あの、今から入れる保険ありますか?
夜の校舎に静寂が戻る。
俺は冷たい廊下の床に仰向けに倒れ込んだまま荒い息を吐いていた。
脇腹からはまだジクジクと焼け付くような痛みが発信され続けている。
小夜は刀を鞘に収めるとすぐに俺のそばに膝をついた。
「少し我慢して」
「血を止めないと危ない」
小夜は自分の衣服の綺麗な部分を躊躇いもなく力任せに引き裂いた。
白い布が彼女の細い手によって俺の脇腹にきつく巻き付けられる。
「痛っ……」
俺が思わず呻き声を上げると、小夜は申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめんなさい」
「でもしっかり縛っておかないと」
「あなたが骨を投げてくれなかったら私が危なかったわ」
「助けてくれてありがとう」
俺は痛みに顔を歪めながらも少しだけ誇らしい気分になった。
化け物を倒したのは完全に小夜の力だが、俺の一撃も少しは役に立ったのだ。
「いや俺のほうこそ助かったよ」
「あのままだったら確実に串刺しだったからな」
「それにしてもさっきの光る腕かっこよかったぞ」
俺が冗談めかして笑うと小夜もつられて小さく吹き出した。
「もう」
「こんな時に何言ってるのよ」
「本当に馬鹿なんだから」
暗闇の中で幼稚園児のように笑い合ったあの空気が少しだけ戻ってくる。
死の恐怖から解放された安堵感で俺の心は驚くほど軽くなっていた。たわいない会話を交わしながら小夜の手当てを受ける。
その時間はひどく穏やかでこの狂った世界の中で唯一の救いのように感じられた。
傷の痛みすら今は生きている証として受け入れられそうだった。
だがその穏やかな時間は長くは続かなかった。
コツッ。
暗闇の廊下の奥から足音が響いた。
誰かが歩いてくる。
さっきの化け物のような重い音ではない。
明確に硬い靴底がタイルの床を叩く人間の足音だ。
小夜の表情が一瞬で険しいものへと変わった。
彼女は俺の傷口から手を離し音もなく立ち上がる。
チャキッ。
鞘から再び日本刀が引き抜かれ冷たい刃の輝きが闇の中に浮かび上がった。
「誰」
「そこから出てきなさい」
小夜の声は氷のように冷たかった。
彼女の切先が向けられた先の影からゆっくりと一つの人影が姿を現す。
月明かりに照らされて白く浮かび上がったのは見慣れた白衣だった。
理だ。
彼女は銀色のフレームの眼鏡を指で押し上げながら、床に散らばった化け物の残骸を興味深そうに見下ろしていた。
「驚いた」
「こんな非論理的な有機物の残骸が校舎内に散乱しているなんて」
「空のバイタルが急激に乱れたから駆けつけてみればとんでもない事態だね」
理はいつものように感情の起伏のない淡々としたトーンで呟いた。
どうやら俺の危機を何らかの手段で察知してやってきたらしい。
俺はホッとして息を吐き出そうとした。
しかし小夜の刀は下がるどころかさらに鋭く理へと向けられた。
「刀を下げてくれないか小夜。あれは俺のクラスメイトだ」
俺が慌てて声をかけるが小夜は警戒を全く解こうとしなかった。
「だめ」
「この人がさっきの骸律を呼び出したのかもしれない」
「こんなタイミングで現れるなんて不自然すぎるもの」
小夜の推測は確かに的を得ている部分があった。
誰もいないはずの夜の校舎。
化け物が倒された直後に現れる白衣の少女。
状況証拠だけを見れば黒幕だと疑われても仕方がない。
だが俺には理がこの化け物を差し向けた犯人ではないという確信があった。
「いや大丈夫だ小夜。こいつは確かに問題児だけど俺にこんな危害を加えるような奴じゃないんだ。なんせ俺を無菌室に閉じ込めて生かしておきたいような異常者だからな」
俺は必死に理の無実を訴えた。
フォローになっているのか悪口になっているのか自分でもよく分からなかったが事実なのだから仕方がない。
理が俺を殺そうとするならもっと巧妙で陰湿な手段を使うはずだ。
こんな物理的な暴力で俺を傷つけるような非効率なことは絶対にしない。
俺の言葉を聞いた理は眼鏡の奥の瞳をキラリと光らせた。
「そうだ」
「私は問題児などではないからね」
「私は空を誰よりも安全に管理する善良な一般人だよ」
理は俺の言葉に完全に乗りやがった。
問題児という部分を都合よく否定し、善良な一般人という絶対に当てはまらない言葉で自己正当化している。
俺がツッコミを入れる隙も与えず理はスタスタと俺のそばへと歩み寄ってきた。
