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冷たい手術台

 蹴り破られたドアの残骸を踏み越えて結花と澪が病室に雪崩れ込んできた。二人の息は荒く制服も私服も所々破れて乱れているがそんなことは全く気にしていない様子だ。彼女たちの視線は一直線にベッドの上の俺に突き刺さっている。理の放っていた狂気のように重くねっとりとした情念が二人の足元からドロドロと溢れ出していた。


 「空くんが死ぬなんて絶対に許さないよ。空くんの命は私と繋がっているんだから」

「空くんの心が死んでしまうなら、私が私の心を半分空くんに移植してあげる」

「だからそんな泥棒猫の鳥籠になんて入らなくていいの。私の腕の中が空くんにとって一番安全で暖かくて永遠に溶け合える場所なんだから」


 結花がベッドに這い上がり俺の右腕に絡みつく。その瞳は完全に据わっていた。俺の頬に彼女の熱い吐息がかかり甘ったるい香水と汗の匂いが鼻腔を埋め尽くす。俺は身動き一つ取れない。すると反対側から澪が俺の左腕を抱き込みそのまま胸にすり寄ってきた。


「先輩の心臓の音は私だけの子守唄なんですよ。誰にも独占させません」

「私が先輩の酸素になってあげますから孤独や息苦しさなんて一切感じさせませんよ」

「先輩の肺いっぱいに私の愛を満たして他の空気が一切入らないように私の口移しでずっと呼吸させてあげますね」


 澪の言葉は後輩という立場を完全に逸脱した常軌を逸する愛情だった。俺の両腕は完全にホールドされ二人の体温が直接肌に伝わってくる。暑い。そして息苦しい。病室の湿度が急激に跳ね上がり本当に空気が水で満たされたかのような錯覚に陥る。俺が助けを求めて理の方を見ると彼女は足元に落ちたデバイスを見つめたままブツブツと呟きそしてゆっくりと顔を上げた。


「……なるほど。完全な隔離が自我を破壊するなら常に直接的な生体リンクを保てばいいんだね」

「君の皮膚から伝わる微弱な電流を私が24時間モニタリングして感情の死滅を防ぐよ」

「だから空。もう私から1ミリも離れないでくれ。君の細胞の震えすら私以外に観測させたくないんだ」


 理の論理回路は最悪の形で再構築されてしまったらしい。彼女は白衣を翻すと俺の足元からベッドに乗り込み俺の足に自身の体を絡みつかせてきた。右には幼馴染。左には中学生の後輩。足元には天才科学者。三人の美少女に物理的に拘束され俺は完全にベッドに縫い付けられた。


 「空くんは私のものだよ。私の体温で全部の記憶を塗り替えてあげる」


「いいえ先輩は私の無垢なキャンバスです。私の色以外はすべて漂白してさしあげます」


「非科学的だね。空は私の最高の観測対象であり宇宙の真理そのものだよ」


 三人の声が至近距離で重なり合う。耳元で囁かれる愛の言葉はどれも異常なほど重くそして甘い。俺の心臓は恐怖と異常な状況による緊張で早鐘を打っている。逃げ場はどこにもない。窓から差し込むはずの真夏の陽光すら彼女たちの発するどす黒い愛のオーラに遮られ病室はまるで深海の底のように薄暗く感じられた。俺は彼女たちの重すぎる愛の海に物理的にも精神的にも溺れかけていた。


 結花と澪と理の三人に完全にホールドされ俺の呼吸は限界を迎えようとしていた。病室の湿度はもはや熱帯雨林を超えて深海の域に達している。三人の吐息と甘ったるい香りと常軌を逸した愛の言葉が俺の五感をねっとりと支配していく。助けてくれ。誰でもいいからこの地獄のような密着状態から俺を解放してくれ。俺が薄れゆく意識の中でそう願った瞬間だった。


 「あなたたち。私の大切な患者様に何をしているのかしら」


 甘くしかし絶対的な零度を伴った声が病室に響き渡った。ガラリと開いたドアの前に立っていたのはあの看護師さんだった。彼女の右手にはなぜか中身がなみなみと入った巨大な注射器が握られている。


 「空くんの心拍数が異常な数値を叩き出しているから飛んできたのに」

「まさかこんな小娘どもが私の特等席を荒らしているなんて、許せないわね」

「空くんの柔らかい肌に触れていいのは毎晩彼の寝顔を隅々まで観察していた私だけなのよ」

「あなたたちみたいな素人が彼の繊細な精神を弄るなんて医療従事者として、到底看過できないわ」


 看護師さんは注射器の針先からピュッと謎の液体を飛ばしながらゆっくりとベッドに近づいてきた。その目は完全にイッている。三人のが放っていた重い空気が看護師さんの発する圧倒的な大人の情念によってさらにどす黒く塗り替えられていく。


