竜騎士様が帰ってこられるように、私は今夜も制服を繕います
「袖口だけで、よろしいんですか」
リタが尋ねると、ダリオは脱ぎかけていた制服をもう一度見下ろした。
「いや。今日は、全部頼む」
珍しい注文だった。
第三竜騎隊の隊長は、ほつれたところを指で押さえながら修繕室へ来る。直すあいだは貸し出し用の上着を着て、窮屈そうに長椅子へ座る。肩幅に合うものがないので、いつも前が閉まらない。
次までに大きい上着を用意しておきますとリタが言うたび、本人は「これで困っていない」と答えるのだ。
今日も、その上着に腕を通していた。
十月の夕方の風が窓を鳴らしているのに、前は開いたままだった。
「襟の内側も、擦れていますね。こちらは当て布をします」
「ああ」
「左のポケットは?」
「穴が開いている」
「またですか」
リタはポケットの底を指で探った。前に当てた布の、すぐ隣に穴がある。今年に入って三度目だった。
「石を入れるからですよ」
「石ではない。火打ち石だ」
「布からしたら、同じです」
ダリオが少し笑った。
笑うと、右の目尻だけ先に下がる。初めて修繕室に来たときは怖そうな人だと思ったのに、今はその顔を見ると、つい余計なことまで言ってしまう。
「明け方までに、できるだろうか」
リタは壁の札を見た。
明日の昼までに仕上げる竜の鞍帯が二本。それから炊事場の厚手の前掛けが六枚。
隣の作業台では、先輩のマルタが革手袋を裏返していた。
「急ぎなら、こっちは後でいいよ」
こちらを見ずに言ってくれる。
リタは頷き、制服を広げた。
「間に合わせます。明日は遠くへ?」
「北の烽火台まで」
「あそこは、先週も故障したと聞きましたけど」
「今度は、火が消えた」
マルタの手が止まった。
北の山を越えて来る灰羽の群れは、魔石を燃料にした青い炎を嫌う。普通の焚き火では追い払えない。
稜線の烽火台は大きな反射鏡でその光を谷へ送り、村々を守っていた。その火が消えれば、家畜も、人も、空から狙われる。
「夕方の便で知らせが来た。群れの大半は、まだ北の谷にいる。今夜は村人を石造りの避難所へ集めるが、家畜までは入れられない。明日の日暮れまでに点火し直す」
「何人で?」
「飛べる三騎で先に行く。歩兵はもう出た。峠道を進んで、明日の昼に合流する」
三騎。
リタは、隊舎の裏に並ぶ竜舎を思い浮かべた。
山向こうの砦へ応援に出ている隊が戻るのは、明後日だ。
「ダリオ隊長」
戸口から声がした。
伝令の少年が息を弾ませて立っていた。
「作戦室へ。北の観測所から追加の報告です」
「すぐ行く」
ダリオは立ち上がり、リタの手元に視線を落とした。
「一つだけ。内側の名前は、読めるようにしておいてくれ」
「いつも、読めるようにしていますよ」
「そうだったな」
ダリオは腰の剣を掛け直し、戸口へ向かった。
借り物の短い上着から、手首がずいぶん出ている。
「隊長」
呼び止めると、彼が振り返った。
「それ、着ていってください。廊下は冷えますから」
「借りていく」
扉が閉まった。
リタは制服の襟へ顔を近づけた。竜舎の乾いた藁と、革の油の匂いがした。
「今日は急に、どうしたんでしょうね」
独り言のつもりだった。
けれどマルタは、手袋を作業台へ置いた。
「あの人、前に、帰ってきた仲間の服を引き取ったことがあるんだよ」
リタは顔を上げた。
「……服を?」
「烽火台が襲われた年。見分けのつかないものもあった。名前の縫い取りで、持ち主を確かめたって」
袖の裏で、リタの指が止まった。
全部直してほしい。
名前を読めるように。
先ほどまで、少し嬉しかった。
