こ、これは!ラブレターってやつか!?
「んぁ?」
瞬きをすると目の前には見慣れた男子トイレの鏡があった。
蛍光灯の無機質な光が俺の青白い顔を照らしている。
さっきまで俺を包んでいたあの暗くて温かい空間も小夜の光る腕もすべてが嘘のように消え去っていた。
頬には自分で思い切りつねった痛みがじんわりと残っている。
夢じゃなかった。
確かに俺は小夜と会って話をしたのだ。
幼稚園児みたいに笑い合ったあの時間が俺のすり減った精神を少しだけ修復してくれていた。
少しだけ心が軽くなったのを感じながら俺はトイレを出て教室へと戻った。
教室の引き戸を開けるとすでにホームルームが始まる直前だった。
席を見渡してふと気づく。
あれだけ俺の右手を強引に握りしめ護衛すると息巻いていた理の姿がどこにもない。
「あいつどこ行ったんだ?」
白衣のまま堂々と廊下を歩いていたくせに、いざ授業となると忽然と姿を消すとは。
やはりあいつはただの問題児で授業をサボっているだけなんじゃないのか。
天才児の一般人なんてただの詭弁だったらしい。
俺が自分の席に向かって歩き出すとすぐ横から甘い香りが漂ってきた。
結花だ。
「空くん遅かったね」
「お腹痛かったの?」
「トイレで倒れてるんじゃないかって心配で女子トイレの窓から侵入して確かめに行こうか悩んでたのよ」
さらりと犯罪スレスレの思考を口にする彼女の顔は相変わらず血色が良く生き生きとしていた。
昨夜のあれが本当に幻だったのではないかと脳が錯覚を起こしそうになる。
「いやちょっと考え事してただけだ。女子トイレからの侵入は絶対にやめてくれ」
俺が苦笑いしながら席に座ると前の席にいた男子生徒がニヤニヤしながら振り返ってきた。
名前は覚えていないが確か高橋と呼ばれていた気がする。
「お前ら朝から熱々だなー!空がいない間ずっと白川さんソワソワして入り口見てたぜ」
高橋がからかうように言うと隣の席の女子生徒達もくすくすと笑いながら会話に入ってきた。
「もー高橋くん邪魔しないの」
「結花ちゃんがかわいそうでしょ」
「リア充爆ぜろ!おい!離せ!ぐぇ、」
「もー、二人の世界なんだから放っておいてあげなよ、ね」
クラスメイトたちは気さくで優しい。
俺は照れ隠しに頭を掻いた。
「いや別に二人の世界ってわけじゃ……」
俺が否定しようとすると結花が俺の腕にすり寄ってきた。
「ううん高橋くんの言う通りだよ」
「空くんが私の視界から一秒でも消えると私息ができなくなっちゃうの」
「だからこれからはずぅっと一緒にいようね」
結花のその重すぎる発言を聞いて高橋は「ヒューヒュー!愛されてんなー!」と能天気に冷やかしている。
周りのクラスメイトたちも微笑ましそうに俺たちを見守っていた。
彼らは何も知らないのだ。
この美しくて可憐な幼馴染が昨日俺の顔の横にカッターナイフを突き立ててきたことも、俺の胃袋を完全に掌握しようとしていることも。
そして何より昨夜俺が彼女の生首を見たという狂気の事実も。
チャイムが鳴り授業が始まった。
理の席はやはり空席のままだ。
先生も理がいないことに特に触れようとしないあたりあいつの不真面目は日常茶飯事なのかもしれない。
俺は黒板に向かってノートを開いた。
しかし隣の席の結花は全く黒板を見ていない。
頬杖をつきながらずっと俺の顔を凝視しているのだ。
視線が痛い。
「……結花、前見ろよ。先生に怒られるぞ」
俺が小声で注意すると結花はふふっと笑った。
「空くんの横顔って本当に綺麗」
「黒板の文字なんかよりずっとずっと見ていたいな」
「空くんの瞬きの回数を数えてるだけで授業が終わっちゃいそう」
相変わらず湿度が異常に高い。
しかしその温かい吐息と生きている人間の生々しい体温を感じて俺の胸の奥で相反する感情がぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。
怖い。
狂っている。
けれど彼女がこうして生きて俺の隣で笑ってくれていることに安堵してしまっている自分が確実に存在していたのだ。
外で移動販売をやっていると聞き、昼休みに自分の下駄箱を開けた時だった。
上履きの上に可愛らしい薄いピンク色の封筒がちょこんと乗っていた。
宛名はない。
裏返すとハートのシールで丁寧に封がされている。
俺は心臓を跳ね上げさせながら周りに誰もいないことを確認して急いで封を開けた。
中に入っていたのは一枚の便箋だ。
そこには丸みを帯びた可愛らしい字でこう書かれていた。
『放課後屋上で待っています。ずっと言えなかった気持ちを伝えたいです』
これは!
