白灰色の髪が薄絹のように垂れて床に着く前に消えている。
ハクラン、と呼ばれた青年が人ではないことは明らかだった。
その言葉も、人には理解出来ない旋律だ。
その子供が話したのもハクランと同じ旋律。
『大地も、日も、緑も、風も、全てそなたを愛している』
『アイ?』
『そうだよ、安らぎの子。そなたは愛されるべき子だ』
歌うような会話に名もない子供は、困惑するように首を傾げるばかりだ。
半透明の伸ばされた手が磨き上げられた子供の頬を包む。
感触のない温もりは一人蹲る未発達の小さな身体をただ優しく労わる。
『覚えておいで、優しい子。世界はそなたを愛する。無論、この私も』
『アイ、する。ハクランも?』
『そうだよ。愛しい子。私はいつでもそなたの傍にいる』
艶やかに微笑んだハクランは現れたのと同じように淡く消えた。
消えた後先を追うように瞳を彷徨わせて子供は眼差しを伏せた。
『アイ?アイってなぁに…?』
呟きは虚ろに消えて、亜麻色が頬を流れた。
既に完結しているお話ですので、なるべく毎日更新できるようにしていきたいと思います。
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