大きな仕事の前に自分のところへ来てくれたのだと、そんなふうに思っていた。
リタは制服を持ち直した。
「……襟から、始めます」
声が細くなったので、一度だけ咳払いをした。
◇
リタは、砦付きの裁縫職人だった。
指先から火を出すことも、傷を塞ぐこともできなかった。
できるのは採寸と、裁断と、裁縫。それから、規定どおりの防護刺繍を縫うことだった。
竜騎士の制服の裏には、銀を芯にした糸で細かな模様が縫い込まれている。
襟から背へ、背から腰へ。竜の鞍に収めた魔石から流れる力を受け、冷気や熱から着ている者を守る。襟の接続具にも小さな蓄魔石があり、鞍を離れてもしばらくは働く。ただし、強い熱を受け続ければ数分も持たない。
刃を防ぐ鎧の代わりにはならない。落ちれば死ぬし、大きな炎の中に居続ければ焼ける。
それでも竜の背から身を乗り出して働く騎士にとって、なくてはならないものだった。
その縫い目は、表からは見えない。
裏地を外して初めて、リタは眉を寄せた。
「マルタさん。これ」
襟元の銀糸が、縫い目の下で切れている。
傷んで千切れたのではなかった。
織り目は無事だ。銀糸だけが、結びの脇で、短く断たれていた。
マルタが隣へ来た。
二人で背の裏地もほどいた。
同じだった。
防護の模様をつなぐ三か所が、どれも結び目の陰で切られている。
「これ、先月の交換品だね」
マルタの声が低くなった。
第三竜騎隊の制服は先月、外部の工房で裏地ごと交換された。
防護刺繍の定期更新は補給部の仕事だ。修繕室に回ってくるのは、検収を終えた後のほつれや破れだけだった。
「新しい糸も、変です」
リタはほどいた端を針で押し開いた。
正規の糸なら、細い銀の芯が残る。
けれど芯にあるのは、白い綿だった。指でこすると、表面の銀色が少し剥げた。
「染めてあるだけ……?」
マルタは答えず、棚から修繕用の銀糸を持ってきた。
糸の切れ端を二本、試験用の小さな魔石につないだ。
本物は淡い青に光った。
制服から抜いた糸は、光らなかった。
リタの背中を冷たいものが伝った。
光らない糸でも、形をなぞることはできる。
裏地をめくり、模様があることだけを確かめたなら、見落とす。
染め糸を混ぜて材料費を浮かせただけなら、残っている本物の銀糸まで切る必要はない。リタは切れた三か所に、目印の待ち針を置いた。
「ほかの二人の制服も、持ってきてもらいます」
リタが立つと、マルタも頷いた。
「作戦室へ行こう。現物を持って」
◇
「第三隊の分だけか」
宿直指揮官が、机に並べた三着を見た。
騎士を呼びに行った伝令は、二人分の制服も届けてくれた。
どちらにも同じ染め糸が使われていた。ただし、回路を切られていたのはダリオの一着だけだった。
リタは裏地に縫い付けられた三着の納品札を示した。
「こちらは同じ工房の品です。ほかの隊のものは、まだ確認していません」
部屋には、ダリオと、出撃する二人の騎士がいた。
若いほうの騎士は、リタが示した糸を見て、自分の手を擦った。
「これで、先週も飛んでたんですか」
「先週は、異常がなかったのか」
指揮官に問われ、騎士が口を結んだ。
「寒かったです。でも、気温が下がったからだと……」
「私は、鞍側の魔石を交換させました」
ダリオが答えた。
「今朝、交換した魔石でも力の流れが弱かった。制服の再検査を求めたところ、補給監が自分で調べると言って預かりました」
指揮官が顔を上げた。
「今朝か」
「はい。制服は夕刻、異常なしとの札付きで戻りました」
短い沈黙があった。
「その間、お前の手元にはなかったんだな」