そして小夜が構える刀の刃を全く気にする様子もなく俺のすぐ隣に座り込む。
「それにしても酷い怪我だね」
「私の貴重な観測対象にこんな傷をつけるなんて許しがたいエラーだ」
「すぐに私が完璧な処置をしてあげよう」
言うが早いか理は俺の体にピッタリと密着してきた。
白衣越しの冷たい体温と微かな薬品の匂いが鼻を突く。
彼女は俺の顔に自分の顔を限界まで近づけ俺の首筋に深く息を吹きかけた。
「あぁ空の血の匂いだ」
「傷ついて血を流す君もまた美しくて興奮するよ」
「私が君の痛みを全部舐め取って消毒してあげようか」
「君の細胞の一つ一つに私の唾液を染み込ませてあげるからね」
理の言葉は完全に常軌を逸していた。
看病という名目のドサクサに紛れて堂々とセクハラをかましている。
傷口に触れる彼女の冷たい指先が腹部を這うように動いて俺は背筋にゾクゾクとした悪寒を感じた。
昨夜のあの屈辱的な制圧の記憶が蘇り、俺は顔を真っ赤にして抵抗しようとした。
だが怪我のせいで全く力が入らない。
その光景を目の前で見せつけられていた小夜の顔がみるみるうちに真っ赤に染まった。
彼女は刀を構えたまま信じられないものを見るような目で理を指差した。
「やっぱり問題児じゃない!」
「怪我人に何してるのよこの変態!」
夜の校舎に小夜の悲痛な叫び声が響き渡った。
さっきまでのクールでミステリアスな剣士の面影は完全に消え去っている。
俺は理に抱きつかれながら小夜の完璧なツッコミに心の底から同意していた。
こいつは骸律を操る化け物なんかよりもよっぽどタチが悪い本物の問題児だ。
夜の校舎の冷たい床に寝転がったまま、俺は目の前で繰り広げられるカオスな光景をただ呆然と眺めていた。
俺の脇腹にピッタリと張り付き、血の匂いを嗅ぎながらハアハアと荒い息を吐く白衣の理。
そしてそれを見て顔を真っ赤にしながら日本刀を震わせている小夜。
化け物との死闘の直後だというのに、この空間だけが完全に異次元のコメディ時空に突入していた。
「ちょっと、離れて」
「空は酷い怪我をして血を流しているのよ」
「あなたの異常な執着は彼を怖がらせて傷つけているだけだわ」
「彼の気持ちを少しでも考えたことがあるの?」
小夜が理に向かって声を荒らげた。
その言葉の端々からは俺の体調と精神状態を第一に心配してくれているのが痛いほど伝わってくる。
俺を守るために化け物と戦ってくれた彼女の怒りは至極真っ当なものだった。
だが俺に密着している理はそんな小夜の剣幕をどこ吹く風と受け流す。
「彼の気持ちなら私が一番正確に計測しているよ」
「恐怖と痛みが交差するこの瞬間のドーパミン分泌量は素晴らしいからね」
「君のような野蛮な暴力装置にはこの繊細な生体反応の美しさが理解できないだろうけど」
「空の肉体は私の完璧な管理下にあるのだから口出ししないでくれないか」
理は俺の腹部を指先でなぞりながらうっとりとした表情で言い放った。
一切の常識が通じない。
俺という人間を完全に猟奇的な実験動物か何かと勘違いしている。
相容れない二人の主張は平行線を辿るどころか互いの地雷を的確に踏み抜いていた。
「管理だなんてふざけないで」
「彼はあなたの実験道具じゃないわ」
「あんな化け物に襲われて、今どれだけ彼が不安で苦しんでいるか分からないの」
「今すぐその汚い手を彼から離しなさい」
「汚い手とは非論理的な暴言だね」
「私は毎日特殊なアルコールで殺菌を徹底しているから君のその血生臭い刀よりよっぽど清潔だよ」
「それに空は私のこの冷たい指先が与える刺激をすでに学習して快感を覚えているんだ」
「彼自身が私の支配を望んでいるのだから君がしゃしゃり出る幕はないね」
「なっ……」
「か、快感って……本当なの……?」
小夜が信じられないものを見るような目で俺を見下ろしてくる。
刀の切先が微かに震えていた。
理の言うことは半分事実だが、半分はとんでもない誇張だ。
だが弁解しようにも脇腹が痛んで上手く声が出ない。
俺が黙っているのを肯定と受け取ったのか、理はさらにドヤ顔で俺の首筋に顔を埋めた。
「ほらね」
「彼も否定しないじゃないか」
「君はただの通りすがりの警備員に過ぎないんだからさっさと帰ってくれないか」
「これからは私が空のすべてを隅々まで観測してあげるからね」
「このっ……」
「最低の変態女……っ」
俺は仰向けに倒れたまま二人の言い争いを呆然と見上げていた。
完全にちぐはぐだった。
