冷たい死の口付け
パイプベッドの冷たい金属音だけが、薄暗い当直室に響いていた。小夜は丁寧に俺の足に包帯を巻き終えると、静かに床に正座したまま俺の顔を見つめていた。その瞳は深い湖のように澄み切っていて、先ほどまで血塗られた日本刀を振るっていた凄惨な気配は微塵も感じられない。
俺はどうしても自分たちの過去を知りたかった。記憶の底に沈んでしまった彼女との繋がりをこの手で掬い上げたかった。
「なあ小夜。俺たちは昔、どういう関係だったんだ?君の顔を見ても名前を聞いても、どうしても思い出せないんだ」
俺が絞り出すように尋ねると、小夜は寂しげに目を伏せた。
「私たちはかつてずっと一緒にいたのよ」
「お互いの痛みを分け合うように、いつも隣に座って同じ景色を見ていたわ」
「でもある日突然私たちは離れ離れになってしまったの。いえ、引き剝がされてしまった」
「どうしてそうなったのかは、今のあなたにはまだ重すぎる事実かもしれないから言わないけれど」
彼女の声は震えていた。俺はそれ以上深く追及することができなかった。過去の俺と彼女の間に何があったにせよ、彼女が今こうして俺のために血を流し俺を守ろうとしてくれている事実だけは揺るぎない。
「ずっとあなたを探していたのよ」
「そしてさっき、この病院から漂うひどく淀んだ骸徒の匂いを感じ取ったの」
「その不快な匂いの中にあなたが昔から纏っていた懐かしい気配が混ざり合っているのに気づいて、私は無我夢中で駆け出したわ」
「地下室の扉を開けた時、あの卑しい女があなたに牙を剥こうとしているのを見て、かつてのあなたの姿が鮮明にフラッシュバックしたのよ」
「そして気づいた時には怒りのあまりあの女の首を切り落としていたわ」
小夜は自らの傍らに置かれた刀に視線を落とした。彼女の細い肩が微かに震えている。俺という存在が彼女にそこまでの殺意と怒りを抱かせたのだ。普通の人間なら人を殺めた彼女を恐れるだろう。だが俺の心にあったのは恐怖ではなく、彼女の孤独な刃に対する深い哀愁だった。俺はゆっくりと息を吐き出し無意識のうちに自分の本音を口にしていた。
「そっか。でもあの看護師さんは俺が目を覚ますまでの間は一応ずっと看病してくれていたんだ。俺を化け物に変えようとしていたのは事実だけど、俺の命を繋いでくれていたのもあの人だった」
俺は自分でも変だと思うくらい、あの看護師さんに好意を持っていた。
「だから首を落とされる前にせめてきちんとお別れの言葉くらいは言っておきたかったな」
俺の言葉が静寂の部屋に溶けていく。頭を落とされた看護師の狂気的な顔が脳裏を過るが、それでも俺の中には確かな感謝の念が残っていた。異常な愛であったとしても、あの空間で俺が生き延びていたのは彼女の執着のおかげでもあったのだから。
俺の呟きを聞いた小夜はふっと目を丸くした。そして次の瞬間張り詰めていた空気を解きほぐすように柔らかくひどく懐かしそうに微笑んだ。それは凄惨な夜の闇に咲いた、一輪の白い花のように綺麗で悲しい笑顔だった。
「やっぱり変わってないんだね空は」
「何が?」
「どんなに悪い人でも決して憎むことができないところよ」
「自分を壊そうとした相手にすら、感謝を見出して最後にお別れを言おうとする」
「そんな優しすぎる不器用なところが、昔のあなたのままだったから少しだけ嬉しくなってしまったの」
小夜はそう言って俺の頬にそっと冷たい手を伸ばす。
「だって悪い人じゃないよ」
俺は薄暗い天井を見上げたままポツリと零した。首を切り落とされたあの看護師の最期の狂気は確かに恐ろしかった。だが俺が目覚めるまでの間彼女が俺の命を繋いでいたこともまた揺るぎない事実だ。
「看病してくれた時間は嘘じゃないはずだ。彼女の中にも優しさはあったんだよ。だから」
俺の言葉を聞いた小夜の眉がピクリと跳ねた。彼女は静かに首を横に振る。その瞳にはどこか諦めにも似た、冷たい色が宿っていた。
「空、それは違うわ」
「少しでもいい人の性質を持っていたら、それは悪い人ではないというのはもう成り立たないの」