「ありません」
指揮官は伝令に向き直った。
「衛兵長を呼べ。補給監ベルクと、今回の検収担当を別々の部屋で待機させる。記録庫と制服の保管室は封鎖。出入りの記録を確保しろ」
少年が飛び出していく。
リタは少し息をついた。
けれど指揮官は、広げられた地図へ目を戻した。
「北壁の切れ目を抜けられるのは、風向きが変わる明け方だけだ。その後は向かい風になる。東の谷まで迂回すれば、日暮れに間に合わない」
「ほかの制服では、駄目ですか」
リタが尋ねると、傍らの装備係が首を振った。
「予備も同じ納入分だ。未使用だから使えるとは言えない。古い飛行服は昨日、応援の連中に持たせた」
リタは三着を見た。
襟の幅も、背の長さも違う。
防護の模様は体に合わせて縫う。合わない服をただ羽織れば済むものでもなかった。
「仕立て直すなら、何が要る」
ダリオの声に顔を上げた。
リタは頭の中で、刺繍の線を追った。
模様の下書きは規格表にある。自分もマルタも、部分的な縫い直しなら何度もしてきた。
防護の基本模様は、一着で三刻ほどかかる。糸を抜く作業から始めれば、二人では足りない。
「正規の銀糸と、下地の布。それから、人手が一人」
「銀糸はどれくらいだ」
「修繕室にある分では、一着にも足りません」
装備係が、難しい顔で帳簿をめくった。
「南倉庫に、退役した儀仗隊の肩掛けがある。あれの刺繍も銀糸だが」
「保管状態を見せてください。使えるところをほどきます」
「式典用だぞ。勝手に潰せば」
「私が使用を命じる」
指揮官が紙を引き寄せた。
その場で倉庫への命令書を書く。
「人手は?」
「ニナを。今は洗濯場ですが、防護刺繍の修了試験に受かっています。ここでも研修を受けているので、手順は分かります」
マルタが言った。
指揮官はもう一枚、紙を取った。
「着手しろ。完成後の通電検査には魔石係を付ける。間に合わなければ、飛行区間を短くして南側から歩かせる」
指揮官は地図の南側をなぞり、衛兵長を呼んで戻った伝令へ命じた。
「村々には避難の継続を伝えろ。点火が遅れた場合に備えて、歩兵を避難所にも残す」
作戦室に来た衛兵長が、修繕前の制服を調べた。書記が切断の位置を図に写す。
リタはその前で、傷ついた模様を下地ごと切り取った。どの服の、どの位置にあったかを書いた紙と一緒に、衛兵長へ渡す。三着分の納品札も預けた。
「残った服は、直して構いませんね」
衛兵長が証拠袋を封じるのを待って、リタは三着を抱えた。
扉へ向かおうとしたとき、ダリオが一歩、近づいた。
「無理に、できるとは言わなくていい」
リタは制服を抱え直した。袖が床に触れそうになっていた。
「これから縫うんです。やらせてください」
ダリオが口を閉じた。
「検査が済むまでは、絶対に持っていかないでください」
「分かった」
「それから、帰ってきたら、ちゃんと脱いで渡してください」
制服だけが帰ってくるのは嫌だった。言い足すことはできず、リタは彼の返事を待った。
ダリオは彼女を見たまま、頷いた。
「自分で持っていく」
◇
南倉庫から運ばれてきた肩掛けは、赤い布に銀の蔓草を縫い込んだものだった。
端に湿気の染みはあったが、折り目の内側の糸は生きていた。
装備係と見習いの兵士が、長椅子に並んで糸をほどく。長く取れた糸の両端を、兵士が嬉しそうに持ち上げた。リタは受け取り、次の肩掛けを渡した。
「短くしないで。その曲がり角は、布のほうを切ってください」
「ああ、すまん」
「大丈夫です。そこはつなげます」
リタは受け取った糸を、試験用の魔石に当てた。
青く光る。布くずを取り、布巻きへ移す。
