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監禁スイッチ。か!

 俺は目の前の狂気に全身の血の気が引くのを感じた。スナッフフィルム。解剖。ホルマリン漬け。飛び交う単語がどれも高校生の日常からかけ離れすぎている。俺は震える手で彼女の白衣を掴みどうにか彼女の体を自分から引き剥がした。


 「ちょっと待ってくれ。お前本当に誰なんだ」


 俺が必死に絞り出した声を聞いて彼女の動きがピタリと止まった。


「……えっ?」


 彼女の眼鏡の奥の瞳がわずかに見開かれる。俺はさらに言葉を重ねた。


 「さっきも言ったけど俺は記憶喪失なんだ。自分が何者かもわからないしお前たちのことも全く覚えていないんだ。俺は自分がどうして飛び降りたのかも思い出せない。頼むから名前だけでも教えてくれないか」


 その瞬間だった。彼女の纏っていた空気が一変した。圧倒的な捕食者の余裕が崩れ去り足元から崩落していくような絶望が病室を支配する。


 「……(ことり)だよ。私の名前は理だ。空の唯一の理解者であるはずの理だよ」


 彼女の口から紡がれた声はひどく掠れていた。先ほどまでの滑らかな理系の語り口はどこへやらその肩は小刻みに震えている。


 「空の脳細胞のシナプスから私という存在の接続が絶たれたというのか?」

「あんなにも完璧な回路で結ばれていた私たちの記憶が初期化されたなんて、そんなバグが許されるはずがないじゃないか」

「嘘だと言ってくれ空。君が私を忘れるなんて物理法則が崩壊するよりもあり得ない事象なんだよ」


 理の目からポロポロと大粒の涙が零れ落ちた。白衣の袖を握りしめる彼女の指先は白く変色するほど力が入っている。俺の言葉が彼女の理性を完全に粉々に打ち砕いてしまったのは火を見るより明らかだった。


 「君の海馬から私が消えたのなら今ここで君の頭蓋骨を開いて、直接私のデータを書き込むしかないじゃないか」

「いや違う。そんな物理的な処置で戻るような浅い関係じゃなかったはずだ。私の計算式はどこで狂ってしまったんだい」

「私を忘れた空なんて、空の形をしたただの有機物の塊じゃないか。でもそんな空でも私は手放せないんだ」

「空が私を忘れた世界になんて観測する絶望しかない。いっそこの病室ごと君を密閉して永遠に私だけの暗黒箱に閉じ込めてしまおうか……」


 独り言のようにブツブツと呟きながら理はその場にへたり込んでしまった。さっきまでの猟奇的な恐ろしさは消え失せ、ただただ絶望に打ちひしがれている。だがその瞳の奥には底知れない黒い泥のような執着がより一層濃く渦巻いていた。

涙を流しながらも俺を見つめる視線は絶対に逃がさないという重力場を形成している。俺は完全に一番厄介な地雷を踏み抜いてしまったらしい。


 目の前でへたり込みボロボロと涙をこぼす理を見て、俺は猛烈な罪悪感に襲われた。記憶がないのは俺のせいじゃない。だがかつての友人をここまで絶望させてしまった事実は重くのしかかる。俺はたまらずベッドから身を乗り出し、彼女の肩にそっと手を置いた。


「ごめん理。俺が何も覚えていなくて。でもそんなに泣かないでくれよ」


理の方が僅かに震える。


「過去のことは思い出せないけどこれから新しく思い出を作ればいいだろ?だから顔を上げてくれないか」


 俺なりの精一杯の慰めだった。これ以上彼女を曇らせておくのは寝覚めが悪すぎる。しかし俺のその言葉が彼女の中にある最悪のスイッチを押してしまったことに数秒後の俺は気づくことになる。


 「……新しく?」


 ピタリと理の涙が止まった。うつむいていた彼女の顔がゆっくりと上がる。その表情からは先ほどの絶望が嘘のように消え去っていた。代わりに眼鏡の奥の瞳にはどす黒く濁った歓喜の光がチカチカと明滅している。


「そうか。ゼロから私だけの空を再構築できるということか」

「過去の不確定要素をすべて排除して、完全にコントロールされた環境で君を育成できるんだね」

「なぜ今まで気づかなかったんだろう。これはエラーなんかじゃない。神が与えてくれた最高のリカバリイベントじゃないか」


 理は弾かれたように立ち上がった。彼女の口元には三日月のような歪んだ笑みが張り付いている。なんだこの急展開は。俺の慰めが完全に裏目に出ている気がする。


「えっと理?なんか急にテンション変わってないか?俺はただこれから普通の友達としてやり直せればって……」


「友達?何を言っているんだい空。私たちはこれから一つの完璧な宇宙になるんだよ」

「君はもうこのベッドから一歩も動かなくていい。外の世界はノイズが多すぎるからね」

「この病室を外部からの干渉を一切遮断する完璧なシェルターに改造しよう」


 理は白衣のポケットをごそごそと漁り何か黒い手のひらサイズのデバイスを取り出した。それはどう見ても病院の設備にはない禍々しい電子機器だった。


「まずはあのドアの電子錠をハッキングして完全にロックするよ」

「次に窓ガラスを特殊な防弾仕様にコーティングして、外部からの物理的なアクセスを遮断しよう」

「食事も排泄もすべて私が管理する。君のバイタルサインは24時間体制で私のデバイスに同期させるからね」


 息継ぎもなく淡々と恐ろしい計画を語りながら理は病室のドアへと向かっていく。冗談ではない。あんなデバイスをドアに取り付けられたら最後。おそらく俺は一生この病室から出られなくなる。