 「ちょっと看護師さん。職権濫用もいいところですよ」


 結花が俺の腕にさらに強く抱きつきながら威嚇する。


「空くんの心と体は私の愛で満たされているんです。余計な治療なんて必要ありませんから」


 「そうです!先輩の純白の記憶は私がこれから鮮やかに彩るんですから」


 澪も負けじと俺の左腕を胸に押し当てて叫ぶ。


「病院の規則を振りかざして先輩を独占しようだなんて浅ましいにも程があります!」


 「非科学的な小競り合いだね。空のバイタルを安定させる最適解は私との生体リンクだけだよ」


 理が俺の足元から眼鏡を光らせて冷たく言い放つ。


「君の持っているその得体の知れない薬物で空のシナプスを破壊されたら、私の宇宙が崩壊してしまうからね」


 三人の少女と一人の大人が俺を巡ってバチバチと火花を散らしている。しかし看護師さんは余裕の笑みを崩さなかった。


 「ふふっ。小娘たちは本当に自分のことしか見えていないのね」

「空くんが今どれだけ苦しそうにしているか分からないの?」

「この注射器の中身はね私が特別に調合した愛の鎮静剤よ」

「これを打てば空くんは私の腕の中で永遠に安らかな夢を見ることができるの」

「外のノイズもあなたたちのような害虫も一切気にならない私と空くんだけの甘い夢の世界へご招待してあげるわ」


 永遠に安らかな夢ってそれ絶対ヤバい薬だろ。俺は恐怖で声も出ない。看護師さんは三人を全く意に介さず注射器を構えたままベッドの脇に立った。


 「さあ空くん。痛いのは最初だけよ」

「私の愛をあなたの血管の隅々にまで巡らせてあげるから」

「これからは私があなたのママになって、すべてを管理してあげるわ」

「だからもう何も考えずにおとなしく私の腕の中に堕ちてきなさい」


 湿度がついに物理法則を超越した気がした。逃げ場は完全に絶たれた。右も左も下もそして上からも狂気的な愛が俺を押し潰そうとしている。俺の意識はついにプツリと暗転した。


 目を覚ますとそこは見知らぬ薄暗い部屋だった。背中に異様な硬さと冷たさを感じる。起き上がって確認すると俺が寝かされていたのはどこかで使われていたような古い手術台の上だった。

 痛む体を擦りながらゆっくりと身を起こす。あの病室での出来事は夢ではなかったらしい。看護師の注射器が迫る記憶を最後に俺の意識は途切れている。

 ここがどこなのか全く分からない。靴がないため裸足のまま冷たい床へと降りた。ぺたぺたと歩くたびに足の裏からひんやりとした感触が伝わってくる。薄暗い部屋着のようなものを着せられていて本当にただの患者らしい惨めな様子になってしまった。

 部屋の隅には錆びた医療器具や薬品の瓶が並んでいる。どうやらここは使われなくなった地下の旧病棟か何かのようだ。俺は逃げ道を探して重たい鉄の扉へと近づいた。ドアノブに手をかけるとカチャリと音を立てて扉が開いた。鍵がかかっていないことに安堵した瞬間だった。


「あら空くんもう起きちゃったのね」

「せっかく私が調合した特製の愛の鎮静剤でぐっすり眠らせてあげていたのに」

「冷たい床を裸足で歩くなんて、怪我でもしたらどうするの」

「あなたの体はもう私だけのものなんだから傷一つでもつけたら許さないわよ」


 暗闇の中から白衣を纏った看護師が現れた。その手には先ほどよりもさらに大きな注射器が握られている。彼女のねっとりとした吐息が部屋の湿度を急激に引き上げていく。


「ここはね誰も来ない地下の特別室なの」

「あの騒がしい小娘たちは私が院内の警備員を呼んで追い払ってあげたわ」

「これでようやく私たちだけの誰にも邪魔されない甘い隔離生活が始められるわね」

「さあ手術台の上に戻って私の愛をあなたの体の奥深くまで刻み込ませてちょうだい」


 終わった。

 逃げ出した先には最初から地獄が用意されていたのだ。俺は恐怖で後ずさりしようとしたが足が竦んで動かない。裸足の裏から伝わる床の冷たさよりも目の前の大人の情念の方が遥かに恐ろしくて、俺は完全に凍りついてしまった。

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