「一滴の猛毒が混ざった水はもうただの水ではないでしょう?それと同じことよ」
「優しさや愛情という甘い砂糖でコーティングされているからこそ、その内側にある害意はより深く相手を蝕むの」
「あの女はあなたを生かしていたんじゃない。自分好みの鮮度であなたを味わうために保存していただけよ」
小夜の言葉は鋭利な刃物のように俺の甘い認識を切り裂いていく。だが俺はどうしても納得できなかった。記憶を失った俺にとって世界はまだ白紙だ。最初から全てを悪だと決めつけることには抵抗があった。
「どうしてさ」
俺は身体を起こし小夜の目を真っ直ぐに見つめた。
「完全な悪に染まっていないのならまだ可能性はあるだろ?その毒を取り除けば元の綺麗な水に戻るかもしれないじゃないか。最初から切り捨てるなんて悲しいよ。俺たちは話し合えば分かり合えるはずだ。そう教えてくれたのは、小夜だろ?」
俺の言葉に小夜の表情が強張った。彼女の唇がわなわなと震え呼吸が乱れ始める。俺の放つ性善説が、彼女の中にある何かを逆撫でしているようだった。
「……やめて」
「そんな綺麗な目で見ないで」
「あなたのその無垢すぎる思考がどれほど私たち骸徒を狂わせるか分からないの?」
「可能性?そんなものは幻想よ」
「私たちの中にあるのは理性では抑えきれない、飢えと渇きだけなの」
小夜の声が低く唸るような響きを帯びた。彼女の瞳孔が不自然に開き、漆黒の闇が広がっていく。当直室の空気がピリピリと張り詰め、彼女の身体から夜の冷気とは異なる禍々しい熱が立ち上るのを感じた。
「離れて」
「お願いだから私から離れて空」
「今のあなたは、私にとって最上級のごちそうなのよ」
彼女は苦しげに胸元を掻きむしった。だが俺は事態の深刻さを理解できていなかった。彼女を苦しめているのが何なのか分からず、心配して手を伸ばそうとしたその瞬間だった。
ドンッ。
視界が反転し背中にパイプベッドの硬い感触が走った。俺は仰向けに押し倒されていた。目の前に小夜の顔がある。だがそれは先ほどまでの慈愛に満ちた彼女ではなかった。
「小夜……?」
返事はなかった。彼女の瞳の焦点は完全に合っていない。そこにあるのは獲物の弱点を見定めた捕食者の目だった。彼女の喉がゴクリと鳴る音が静寂の部屋やけに響く。
「はぁ……はぁ……」
彼女の口から漏れる荒い息が俺の顔にかかる。それは氷のように冷たく、それでいて熟れた果実のような甘い匂いがした。彼女の細い指が俺の手首を万力のように締め、身動き一つ取れない。
「ま、ってくれ小夜。どう、したん、だよ」
俺の声は彼女の鼓膜には届いていないようだった。彼女の顔がゆっくりと俺の首筋へと近づいてくる。濡れた唇が俺の頸動脈の上を這うように滑った。
ゾクリとした悪寒が背筋を駆け上がる。
怖い。
生物としての根源的な恐怖が脳髄を直撃した。
彼女の犬歯が俺の皮膚に触れる感触。そこから流れ込んでくる明確な殺意と食欲。
俺は食べられる。
記憶を失くして自分という器が空っぽになった俺は、すでに死んだようなものかもしれないと思っていた。
過去も未来もない幽霊のような存在だと。
だが違った。
俺の心臓は早鐘を打ち、全身の細胞が「生きたい」と悲鳴を上げている。
喉笛を喰いちぎられる瞬間の想像が、鮮明な死のビジョンとなって俺を襲った。
死にたくない。
まだ何も思い出していないのにここで終わりたくない。
冷たい恐怖が涙となって俺の目尻からこぼれ落ちた。
「……っ!」
俺の首筋に歯を立てようとしたその瞬間、小夜の動きが凍りついた。
俺の流した涙が彼女の頬に触れたのだ。
その温かさが彼女を狂気から引き戻したようだった。
彼女はハッと息を呑み弾かれたように俺から身を離した。
ベッドの端まで後退りし、自分の口元を両手で覆ってガタガタと震えている。
「ごめんなさい……っ!私……なんてことを……」
彼女の瞳に理性の光が戻っていた。だがその顔は自らの業の深さに絶望し、青ざめていた。俺は首筋に残る彼女の冷たい唇の感触に戦慄しながらも、死の淵から生還した安堵に大きく息を吐き出した。