糸の選別はマルタと交代した。一本でも傷んだものが混じれば、完成してからほどく羽目になる。
「こんな長いの、初めて縫う」
洗濯場から来たニナは、規格表を前に唇を舐めた。
「試験と同じだよ」
マルタが言う。
「でも、試験なら、落ちても私が困るだけでした」
マルタはニナの前に灯りを寄せた。
「だから三人でやるんだよ。一段ずつ見せて。私も見せるから」
ニナは規格表の角を重しで留め、最初の針を入れた。
下地には、鞍帯の修理用に取ってあった密な織りの布を使った。
制服の表地は丈夫だ。証拠として切り取った部分に下地を継ぎ、残った偽物の模様を抜けば、縫い直せる。
一人一着。
襟の輪から縫い始め、肩へ下ろす。
蓄魔石から肩へ下る線は、腕を動かしても布がつらない位置を通さなければならない。リタは下書きの印を確かめ、袖付けの縫い代を避けて針を進めた。
横ではニナが、一段縫うごとに規格表を指で確かめている。
夜半を過ぎ、台所の兵士が鍋を持ってきた。
湯気の立つスープが、それぞれの椀によそわれた。リタは針を針山へ戻し、椀を受け取った。
「隊長から。パンも食べさせろって」
給仕の兵士が、布包みを置いた。
「本人は?」
「竜舎。鞍の点検です」
リタはパンを一口かじった。
うまく飲み込めなくて、スープを飲む。
さっきは名前の縫い取りを頼みに来たくせに、今度はパンを食べろと言う。何と返せばいいのか分からず、リタは残りをスープに浸した。
椀を空にすると、兵士が待っているのに気づいた。
「食べましたって、伝えてください」
それだけ頼み、また針を取った。
小さな窓の外を、衛兵の灯りが通り過ぎた。
補給部の建物へ、何度も人が行き来している。
装備係は呼び出される前に、ほどいた糸を全部、紙の上へ並べていった。
時計は、残り二刻を示していた。
リタは縫い目の端を引いてみた。細かく刺しすぎて、布がつれる。指先で七針分を戻し、ほどいた糸を紙の隅へ置いた。
時計をもう一度見るのは我慢した。
「リタ。背中、丸い」
マルタに言われ、背を伸ばした。
首から嫌な音がした。
「縫い終わった人から、隣のを確認。自分の目だけで通さないよ」
三人は頷いた。
窓の四角が、黒から灰色に変わった。
◇
最初に光ったのは、ニナの一着だった。
魔石係が接続具を留めると、裏地に縫い込んだ模様へ、青い光が走った。
襟から背、腰まで。
途切れずに巡り、また襟へ戻る。
ニナが両手で口を押さえた。
「規定出力、維持」
魔石係が記録した。
マルタの一着も通った。
最後に、リタが縫ったダリオの制服をつなぐ。
光が、右肩で薄くなった。
「止めてください」
マルタも光の薄い箇所を指していた。
「継ぎ目だね。針、こっちにある」
差し出された針を受け取り、リタは右肩の結びをほどいた。
肩掛けから取った二本の糸をつないだ箇所だった。
重なりが浅い。
針を持ち替え、規定の長さまで縫い重ねた。
外で、竜が低く鳴いた。
もう一度、検査する。
今度は同じ濃さの光が一周した。
魔石係は小さな冷却板を背へ当て、次に加熱した金属片を近づけた。布の表と裏の温度を測り、規格表と照らし合わせる。試験用の魔石からの供給を切り、襟の蓄魔石だけでも防護が働くことを確かめた。
「三着とも、使用できます」
ニナが空いた椅子を引いてくれたが、リタは制服を作業台へ戻した。
「まだ。裏地を閉じます」
着たときに引っかからないよう、接続具を出す穴をかがる。
襟の当て布を留める。
左のポケットは、切れ端の革で内側を補強した。
最後に、名前を確かめた。