 「待て!ストップ!早まるな理!」


 俺が叫ぶと彼女はドアノブに手をかけたままクルリと振り返った。


「早まる?私は至って冷静だよ空」

「君が私に新しい思い出を作ろうと言ってくれたんだ。私はその言葉に従って最高に純度の高い環境を用意しているだけさ」

「他の誰の記憶にも君を書き込ませない。君の視界に映るのは永遠に私だけでいいんだよ」


 彼女の瞳はもう完全に狂気に支配されていた。湿度が低いどころか病室の空気がねっとりと重く肌にまとわりつくようだ。まさに監禁の一歩手前。俺の平穏な日常は今度こそ完全に終わりを迎えようとしていた。


 理の手に握られた黒いデバイスが病室のドアノブへと近づいていく。あれがセットされたらこの部屋は物理的にも電子的にも完全に外界から遮断されてしまう。俺はベッドから身を乗り出して必死に叫んだ。


 「待て理!そんなことをしたら俺はもう俺じゃなくなるぞ!」


 理の動きがピタリと止まった。彼女はゆっくりとこちらを振り返り、眼鏡の奥の濁った瞳で俺を見据える。


「何を非論理的なことを言っているんだい空」

「君の肉体も精神もすべてこの密室で安全に保護されるんだよ」

「外のノイズを完全に遮断すれば君のシナプスは私との記憶だけを最も効率よく形成できるはずだ」

「それが君の言う『新しい思い出を作る』ための最適解じゃないか」


 理は淡々と反論してくる。しかしその声のトーンはどこか熱を帯びていて完全にマッドサイエンティストのそれだった。俺は彼女の歪んだ論理を打ち破るべくさらに言葉をぶつける。


「違う!お前のやろうとしていることはただの飼育だ!俺は人間なんだ。自由を奪われて光も風も他の人間との関わりも絶たれた場所に閉じ込められたら心がどうなるか、科学者の理ならわかるだろ!」


 俺の必死の説得に理は少しだけ首を傾げた。白衣の裾が揺れる。


「心の変容かい?それは興味深い推論だね」

「確かに閉鎖空間における被験者のストレス耐性の低下や精神の崩壊は過去のデータにも存在している」

「しかし私が君の精神状態を完璧にモニタリングして適切なドーパミンやセロトニンの分泌を促す環境を構築すれば、まったく問題ないはずだよ」

「君が悲しむ要素なんて私の計算上には一つも残さないからね」

「だから安心しておとなしく私の用意した完璧な鳥籠に入ってくれればいいんだ」


 ダメだこいつ。科学的なアプローチで監禁を正当化しようとしている。俺はさらに言葉を重ねて彼女の論理回路に致命的なバグを発生させるしかない。俺は息を深く吸い込み真っ直ぐに彼女の目を見つめ返した。


 「薬や環境で感情をコントロールされた俺が本当に俺だと言えるのか?お前が欲しいのは『俺』なんだろ?お前の都合よくプログラムされた人形じゃないはずだ」


段々と俺自身の言葉に熱が乗っていくのが分かる。


「もしそんな風に俺を物理的に改造して閉じ込めたら俺の感情は完全に死滅する。お前が愛したはずの俺はそこにはいない。ただ生かされているだけの肉塊になるんだぞ!」


 理の持っていた黒いデバイスが手から滑り落ちた。カランという無機質な音が静まり返った病室に響き渡る。


「……人形?感情が死滅する?」

「待ってくれ空。私の計算式には君の自我の崩壊なんて組み込まれていない」

「私が欲しいのは私に微笑みかけてくれる、生きた空だ。君の心が死んでしまったら、私の宇宙は完成しないじゃないか」

「でも外の世界には君を奪おうとする害虫が多すぎる。どうすれば君を安全に、しかも心を殺さずに私の手元に置いておけるんだい?」


 理は頭を抱えてブツブツと高速で呟き始めた。彼女の脳内で理想の監禁と俺の自我の維持という矛盾したデータが衝突し論理がショートを起こしている。演算処理が追いつかず彼女は完全にフリーズ気味だった。チャンスだ。ここで一気に畳み掛けて彼女の計画を完全に破綻させる。


 「だから俺を閉じ込めるな理!そんなことをしたら俺の心は完全に死ぬ!」


 俺が病室に響き渡る大声で叫んだその瞬間だった。


 「「ちょっとまったぁぁぁぁぁっ!!」」


 バーンと凄まじい轟音を立てて病室のドアが蹴り破られた。いや本当に蝶番(ちょうつがい)から外れてドアが吹っ飛んだ。そこに立っていたのは息を荒げ服をあちこち破いた結花と澪だった。


「空くんが死ぬなんて絶対に許さない!この白衣の泥棒猫!」


「先輩の命は私のものです!どこの馬の骨とも知れない理系女に先輩を殺させやしませんよ!」


 廊下での陰湿な死闘をどうにか終えたらしい二人が理を鋭く睨みつけている。結花の目は血走り、澪の背後には謎の黒いオーラが見える気がした。最悪のタイミングで最悪の二人が帰還してしまった。

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