どう見ても告白を想起させるような甘い文章じゃないか。
俺の頭の中は一瞬で春のお花畑になった。
昨夜の生首事件や理とのファイティング事件でズタボロになっていた精神やプライドが嘘のように浮き足立ってしまう。
健康な男子高校生にとってラブレターという響きはそれほどまでに強力な特効薬なのだ。
もちろん相手が誰なのかは分からない。
しかし結花や理のような重すぎる愛とは違うもっと純粋で普通の甘酸っぱい青春が俺を待っているのかもしれない。
俺はその手紙を制服のポケットの奥深くにねじ込んだ。
教室に戻ると結花が俺の顔を覗き込んできた。
「空くんニヤニヤしてどうしたの?何かいいことでもあった?」
俺は全身から冷や汗が噴き出すのを気合いでねじ伏せた。
「ぃ、いや別に何でもないよ?ただ、そう!明日の学食のメニューが楽しみなだけだ!」
必死に平然を装って誤魔化す。
結花にこの手紙の存在がバレたら送り主の女の子が物理的に処理されてしまう危険性が高すぎる。
俺は午後の授業中も結花の鋭い視線を躱しながらひたすらポーカーフェイスを貫き通した。
ようやく放課後のチャイムが鳴り響いた。
俺は結花が日直の仕事で一瞬目を離した隙を突いて、教室から脱出した。
胸の鼓動が早くなる。
ウキウキとした足取りで階段を一段飛ばしで駆け上がり真っ直ぐに屋上へと向かった。
重い鉄の扉を押し開けると夕暮れ前の風が吹き抜けていく。
しかし屋上には誰もいなかった。
「少し早く着きすぎたか」
俺はフェンスの近くに寄りかかりポケットの中で手紙の感触を確かめながら相手を待った。
確かな幸せが俺の胸を満たした。
待つ。
待つ。
ひたすら待つ。
さらに待つ。
しかしどれだけ時間が経過しても屋上の扉が開く気配は一向になかった。
遠くの空が少しずつオレンジ色から群青色へと染まり始めている。
「もしかして誰かのイタズラなのか?」
いやそんなことはないはずだ。
あんなに可愛らしい字で丁寧にハートのシールまで貼られていたんだ。
きっと恥ずかしくてなかなか出てこれないか先生に捕まって居残りをさせられているかに違いない。
俺はそう自分に言い聞かせて冷えてきた風に身を縮めながら待ち続けた。
だがついに空は完全に暗くなり、街に夜の明かりが灯り始めてしまった。
これ以上待っても無駄だろう。
俺は相手に何か事情があったのだと諦め、重い足取りで屋上の扉を開け校舎の中へと戻った。
ドンッ。
背後で重い鉄の扉が閉まる音がやけに大きく響き渡った。
「……うわっ」
校舎に足を踏み入れた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。
昼間はあんなに生徒たちで賑わっていた学校がまるで巨大な墓標のように静まり返っていたのだ。
廊下の電気はすべて消えており、非常口の緑色の光だけが不気味に浮かび上がっている。
人の気配が全くない。
放課後に部活動をしている生徒の声も吹奏楽部の楽器の音も教師が歩く足音すら一切聞こえてこないのだ。
ただの一人もこの校舎に残っていないかのような異常な静寂。
暗闇の奥から昨夜見た結花の生首が転がってくるのではないかという妄想が脳裏をよぎる。
俺はゾクゾクと這い上がってくる恐怖に完全にビビり上がり、震える足を必死に動かして階段を下り始めた。