ダリオ・ヴァレス。
擦れていた最後の一文字を、紺の糸で縫い足した。
◇
竜舎の前は、冷たい朝靄に包まれていた。
三人の騎士が制服に袖を通す。
リタはダリオの背へ回り、肩のつれを確かめた。腕を上げてもらい、脇の縫い目を指で押さえる。
「きつくありませんか」
「大丈夫だ」
「腕を、もう少し前へ」
手綱を引く位置まで腕を伸ばしてもらい、肩の布をならす。ダリオが剣の柄へ手を掛けたときも、脇はつれなかった。
もう直すところはない。それでもリタは、襟を最後にもう一度整えた。
「リタ」
呼ばれて、顔を上げた。
「ありがとう」
ダリオの後ろで、栗色の竜が鼻を寄せてきた。
温かい息に髪が揺れる。
「この子も、気をつけて」
言うと、竜が大きく瞬きをした。
分かったのかどうかは知らない。けれどリタが額へ手を伸ばすと、少しだけ頭を下げてくれた。
ダリオが鞍に乗った。
魔石と制服をつなぐ細い鎖を留める。
襟の内側が、淡く光った。
リタはその光を見た。
夜通し縫った線が、服の下でつながっている。
「三人で、戻ってきてください」
ダリオはほかの二騎を見た。二人とも、こちらを向いていた。
「連れて帰る」
三頭の竜が、順に翼を広げた。
土埃が舞い、リタは顔をかばった。
次に目を開けたときには、最後の竜の尾が、北の稜線の向こうへ消えるところだった。
◇
昼前に、リタは修繕室の長椅子で目を覚ました。
毛布が掛かっていた。
向かいの椅子ではニナが眠り、マルタは窓辺で眼鏡のねじを締めている。
「寝なかったんですか」
「寝たよ。あんたたちより先に起きただけ」
机には、温め直したスープがあった。
食べ終わる頃、宿直指揮官が衛兵を一人連れてきた。
リタは立ち上がった。
「何か、知らせが」
「北からは、まだだ。昨夜の件で、証言を確かめたい」
指揮官は椅子を勧めた。
ベルク補給監は、制服を納めた工房から金を受け取っていた。
工房が正規の銀糸を減らした分、その一部が彼の懐へ入っていたらしい。
押収した工房との往復書簡と、帳簿にない支払いの記録が見つかったという。
「縫い糸の検査は、書類だけで済ませていた。検収担当も認めた。だが、隊長の制服の切断は別だ」
前日の朝、ダリオは再検査を要求した際、調査の願いも書面にしていた。制服の納入後、同じ隊で冷気による指の障害が続いたためだった。
ベルクはまず自分に調べさせてほしいと制服を預かり、夕刻、異常なしと返していた。
制服がベルクの部屋へ運ばれたことは、運搬を頼まれた兵士が覚えていた。
ベルク本人は、回路を切ったことだけは否定しているという。
「ベルクは、隊長の申し立てを正式な調査へ回していなかった。ほかの騎士の苦情も、寒さに慣れていないせいだと片づけていたそうだ」
指揮官はそこで言葉を切った。
「隊長さえ戻らなければ、今度も押し切れると思ったのかもしれん。切断については、まだ調べる必要がある」
リタは膝の上で手を握った。
針を刺した指先が痛んだ。
「でも、隊長は……ほかの人たちも、村の人も、あの火が点かなかったら」
「ああ」
指揮官の返事は短かった。
「誰がどこまで承知していたか、一つずつ確かめる。君たちが外した糸は、その証拠になる」
衛兵が記録を読み上げた。
どの制服から、どの順番で、何を見つけたか。
リタは思い出せる限り答えた。
それが終わっても、夕方にはならなかった。
長い日だった。
ニナが起き、三人で作業台を片づけた。
証拠に回すものを除いた布くずを集め、針の本数を数える。
リタは途中で一度、数を忘れた。
最初から数え直した。
窓が、次第に橙色になった。
