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自我喪失の予知夢

 目の前の白衣はもはや天使の仮面すら被っていなかった。ぬらりとした瞳孔が暗闇の中で獲物を捕らえる爬虫類のように細められる。彼女の手にある巨大な注射器の中で未知の液体が微かに波打った。

 あの薬液が静脈に混入すれば俺の精神は二度と浮上できない泥沼へと沈む。細胞レベルで生存本能が警鐘を鳴らし凍りついていた神経に無理やり高圧電流が流し込まれた。俺は傍らに放置されていた赤錆まみれの点滴スタンドを力任せに掴み彼女の足元へと全力で叩きつけた。ガシャンという金属の破砕音が地下室の淀んだ空気を切り裂く。


「あぶないじゃない、空くん」

「そんなに乱暴にしたら怪我をするわよ」

「あなたに傷がつくことは私が絶対に許さないのに」


 彼女が驚きにわずかに身を引いたその一瞬の隙を俺は見逃さなかった。背を向け開け放たれた重い鉄の扉へと身を躍らせる。裸足の裏がコンクリートの容赦ない冷気を吸い上げた。地下特有の湿ったカビの匂いと古いアルコールの臭気が混ざり合った異様な空気を肺の奥深くまで吸い込み俺は無我夢中で駆け出した。


 背後からねっとりとした足音が追ってくる。暗闇の廊下に響くハイヒールが床を叩くコツコツという音がまるで死神の刻む秒針のように耳にへばりついて離れない。

 俺は通路の端に放置されていた古いストレッチャーを両手で突き飛ばした。錆びついた車輪が鼓膜を裂くような嫌な摩擦音を立てて壁に激突し通路を塞ぐ。さらに前方にそびえる薬品棚らしき巨大なガラスケースに肩からぶつかり強引に薙ぎ払った。無数のガラス瓶が粉々に砕け散り琥珀色や不気味な紫色の液体が飛沫となって足首に降り注ぐ。床に散乱したガラスの破片が裸足の裏を無残に切り裂き生ぬるい血の感覚が走った。だが立ち止まることなど到底できなかった。痛覚を脳の奥底に置き去りにしてひたすらに重力に逆らい足を前に出す。錆びたスチールワゴンを蹴り飛ばし積み上げられたカルテの山を突き崩し、行く手を阻むものはすべて破壊しながら俺は迷路のような地下回廊を逃げ続けた。


 はぁっ、はぁっ、はぁっ。


 肺が焼ける。気管を通り抜ける空気が目の粗いヤスリとなって粘膜を無慈悲に削り取っていくようだ。呼気と吸気の境界線が曖昧になり、どれだけ息を吸い込んでも酸素が血肉に行き渡らない。胸腔の内側で赤熱した鉄塊が暴れ回っているかのような激痛が走る。顎の感覚はとうに消失していた。口を半開きにしたまま呼吸することしかできず、乾いた喉の奥からヒューヒューというひび割れた音が漏れ続ける。

 下顎を支える筋肉が麻痺し涎が垂れるのを感じるがそれを拭う余力すらない。

 心臓が肋骨を突き破らんばかりに、狂ったリズムで乱打し耳の奥で自身の血流の音がノイズとなって視界を揺らす。舌の根にまとわりつく鉄の味が広がりどろりとした唾液を飲み込むことすら困難だった。太ももの筋肉は限界を超え一歩踏み出すごとに膝が砕け散りそうになる。点滅する蛍光灯の光が視界で乱反射し平衡感覚すら失われつつあった。それでも足をとめればあの女に捕まり、俺の人間としての生は終わる。


 薄暗い廊下の交差点に差し掛かり、俺はついに力尽きた。壁に背を預けてずるずると崩れ落ちる。冷たいコンクリートの壁面の感触が火照りきった背中に伝わってくる。荒い息を殺そうと震える両手で口を強く塞いだ。暗闇の中で自分の狂乱した心音だけが響いている。


 その瞬間だった。

 網膜の裏側に突如として極彩色の悪夢がフラッシュバックした。いや過去の記憶ではない。それはもしあの時、あの地下室であの巨大な注射器の針が俺の静脈を貫いていた場合の残酷なまでに鮮明な予知夢だった。


 冷たい手術台の上で革のベルトで四肢を拘束され逃げ場を失った俺の腕に冷たい金属の針が沈み込む感触。

 直後に全身の血管を駆け巡る圧倒的で暴力的な多幸感。

 脳髄がドロドロにとろけるような甘い痺れが思考の輪郭を容赦なく奪っていく。視界が悍ましいほどのピンク色に染まり自身の自我が温かい泥水に溶ける角砂糖のように崩壊していくのがはっきりとわかる。

 もはや何も考えられない。何も拒絶できない。論理も理性も恐怖すらも極彩色の快楽に飲み込まれ消滅する。ただ眼前に微笑む看護師の顔だけが世界のすべてとなり彼女のねっとりとした愛撫と甘い言葉だけを栄養として受け入れることしかできない肉の人形へと成り下がる。

