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看護師さぁぁん!?

 棚の下の暗がりから突き出た生首のような顔が、次の瞬間には信じられない跳躍力で俺の視界を完全に覆い尽くした。

 どさりと重い衝撃が胸を打ちカルテの束が床に散乱する。

 暗闇の資料室の冷たい床に俺は無残に押し倒されていた。

 馬乗りになった看護師の顔は完全に正気を失っている。

 彼女の頬は異常なほどに紅潮し荒い吐息が俺の顔に直接吹きかかった。


「捕まえたわ空くん」

「これでずっと一緒ね」

「私の愛を全部、あなたの奥底に注ぎ込んであげる」


 患者に向けるべきではない、濁りきった恍惚の表情がそこにあった。

 巨大な注射器の針が俺の眼球のすぐそばで鈍い光を放っている。

 肺が焼ける。

 あごの感覚がもうない。

 逃げ場など、どこにもなかった。

 俺の抵抗する力はとうに尽き果て、全身の筋肉は悲鳴すら上げられないほどに麻痺している。

 もうだめだ。

 俺がすべての思考を放棄し絶望の暗い底に沈みかけたその瞬間だった。


 暗闇を裂くように鋭い銀の閃光が走った。

 音すらなかった。

 ただ網膜に冷たい一筋の光が焼き付いた直後、俺の上にのしかかっていた看護師の首が唐突にずれた。

 ごとりと重い何かが胸の上に落ちてくる。

 それは信じられないことに看護師の頭部だった。

 切断面から噴き出した生温かい血が俺の頬を濡らす。

 呆然とする俺の額に落ちてきた頭部の冷たい唇がゴツリと当たった。

 それはあまりにもグロテスクで絶望的な死の口付けだった。

 首を失った胴体が糸の切れた人形のように俺の脇へと崩れ落ちる。

 俺は声すら出せず、ただ虚空を見つめたまま床の上で完全に硬直していた。


「あなたは昔からそう」


 静寂に包まれた血塗れの資料室に凛とした涼やかな声が響いた。

 ゆっくりと衣擦れの音が近づいてくる。

 非常灯の僅かな緑の光と換気窓から差し込む青白い月明かりが、彼女の姿を静かに浮かび上がらせた。

 闇夜に溶けるような漆黒の髪。それにまぎれるきれいな白髪。

 華奢な身体には病院という空間にあまりにも不釣り合いで、古風で美しい和装を纏っていた。

 その右手には抜き身の日本刀が静かに握られている。

 刀身から滴る赤黒い血が彼女の静謐な美しさをより一層際立たせていた。

 彼女は手首を軽く返しシュガッと空気を裂く鋭い音を立て、刀を振るった。

 刀身に付着していた血の飛沫が床に赤い弧を描いて飛び散る。

 それは血生臭い現実を切り離すような、あまりにも洗練された美しすぎる残心だった。


 彼女は静かに刀を鞘に納め、俺のそばにそっと膝をついた。

 これまでの女たちのようなまとわりつくような熱気や息苦しさは一切ない。

 ただそこにあるのは、夜風のような静かで心地よい安らぎだった。

 彼女の白く細い指先が俺の額に触れ、付着した血を優しく拭い取ってくれる。


「空」


 彼女の瞳がかすかに揺れていた。

 俺が記憶を失っていることは彼女もすでに知っているようだった。

 それでも彼女の言葉には捨てきれない一縷の希望がすがりつくように滲んでいた。


「私のこと少しでも思い出してくれた?」


 俺はその悲痛な問いに対して何も答えることができなかった。

 頭の中は空白のままだ。

 俺がゆっくりと申し訳なさそうに首を横に振ると、彼女の顔にふっと寂しげな微笑みが浮かんだ。


「……そっか」

「ごめんなさい」

「聞かなきゃよかったね」


 その声は今にも泣き出しそうに震えていた。

 俺は胸の奥がギュッと強く締め付けられるのを感じた。

 他の奴らは俺の記憶なんてどうでもいいと己の欲望だけを押し付けてきた。

 俺を自分好みの人形にしようと狂気を振りかざしてきた。

 だが彼女は違う。

 俺が過去を忘れてしまったという事実を、俺と同じように悲しんでくれている。

 痛みを共有し寄り添ってくれる彼女の存在に、俺の張り詰めていた糸がゆっくりと解けていくのを感じた。


「怖かったね空」

「痛かったね」

「もう大丈夫だよ」

「私がずっとそばにいるから」


 彼女は冷たい床に横たわる俺の体を壊れ物を扱うように優しく抱きしめた。

 それは、あの結花や澪や理が向けてきたような監禁や束縛を目的とした檻ではない。

 ただ傷ついた人間を守ろうとする純粋な庇護の温もりだった。

 彼女の衣服から微かに香る伽羅のような古いお香の匂いが、俺の荒ぶる心拍を静かに鎮めていく。

 俺は初めてこの狂った世界でマトモに息を吹き返したような気がした。

 肺を焼くような痛みも足裏の激痛も彼女の腕の中では遠い幻のように薄らいでいく。


「立てる?」


 彼女が優しく背中を支えてくれ俺はどうにか立ち上がることができた。

 血まみれの資料室の中にいて彼女の存在だけが唯一の浄土のように清らかだった。


「ここももう安全じゃないわ」

「行きましょう空」

「私があなたを本当の意味で守り抜いてみせるから」


 彼女に手を引かれ、俺は地獄のような地下室を後にした。

 これからどこへ向かうのかすら分からない。

 だがこの手から伝わる確かな温もりだけが今の俺にとっての唯一の真実だった。


 俺たちは旧病棟の当直室に逃げ込んだ。埃を被ったパイプベッドと錆びたスチールロッカーだけが残された無機質な空間だ。鍵をかけ、窓のブラインドを下ろすと彼女はふうと小さく息を吐いた。俺は壁を背にしてずるずると冷たい床に座り込む。足の裏の傷が焼けるように痛み、呼吸のたびに肺が軋むが先ほどの死の恐怖に比べれば生を実感できる心地よい痛みですらあった。