鞍帯の修理に手をつけたが、五針進めては外を見た。
マルタにもニナにも、何も言われなかった。
鐘が鳴ったのは、日没の少し前だった。
北の観測所からの合図。
短く二つ、長く一つ。
烽火、点火。
ニナが立ち上がった。
マルタは目を閉じた。
リタは糸のついた針を布へ刺し、窓を開けた。
北の空は薄い紫だった。
烽火台そのものは、ここからは見えない。
点いた。
でも、まだ帰ってはいない。
リタは窓を閉めずに待った。
日が落ち、竜舎に灯りが入った。食堂の夕食の鐘が鳴る頃、ようやく空の向こうで羽音がした。
◇
竜の声がしたとき、廊下を走り出したのはニナのほうが先だった。
リタも続いた。
竜舎へ向かう道で、食堂から出てきた兵士たちと一緒になった。
一頭、二頭。
最後の栗色の竜が、片翼を少しかばいながら降りてきた。
竜番たちが駆け寄る。
ダリオは鞍から下りようとして、足を踏み外しかけた。
リタの息が止まった。
「大丈夫だ。帰りは座りっぱなしで、脚がうまく動かん」
竜番の肩を借りて地面に立つ。
頬に血がこびりつき、髪には灰が絡んでいた。
制服の右肩は、黒く焦げている。
「医務室へ」
リタが言うと、ダリオは頷いた。
「その前に」
留め具を外そうとする。
指先に擦り傷があり、留め具へうまく掛からなかった。
リタは近寄り、彼の手を押しのけた。
「今、脱がなくていいです」
「自分で持っていくと」
「来たじゃないですか」
声が大きくなった。
「もう、来たんですから。先に手当てをしてください」
ダリオは何か言いかけ、やめた。
血のついていない左手を、少し持ち上げた。
触れていいか迷うような動きだった。
リタはその手首を取った。
脈があった。
冷たい皮膚の下で、はっきり打っている。
「……肩、中まで焼けていませんか」
「布だけだ。中は無事だ」
手を離そうとすると、ダリオの指がリタの袖に触れた。
ほんの少し引き留められ、それでまた、涙が出そうになった。
「少し、付き添ってくれるか」
ダリオが言った。
「医務室まで」
リタは竜番と一緒に彼を支え、医務室へ向かった。ダリオは途中で一度立ち止まり、竜の手当てを頼むと背後へ声を掛けた。
◇
三騎とも、戻ってきた。
若い騎士は腕を切り、もう一人は肩を脱臼していたが、命に関わる傷ではなかった。
栗色の竜の翼にも浅い裂け目があった。しばらく飛べないと竜番に言われ、ダリオは額を寄せて謝っていた。
任務の様子をリタが聞けたのは、翌日の午後になってからだった。
修繕室の長椅子には、見慣れた借り物の上着を着たダリオが座っていた。
首の横に白い包帯が見える。
「冷却管が折れて、炉へ水が流れ込んでいた。上の弁を閉じるには、管を一度持ち上げなければならなかった」
烽火台では、灰羽に襲われた守備兵が負傷者を地下へ逃がし、残った者で設備を守っていた。
ダリオたちは空から群れを追い払い、合流した歩兵に周囲の守りを任せた。炉のそばでは、残った熱で水が沸き、蒸気になっていたという。
「作業用の面覆いと手袋は借りられた。ただ、外套は穴だらけで使えなかった。君たちの縫った制服で入った」
ダリオは、机の制服を見た。
「襟の蓄魔石が暗くなる前に交代した。俺たちが順に管を持ち上げ、守備兵がその下を通って弁を閉じた。あの男が設備を知っていなければ、間に合わなかった」
止水後は一度竜のところへ戻り、鞍から蓄魔石へ力を補充した。その間に守備兵たちが炉を乾かし、無事だった燃料を入れ直した。
右肩を焦がしたのは、その再点火のときだった。突風が入り、炉口から火の粉が吹き返したのだという。
