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16/21

抜刀!チャキーン。

 誰もいない夜の校舎は、まるで巨大な生き物の胃袋の中のようだった。


 廊下を歩く自分の上履きの擦れる音だけがやけに大きく響く。

 耳鳴りがするほどやたらと静寂がうるさく聞こえていた。


 闇の奥から得体の知れない視線を感じる気がして俺は無意識のうちに早足になる。


 早くこの校舎から出なければ。


 焦りが背中を押して階段を駆け下りようとしたその時だった。

 俺の足がピタリと止まった。


 ドンドン。


 校舎の床を下から突き上げるような重く鈍い音が響いたからだ。

 それは風の音でも建物の軋みでもない。

 明確な意思を持って何かを叩きつけるような、あるいは巨大な質量を持った何かが歩くような音だった。


 ドンドン。ドンドン。


 音が近づいてくる。

 全身の産毛が総毛立ち、心臓が早鐘を打ち始めた。


 極限の恐怖で凍りついていた意識をどうにか取り戻し俺は弾かれたように走り出した。


 やばいやばいやばい。


 逃げなきゃ死ぬ。


 その原始的な感情だけが脳のキャパシティを完全に埋め尽くしていた。

 振り返るなと本能が叫んでいるのに理性を失った首が勝手に後ろを振り向いてしまう。


 そして俺は見てしまった。

 暗闇の廊下の奥から迫ってくる異形の存在。

 それは骸骨のように痩せこけ酷く崩れた形をした人間のような「何か」だった。


 皮膚はボロボロに剥がれ落ちむき出しになった赤黒い筋肉と白骨が複雑に絡み合っている。

 そいつの右手には自身の骨を無理やり引き抜いて削り出したような歪で鋭利な槍のようなものが握られていた。


 カタカタと骨を鳴らしながら常軌を逸したスピードでこちらへ迫ってくる。


 小夜が教えてくれた四骸系の力。

 骸律。

 自分の骨を武器に変換する異形の化け物が本当に俺の目の前に現れたのだ。


 俺は恐怖で足がもつれ無様に廊下に転がり込んだ。


 逃げられない。


 化け物はすでに俺の背後まで肉薄していた。

 そいつは高く飛び上がると手にした骨の槍を俺の背中めがけて無慈悲に突き下ろしてくる。


 あ。


 間抜けな声が漏れた。

 回避することなど不可能だった。

 鋭利な切先が俺の制服を容易く貫き、右の脇腹に僅かに刺さる。


「ぐっ、あ。……!」


 焼け火箸を突っ込まれたような激痛が走り生温かい血がドクドクと流れ出してシャツを濡らしていくのがわかった。

 槍が深く突き刺さる前に俺は痛みに身を捩って横に転がりなんとか致命傷だけは避けた。


 だがもう立ち上がる力なんて残っていなかった。

 腹を押さえてうずくまる俺の頭上を見下ろすように化け物が再び骨の槍を振り上げる。


 なんであの時早く帰らなかったんだ。


 激しい後悔の念が俺の心をどす黒く塗り潰していく。

 出所も分からない告白の手紙なんかに浮かれて誰もいない校舎にノコノコと残っていた自分の愚かさが呪わしい。


 記憶がない俺にはこんな非日常のバケモンと戦う力なんてないのだ。


 もう死ぬんだ。


 死の絶望が迫る中。

 なぜか俺の脳裏に浮かんだのはあの重すぎる執着で俺を縛り付けようとしていた幼馴染の顔だった。


「結花……」


 無意識のうちに俺はその名前を口にしていた。

 彼女の異常な愛ならば、この化け物からすら俺を守ってくれたのではないか。


 そんな身勝手な思いにすがりついた直後だった。

 俺の呼び声に応えるかのように目の前で凄まじく眩しい閃光が弾け飛んだ。


「っ……!」


 爆発でも起きたのかと思うほどの強烈な光に俺は思わず両腕で顔を覆った。

 なんなんだ。

 結花が爆弾でも投げ込んだとでも言うのか。

 俺は痛む脇腹を押さえながら薄れゆく光の残滓の奥に目を凝らした。


 そこに立っていたのは結花ではなかった。

 凛とした和装に身を包み身の丈ほどもある美しい日本刀を構えた人物。


 小夜だった。

 彼女は化け物の振り下ろした骨の槍を自らの刀で完全に受け止めていた。

 鍔迫り合いの火花が散り夜の校舎に甲高い金属音が響き渡る。


「どうして、ここに……」


 驚愕で痛みを忘れそうになる。

 そして俺は彼女の姿のある違和感に気がついた。

 病院の地下室で見た時の和装とは腕の部分の作りが少し変わっていたのだ。


 袖が大きく裂けたようなデザインになっており彼女の真っ白な両腕が露出している。

 そしてその肌には先ほどあの暗闇の世界で見た無数の黒い線がはっきりと刻み込まれていた。


 赫哭の証。


 血を能力に変換し、限界を超えて戦い続けてきた彼女の痛々しい呪いの模様が、今は月明かりに照らされて微かに赫く脈打っているように見えた。


 だがそんな服の些細な違いなんて今の俺にはどうでも良かった。

 なぜ小夜がここにいるのか。

 俺がピンチになるタイミングを計ったように現れたのか。


 俺の頭の中にはその疑問だけが渦巻いていた。

 骨の槍を弾き返し化け物と距離を取った小夜の背中越しに俺は震える声で尋ねた。


「なあ……どうして小夜がここにいるんだよ」


