冬の星 大半の名は 知られぬと
東京の少年は、たった一人で冬の長野へ向かっていました。
今は亡き祖母が、かつて教えてくれた場所。「あそこにはね、宇宙の端っこまで見える場所があるんだよ」という言葉を頼りに、少年は夜行列車とバスを乗り継ぎ、街灯ひとつない雪の小道を歩いていました。
森を抜け、視界がふっと軽くなったその場所には、音のない光の海が広がっていました。
都会の空を濁らせる街の灯はどこにもありません。オリオンの三つ星が、指先で弾けばキィンと鳴りそうなほど鋭く、冷たく、誇らしげに瞬いています。
「シリウス、ベテルギウス、プロキオン……」
少年は、凍える指先で空をなぞり、覚えたての星の名前を呼びました。すると星たちは、名前を呼ばれるのを待っていたかのように、いっそう強くまたたきました。
そのときでした。
背後の茂みでカサリと音がしました。
振り返ると、一人の男が立っていました。使い古された作業着に身を包み、無精髭を生やした顔には、深い疲れが影を落としています。男の瞳には星の輝きではなく、重く濁った夜の闇だけが映っているようでした。
ここは祖母に教わった秘境のはずです。
「お兄さん、なんでここにいるの?」
問いかけると、男は乾いた声で笑いました。
「……ここにいちゃダメか? ただ、夜空を見に来ただけだよ」
男はそう言って雪の上に腰を下ろしました。二人は並んで、黙ったまま夜空を見上げました。
しばらくすると、男がぽつりと言いました。
「……本当はな。ただ、消えてしまいたくて来たのかもしれない」
男の名は、佐藤さんといいました。町工場で、来る日も来る日も小さなネジを回し、誰にも気づかれないまま年を取っていく、そんな自分に絶望していたのです。
「あんな風に名前を覚えられる星はいいよな。遠くからでも見つけてもらえる。俺には名前なんてないのと同じだ。代わりはいくらでもいるし、歴史にも誰の記憶にも残らない。俺が今日ここで消えたって、明日の世界は何も変わらないんだ」
佐藤さんの目から、一筋の雫がこぼれ落ちました。それは星の光を吸い込んで、足元の雪に静かに沈みました。
「名のない星なんて誰にも見られない」
佐藤さんは、華やかなオリオン座のすぐ隣を指さします。
そこには、教科書に載っているような明るい星はありません。けれど、じっと目を凝らすと、砂粒のような無数の光が、川のように空を流れているのが見えました。
「ねえ、佐藤さん。ちゃんと見て」
少年は、名前も知らない、か細い星々の集まりを指しました。
「あの星たちの名前、僕も図鑑で見たことないよ。でもね、もしあの小さな星たちが一斉に消えちゃったら、空は真っ暗でスカスカになっちゃうと思うんだ」
佐藤さんは、黙って空を見つめ返しました。
「一等星が輝いて見えるのは、周りに名もない星たちがたくさんいて、夜を支えているからだよ。佐藤さんのネジがなかったら、誰かの車は止まっちゃうし、誰かの家の明かりも消えちゃうかもしれない」
少年は、自分の手袋を、佐藤さんの油の染みた大きな手にそっと重ねました。
「夜空はね、名前の大きさで偉さを決めてないよ。みんなで一緒に、この大きな夜を作ってるんだ。佐藤さんがそこにいてくれるから、僕は今、一人じゃないって思えるんだよ」
風が吹き抜け、木々がザワザワと鳴りました。
佐藤さんは、自分のゴツゴツとした手のひらを見つめました。誰にも見られない場所で、誰かの生活を支え続けてきた手。その指先に、空からの微かな光が宿っているように見えました。
「……そうか。名もない星も夜空のひとつなのか」
佐藤さんの声から、震えが消えていました。彼はゆっくりと深呼吸をしました。冷たい空気は肺の奥まで清め、心の淀みを流してくれるようでした。
それから二人は、長い間、黙って空を仰ぎました。
有名な星座も、名前のない星くずも、等しく冷たい光を放ち、等しく宇宙を埋めています。
帰り道、駅へ向かうバスの中で、佐藤さんは少しだけ背筋を伸ばして座っていました。
「ここで1句。冬の星 大半の名は 知られぬと 知られぬ星が 夜空を創る。またな、少年」
「なにそれ。またね、佐藤さん」
バスの窓から見える空は、相変わらず広くて深いものでした。
けれど、そこにあるのはもう、冷たい暗闇ではありません。
それは無数の「誰か」が灯し続ける、温かな光の集まりでした。