リタは肩の表地をめくった。防護の糸はつながっていたが、熱を逃がす枝の端が何本か変色していた。
「ここは、取り替えます」
「頼む。熱いとは感じたが、火傷はしなかった」
糸の下を指でなぞる。夜明け前にやり直した継ぎ目も、ほどけてはいなかった。
リタはようやく、裁ち鋏を手に取った。
「私、あのとき」
リタは膝へ視線を落とした。
「名前を読めるようにと言われて、後から、怖くなりました」
ダリオは何も言わなかった。
「どうしても行かなきゃいけないのは、分かります。でも、そういう支度を頼まれるのは……」
制服の内側にある名前へ、リタは親指を置いた。紺色で足した一文字が、今は少し盛り上がっている。
「すまなかった」
ダリオが言った。
「前に、仲間の服を引き取ったとき、名前がなければ家族へ返せなかった。自分の服もと思ったが……君に頼むことではなかったな」
リタは制服の襟を整えた。
「今度からは、擦れてきたら普通に直します」
「頼む」
「あと、ほつれを自分で引っ張らないでください」
「分かった」
彼はやけに素直だった。
リタが顔を上げると、目が合った。
「ほかにもあるか」
言いたいことはあった。
食事をしろと言うなら、自分も食べてほしい。
修繕室の椅子へ座った途端、寝てしまうほど働かないでほしい。
それから。
「……次の休みは、いつですか」
ダリオが瞬いた。
「竜の治療があるから、しばらく遠征はない。明後日の午後なら」
「私も、その日は午後から休みです」
言ったところで、耳が熱くなった。
手元の制服を見る。
ほどこうとしていた糸を、針先で引っかけ損ねた。
「町に、新しい焼き菓子の店ができたそうです」
返事が遅い。
リタは顔を上げられなくなった。
「あなたの上着が直るまでに、私が場所を」
「知っている」
少し慌てた声だった。
「その店なら、知っている。東門の角だろう」
「……はい」
「一緒に行ってくれるか」
リタは頬へ落ちた髪を耳に掛けた。
「明後日、仕事が終わったら、ここで」
「行きます」
隣の作業台で、マルタが大きな音を立てて裁ち鋏を置いた。
「なら、二人とも。その日は時間どおりに仕事を終えておくんだよ」
リタは、ますます制服から目を離せなくなった。
◇
約束の午後、ダリオは時間より少し早く来た。
制服ではなかった。
濃い茶色の上着に、白いシャツ。
リタは見慣れない姿を一度見て、思わず目を逸らした。
「待たせたか」
「まだ、時間前です」
答えながら、作業用の前掛けを外す。
下に着ていた青いワンピースは、昨夜、自分で裾を直したものだった。
縫い目は気に入った。
似合っているかどうかは、出かける直前になって分からなくなった。
ダリオは、何か言おうとしていた。
リタは待った。
彼は一度、自分の襟元へ手をやった。
「その服は、君が?」
「はい」
「……よく似合っている」
前掛けを畳む手が止まった。
ニナは糸巻きを片づける手を止めていた。リタがそちらを見た途端、急に仕事へ戻る。
畳んだ前掛けを棚へ置き、リタは手櫛で髪を整えた。
「ありがとうございます」
リタはダリオと一緒に廊下へ出た。
町へ出ると、東門の並木は半分ほど黄色くなっていた。
荷馬車が通るたび、ダリオが半歩前に出るので、道を渡るときにはリタから隣へ並び直した。
通りで竜騎士に気づいた子供が手を振ると、少し照れた顔で振り返している。
焼き菓子の店には、林檎の焼ける匂いが満ちていた。
窓際の小さな卓に、二人で向かい合う。
「甘いものは、食べますか」
「食べる」
「なら、こちらは? 林檎と胡桃の」
「それにする」