「少しここで休みましょう」

「あなたが無理をして歩く必要はないわ」

「傷の手当てをするから、少し我慢してね」


 彼女はそう言って古い救急箱をどこからか見つけ出し、俺の足元に静かにひざまずいた。彼女の細く、白い指先が俺の血にまみれた足に触れる。その手はひんやりと冷たかったが不思議と嫌な感じはしなかった。

 消毒液が傷口に染みて俺が痛みに顔を歪めると彼女は自分のことのように悲しそうに眉を下げた。結花や理たちならこの痛みすらも喜んで俺の体に愛の証として刻み込もうとしただろう。だが彼女は違う。俺の痛みを純粋に悼み悲しんでくれている。その当たり前の優しさが、ひび割れた心に静かに染み渡っていく。


「ありがとう……えっと君の名前は」


 俺が掠れた声で尋ねると彼女は手際よく包帯を巻き終え、静かに顔を上げた。


小夜(さよ)よ」

「小夜と呼んでちょうだい」

「昔はよくそう呼んでくれていたのよ」


 小夜。その名前を舌の上で転がしても閉ざされた記憶の扉が開くことはなかった。だが心臓の奥底で微かな温もりが灯るような、不思議で懐かしい響きがあった。俺は彼女の静謐な瞳を見つめ返し、どうしても聞かなければならないことを口にした。


「小夜……一体何が起きているんだ?あの看護師は異常だったし他の奴らも俺を監禁しようとしていた。それに君がさっきあの看護師の首を切り落としたのも、普通の人間がやることじゃない」


 俺の言葉に小夜は悲しげに伏し目がちとなり、自らの傍らに置いた刀をそっと撫でた。刀身はすでに鞘に収まっているが、その奥に潜む冷たい殺意と先ほどの洗練されすぎた死の光景が俺の脳裏に焼き付いている。


「怖がらせてごめんなさい」

「でもあそこでああしなければ、あなたが完全に壊されてしまうところだったの」

「この病院もあの女たちも、今のあなたには毒が強すぎるわ」


 小夜は静かな夜風のような声で紡ぐ。


「空は骸徒(ゴート)という言葉を聞いたことがあるかしら」


 俺は首を横に振った。ゴート。初めて聞く単語だ。


「表の社会には決して出ない、都市伝説のような存在よ」

「人間の社会に紛れ込んで生きている私たちのような種族のこと」

「吸血鬼のようにおとぎ話のモデルになった存在と言えばわかりやすいかもしれないわね」


 彼女の告白はにわかには信じがたいものだった。だがさっき俺の目の前で起きた人間の首が吹き飛ぶ光景や、理たちが放っていた常軌を逸した異常性を思えば荒唐無稽と切り捨てることは到底できなかった。


「骸徒は人間の血や精神を糧にして生きているの」

「特に強い感情や狂気的な執着を吸い上げることで命を繋ぐのよ」

「でも私は……私たちは普通の人間と同じように静かに寄り添って生きていきたいだけなのに」


 小夜の言葉の端々に深い孤独と諦観が滲んでいた。彼女の肌の冷たさも人間離れした剣技も骸徒という人外の種族であるが故のものなのだろう。


「あの看護師も骸徒だったのか?」


 俺の問いに小夜は静かに頷いた。


「ええ。彼女は医療という隠れ蓑を使って人間の精神を食い物にしていたわ」

「そしてあなたという特異な存在を見つけてしまった」

「空の血や魂は骸徒をひどく惹きつける甘い匂いを放っているのよ」

「だから記憶を失って無防備になったあなたを誰もが自分のものにしようと群がってきたの」


 俺の存在そのものが彼女たちを狂わせているということか。結花や澪や理が骸徒なのか、それとも骸徒の毒気に当てられて狂ってしまったただの人間なのかはわからない。だが一つだけ確かなことは今の俺が歩く劇薬のような扱いを受けており、命を狙われるか精神を破壊されるかの瀬戸際に立たされているという事実だ。


「小夜も……俺を食うために来たのか?」


 俺が恐る恐る尋ねると、小夜は酷く傷ついたように目を細め、俺の頬にそっと冷たい手を添えた。


「私はあなたを絶対に傷つけない」

「あなたが悲しむのなら、私も一緒に泣きましょう」

「あなたが苦しむのなら、私がその苦しみの元凶をすべて切り裂いてみせましょう」

「だから私だけはあなたの敵ではないこと、どうか信じて」


 彼女の言葉には嘘偽りのない切実な響きがあった。他の奴らのような重く息苦しい愛の押し付けではなく、静かな夜の海のように俺を包み込んでくれる確かな安心感があった。記憶がなくてもこの少女だけは俺の味方なのだと細胞が本能的に理解していた。俺は彼女の冷たい手に自分の手を重ね、深く頷いた。



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