 言葉を紡ぐことも怒ることも未来を想像することもできず、永遠に終わらない湿度100パーセントの密室でただ愛されるためだけに呼吸を続ける家畜。俺の人間としての尊厳が完全に削ぎ落とされ狂気的な愛情の海で永遠に溺れ続けるだけの存在になる。

 それは肉体の死よりも遥かに恐ろしい精神の完全なる殺害のビジョンだった。


 そのあまりにも生々しい絶望と自我喪失の感触に、俺は胃の底からせり上がってくる猛烈な吐き気を堪えきれずその場にえずいた。胃液の酸っぱい匂いが鼻を突く。

 震える手で冷たい床を掻きむしりながら俺は自分がどれほどの深淵の淵に立たされていたのかを痛感していた。少しでも気を抜けばあの狂気の濁流に飲み込まれる。足裏から流れる血の温かさだけが今俺が正気を保っている唯一の証だった。遠くの廊下の奥から再びハイヒールが床を鳴らす音が微かに響き始める。悪夢はまだ終わっていなかった。


 肺の痛みを引きずりながら俺は手当たり次第に壁を伝った。指先が冷たい金属のノブに触れる。祈るような気持ちで体重をかけると、錆びた蝶番が微かに軋み重い扉が内側へと開いた。俺は転がり込むようにしてその部屋に飛び込み両手で必死に扉を押し閉めた。鍵のつまみを回す音すら致命傷になりかねない。俺は扉の冷たい表面に背中を張り付け肺から漏れ出そうになる荒い呼吸を両手で口を覆って必死に殺した。気管が焼け焦げるような激痛が喉の奥で暴れ回っている。


 コツコツというハイヒールの音が壁の向こう側を這うように近づいてくる。心臓が肋骨を打ち砕きそうなほどの暴力的な鼓動を刻む。その音が扉の前で一瞬だけ止まった気がした。血の気が引き全身の毛穴から冷たい汗が噴き出す。だが数秒の永遠にも似た沈黙の後で狂気の足音は再び一定のリズムを刻みながら廊下の奥へと遠ざかっていった。


 俺はズルズルとその場にへたり込み、ようやく僅かな酸素を喉の奥へと流し込んだ。暗闇に目が慣れてくると部屋の輪郭がうっすらと浮かび上がってきた。壁一面を覆い尽くすほどの巨大なスチール棚が幾重にも連なっている。

 非常灯の緑色の光に照らし出されたそれは膨大な数の紙の束だった。むせ返るような古い紙と埃の匂いが充満している。ここは過去の記録を保管する資料室だ。そして棚に収められているのはおそらく患者たちのカルテだろう。


 俺の脳裏にある考えが閃いた。俺がなぜ屋上から飛び降りたのか。なぜあの人たちはあそこまで異常な執着を俺に向けているのか。俺自身の過去に何があったのかを知る鍵がこの部屋にあるかもしれない。俺は激痛の走る足に鞭打って立ち上がった。足の裏から滲んだ血が冷たい床にべっとりと跡を残すが今は気にかけている余裕はない。


 棚の隙間に身を滑り込ませ、俺は血まみれの手でカルテの背表紙を一つ一つ確認していった。薄暗い光の中で文字の輪郭を追うのは至難の業だった。


 これも違う。

 これでもない。


 名前の頭文字を頼りに埃を被ったファイルを次々と引っ張り出しては戻す作業を繰り返す。焦燥感が胃の腑をギリギリと締め上げる。あの看護師がいつ戻ってくるか分からない。時間が経てば経つほど生存確率はゼロに近づいていく。


 違う。

 これじゃない!


 何百という他人の人生の記録を弾き飛ばしながら、俺は奥へ奥へと進んだ。

 足の裏の傷が紙片や埃を巻き込んで激痛を訴えてくるが、視線だけは棚の背表紙から外さなかった。


 その時だった。部屋の最も奥まった場所にある一段低い棚の隅にぽつんと置かれた分厚いクリアファイルが目に留まった。背表紙に書かれた文字に俺の心臓が大きく跳ねた。見間違えるはずがない。それは間違いなく俺の苗字だった。これだ。

 俺の直感がそう囁いている。

 俺の失われた記憶の真実がこの中に詰まっている。


「はは、」


 やっとだ。

 俺は震える手を伸ばしそのクリアファイルを棚から引き抜こうとした。分厚い書類の重みが指先に伝わる。ついに真実に手が届く。そう思った瞬間だった。


「おい」


「え...?」


 足元の暗がりから地を這うような低い声が響いた。俺の鼓膜を氷の刃で直接撫でられたかのような悍ましい声だった。


 俺が視線を落とした先。棚の一番下の僅かな隙間から暗闇と同化したように、真っ白な看護師の顔だけがヌルリと突き出していた。完全に焦点の合っていない両目が瞬きもせずに俺を真っ直ぐに見上げている。口角だけが不自然に吊り上がったその顔は、完全に人間の枠を外れた化け物のそれだった。

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