注文を済ませて、リタは笑った。
「隊長は、私の勧めたものにしなくてもいいんですよ」
「これは、自分で選んだ」
彼は菓子の札を指した。
小さく、蜂蜜添えと書いてあった。
「蜂蜜がお好きなんですか」
「かなり」
リタは自分の紅茶にも蜂蜜を入れた。ダリオは匙をもう一度、蜂蜜の壺へ入れていた。
一年近く顔を合わせてきたが、食卓を囲むのは初めてだった。
皿が運ばれてくると、ダリオは店員へ礼を言い、リタに小さな匙を渡した。
「そちらの胡桃が、食べにくそうだったから」
「ありがとうございます」
制服を広げない卓で、この人と何を話せばいいのだろうと思っていた。
けれど、菓子が半分になる前に、リタのほうがよく喋っていた。町の生地屋のことも、今朝ニナが糸巻きを床へ落としたことも。
ダリオはときどき笑い、胡桃を匙に集めながら聞いていた。
◇
それから三週間ほどして、ベルクへの判決が食堂に掲示された。
軍法会議では、工房主が金の受け渡しを認めた。
別の隊の制服からも規定に足りない銀糸が見つかり、該当する装備はすべて回収された。
ダリオの制服を切った件は、ベルクも「検査のためだった」と認めた。衛兵長が保管した下地には、三か所の切断がそのまま残っていた。
修復もせず異常なしと返したこと、隊長の調査願いを隠していたことも明らかになった。
横領と軍用装備への故意の損壊。ベルクは免職のうえ、牢へ送られることになった。工房との契約も解除され、損害を償うため、双方の資産が差し押さえられた。
「今度の納入品は、私にも見せてください」
掲示を読み終えたリタは、一緒に来ていた装備係へ頼んだ。
「そのつもりだ。俺も検査に立ち会う」
翌週から、修繕室へ新しい検査台が入った。
防護刺繍は納入時に通電と温度の両方を検査し、出撃前にも騎士と整備係が作動を確かめることになった。
制服を直せば、誰がどこを直したか記録を残す。
リタとマルタには、検査方法を教える仕事が増えた。
その分の手当が付くと聞いたとき、マルタはまず金額を尋ねた。
「感謝状だけなら、ここへ置く場所がないからね」
宿直指揮官だった人が、少し困った顔で笑った。
ニナは洗濯場から正式に移ってきた。
自分の作業台をもらった日、引き出しを何度も開け閉めしていた。
リタにも、新しい糸切り鋏が支給された。古いものは刃先が合わず、細い糸を切るにも根元まで差し込んでいた。今度の鋏は、先を軽く閉じるだけで切れた。
注文した銀糸も、ようやく届いた。リタは受け取ったその場で一本を切り、魔石につないだ。
青く光る糸を、装備係と二人で確かめた。
◇
その日の仕事終わり、リタが最後の記録を書いていると、廊下で聞き慣れた足音がした。
「まだ掛かるか」
「あと、ここへ名前を書けば」
ダリオは戸口で待っていた。今では借り物の上着も、彼に合うものが一着、棚にある。けれど今日は私服だった。
「竜の翼は?」
「竜番が、明日から軽く飛ばしていいと。さっきは餌桶をひっくり返された」
「元気ですね」
「かなりな」
リタは署名を済ませ、帳面を閉じた。
針を数え、鋏をしまい、前掛けを外す。手を洗って戻ると、ダリオが彼女の肩掛けを取ってくれた。
「今日は、何が食べたい」
「温かいもの。昼はパンだけだったんです」
「それなら、広場の煮込み屋へ行こう」
肩掛けを留めようとして、リタは端の小さなほつれに気づいた。
明日でいい。
糸を引っ張らずに折り込み、彼の待つ戸口へ向かった。
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