 俺の切実な問いかけに対して。

 彼女は俺の方を振り返ることもなく刀の切先を真っ直ぐに化け物へと向けたまま短く答えた。


「さぁ?」


 言葉が夜の廊下に溶けた次の瞬間だった。


 化け物が咆哮を上げる。

 空気がビリビリと震えた。

 悍ましい骨の軋み。


 奴は再び地を蹴った。

 狙いは俺ではない。

 目の前に立ち塞がる小夜だ。


 鋭利な骨の槍が暗闇を裂く。

 速い。

 目で追いきれない速度だった。

 だが小夜は動じなかった。


 彼女は静かに息を吸い込む。

 そして柄を握る手に力を込めた。

 腕に刻まれた乱雑な線。

 それが爆発的に赤く発光した。


 赫哭の力。

 自らの血を沸騰させ身体能力を極限まで引き上げる式骸。

 小夜の体が霞んだ。

 銀色の軌跡が夜の校舎に描かれる。


 ガァンッ!


 鼓膜を破るような金属音。

 日本刀と骨の槍が激突した。

 火花が散る。


 暗闇が一瞬だけ昼間のように照らされた。

 小夜の細い腕が化け物の圧倒的な質量を完全に受け止めている。

 いや受け止めているだけではない。


 彼女はそのまま刃を滑らせた。

 骨を削る甲高い音。

 小夜は敵の体勢を崩し流れるように斬り込む。


 袈裟懸(けさが)けの一撃。

 化け物の胸部の骨が深く抉られた。

 砕けた骨の破片が廊下に散らばる。


「グガァァッ!」


 化け物が苦悶の声を上げた。

 怯むことなく奴は槍を振り回す。

 薙ぎ払うような凶悪な一撃。


 小夜は軽やかに後ろへ跳んだ。

 床スレスレを槍の穂先が通過する。

 彼女は壁を蹴り三角跳びの要領で再び距離を詰めた。

 赫い光が尾を引く。


 美しい。

 死闘の最中だというのに俺はそう思ってしまった。

 彼女の剣舞はあまりにも洗練されていた。

 恐怖すら忘れて見惚れるほどの圧倒的な暴力の美。

 だが現実は甘くなかった。


「ぐっ……」


 俺の脇腹から熱いものが流れ落ちる。

 さっき突き刺された傷だ。

 アドレナリンで麻痺していた激痛が急激にぶり返してきた。

 俺は痛みに耐えきれず、無意識に呻き声を漏らしてしまった。


 その小さな声が致命的となる。

 小夜の肩がビクッと跳ねた。

 彼女の視線が敵から俺へと向く。

 ほんの一瞬だ。

 だが生死を分かつ極限の戦闘においてその一瞬はあまりにも長すぎた。


 化け物はこの隙を見逃さなかった。

 奴は不自然な方向に腕の関節を曲げる。

 そして小夜の死角から骨の槍を鋭く突き出す。

 小夜の顔に「しまった」という焦りの色が浮かんだ。


 彼女の姿勢は完全に前のめりだ。

 回避は間に合わない。

 刀で防ぐこともできない。

 槍の穂先が彼女の無防備な腹部へと迫る。

 このままでは小夜が貫かれる。


 俺のせいだ。

 俺が声を出したせいで彼女が死ぬ。


 そんなの絶対に嫌だ。

 ふざけるな。


 俺は激痛を無視して右手を伸ばした。

 床に転がっていた白い塊。

 さっきの激突で砕け散った化け物の槍の残骸だ。


 鋭く尖った骨の破片。

 俺はそれを力任せに握りしめた。

 手のひらが切れて血が滲む。

 関係ない。

 俺は痛む腹に無理やり力を込め上半身を捻った。


「うおおおおおっ!」


 叫び声と共に俺はその骨の破片を全力で投げつけた。

 コントロールなんてない。

 ただ死に物狂いの威嚇だった。

 ガンッ!

 奇跡が起きた。

 投げた破片が一直線に飛び化け物の顔面に直撃したのだ。

 骸骨の頭部が大きく弾かれた。


 化け物の視線がブレる。

 突き出されようとしていた槍の軌道が僅かに逸れた。

 槍の穂先は小夜の脇腹を掠め袖を裂くに留まった。

 化け物がよろめいた。


 体勢が崩れる。

 完璧な隙だった。

 小夜の瞳が氷のように冷たく細められた。

 腕の赫い線が一層強く輝く。


 血の沸騰。

 彼女は深く踏み込んだ。

 床のタイルが粉々に砕け散る。

 下段からの逆袈裟。

 日本刀が極限の速度で振り上げられた。


 赫き閃光。

 音すらなかった。

 小夜の刃は抵抗を全く感じさせず化け物の巨体を下から上へと完璧に両断した。


 時間が止まったかのように見える。

 そしてズレる。

 化け物の身体が斜めに滑り落ちた。

 ドサッという重い音。

 左右に分かたれた骸骨の肉塊が床に崩れ落ちる。


 もう動かない。

 完全に沈黙した。

 戦闘が終わった。

 静寂が夜の校舎に再び舞い戻る。

 小夜はゆっくりと刀を振り、血振るいをした。

 チャキッという澄んだ音が響き彼女は刀を鞘に収める。


 腕の赫い光が少しずつ収まり元の痛々しい黒い線へと戻っていった。

 俺は全身の力が抜けその場に仰向けに倒れ込んだ。

 荒い呼吸だけが繰り返される。


 勝ったんだ。

 生き延びたんだ。

 暗い天井を見上げながら俺は静かに目を閉じた。


「結花、ねぇ?」


「あ」


 小夜は俺を見つめていた。

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