片方は俺の感情や痛みに寄り添おうとしてくれる正統派で純粋なヒロインのスタンスだ。
もう片方は俺の肉体的なデータと支配欲にしか興味がない、猟奇的なマッドサイエンティストのスタンスだ。
ジャンルの違う二つの狂気が俺の出血する脇腹の上で激しく衝突している。
純愛と猟奇。
感情と論理。
そのあまりにも噛み合わない会話のキャッチボールに俺は痛みを忘れて頭が痛くなってきた。
「彼を解放しなさい」
「これ以上空の心を傷つけるなら私があなたを斬るわ」
小夜が切先を理の喉元へと突きつけた。
しかし理は俺の身体にさらに深くしがみつく。
「斬れるものなら斬ってみるといい」
「ただし私の血が一滴でも空の傷口に混ざれば、彼の細胞は永遠に私のものになるけどね」
このままでは殺し合いが始まってしまう。
いやそれ以前に俺の脇腹の傷が限界だ。
止血はしてもらったもののこんな密着状態で言い争いをされたら傷口が開いて死んでしまう。
俺は痛む腹を庇いながら最後の力を振り絞って二人の間に割って入った。
「おいお前ら。俺の心臓と細胞で争ってるところ悪いんだけどさ、一つだけ言わせてもらうぞ」
俺の低い声に二人の視線がピタリと俺へと向いた。
俺は大きく深呼吸をしてから溜め込んでいた思いを全力で吐き出した。
「小夜はお前の言う通り俺の気持ちを第一に考えてくれてるみたいだけどな、俺の今の本当の気持ちは『一秒でも早く病院に行ってちゃんとした医者に診てもらいたい』なんだよ」
思わず言葉は止まらない。
「理はお前が俺の細胞を愛してるのはよく分かった。でも俺の細胞は今『出血多量で死にそうだから唾液じゃなくてまともなガーゼと消毒液をくれ』って叫んでるんだよ」
結論をいうべく、息を取り込む。
「つまりお前らのその次元の違う重すぎる愛は、今の俺にとってただの『止血の邪魔』でしかないんだよ!」
俺の言葉に二人が一瞬だけキョトンとした顔をした。
俺は構わず言葉のトドメを刺しにいく。
「だいたいなんだそのチグハグな言い争いは。片方は腕をピカピカ光らせて日本刀を振り回してるゲーミング剣士だし。片方は怪我人の傷口を舐め回そうとする変態ストーカー科学者じゃないか」
言葉は止まることなく思い浮かんでくる。
「俺が求めてるのはな放課後に一緒にクレープを食べて笑い合えるような普通の女子高生なんだよ。お前らみたいなホラー映画の主役と変態マッドサイエンティストは俺の理想の青春から宇宙で一番遠い存在なんだよ」
願望はとめどなくあふれる。
「俺はもうバケモンとストーカーの修羅場なんてごめんだ。頼むから俺に普通の平和な高校生活を返してくれー!」
俺の渾身のコメディチックなツッコミが夜の校舎に木霊した。
静寂が降り降りる。
カラン。
小夜の手から日本刀が滑り落ち冷たい床に乾いた音を立てた。
「……ホラー映画の主役」
「……理想の青春から一番遠い」
小夜の口から絶望に満ちた呟きが漏れた。
彼女の腕に刻まれた赫い光がチカチカと明滅しやがて完全にその輝きを失った。
彼女は自分が「普通の女子高生」になれない人外の化け物であることを俺の言葉によって最も残酷な形で突きつけられたのだ。
いくら俺の気持ちを考えても一緒にクレープを食べるような普通の青春は絶対に提供できない。
その圧倒的な事実の前に小夜は膝から崩れ落ち光を失った虚ろな目で床を見つめ始めた。
目からはポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちている。光はもうなかった。
一方の理も完全にフリーズしていた。
「……変態ストーカー」
「……止血の邪魔」
理の顔から表情が抜け落ち、銀色の眼鏡が鼻の頭までズリ落ちた。
彼女の完璧な論理と計算の牙城が俺の「お前ただの変態だぞ」というド直球の正論によって根底から粉砕されたのだ。
自分が良かれと思ってやっていた細胞の管理が愛する男から宇宙で一番遠ざけられる迷惑行為だったと気づいてしまった。
理は俺にしがみついていた手を力なく離し幽鬼のようなフラフラとした動きでその場にへたり込んだ。
その瞳からは知性の光が完全に消え失せ、絶望のどん底に叩き落とされた抜け殻のようになっていた。
俺のたった一度のツッコミが二人のヒロイン打ちのめしてしまった。
あまりにも見事な撃沈っぷりに俺は少しだけ言い過ぎたかもしれないと冷や汗を流していた。
誰も喋らない夜の廊下で俺は腹の痛みに耐えながら、完全に心が折れた二人の少女を前に途方に暮れるしかなかった。




