第4話 初依頼
暗闇の底に沈む自分のことを、もう1人の自分が見ていた。
口元からこぼれた気泡が、暗闇のなかを漂い、ある場面を反射するように映し出す。映された場面の輪郭はぼやけ、薄く膜を張ったようにフィルター越しで見えた。
(これは……)
私は学校の廊下を駆けていた。下校時間ギリギリの時間帯に、私は曲がり角で誰かとぶつかっている。クラスメイトだ。物静かで、名前も思い出せない。縁のある眼鏡をかけた人。
視線が、交わった。
その目は、私を見た途端に歪められる。
「うわ……まだいたんだ」
初めて聞く声だった。でも、その声はあまり良くないものを含んでいた。
それだけ。その一瞬の場面が、流れて消えた。
なぜか心臓が脈打っている。私は、この場面を何度も夢見ている。
そう、夢だ。
これは私がよく見る夢で、傷のついた夢。
ドンドンドンッ!
けたたましい音が鳴り響き、私は咄嗟に起き上がっていた。
被っていた毛布がずり落ちる。何事かと思えば、その音は部屋の扉から聞こえていた。
「おい、起きているのか。返事がないなら入るぞ」
その声を聞いた途端、私は自分が置かれていた状況を理解する。
確か、この部屋を管理者さんが助手用だと言って、貸してくれたのだ。
私は起き上がり、寝起き一発目で精一杯の声量を出した。
「ま、待ってください! 起きてます!」
「起きていたのか。話したいことがある。身支度を済ませたら降りてきてくれ」
管理者さんの階段を降りていく音が、遠くになるにつれくぐもって聞こえた。
私の心臓の音は、今も、どくどくと脈打っている。
夢にも驚き、私は彼の扉を叩く荒さにも驚いていた。
あの人、朝がすごく弱いのかもしれない。
それにしても、またあの夢。
私は枕元のそばにあった携帯の電源をオンにしかけて、やめた。
もし今見たら、私は自分の決断を自ら揺るがしてしまうかもしれない。
電源を完全に消し、私はベッドと壁の隙間に入れてしまった。
急いで身支度を終えた私は扉を開けて、階段に足をつける。
1階を覗き込んで見ていた私は、書類のようなものを見ている管理者さんを発見した。
「チッ……また面倒な仕事回しやがって……」
舌打ち!?
管理者さんは腕を組みながら悪態をつき、その書類を睨んでいるようだった。
朝から舌打ちなんて怖すぎる。これから助手としてやっていこうと、けじめをつけて降りてきたのに。
私が階段からその様子を盗み見ていると、管理者さんが不意にこちらを見上げる。
その視線に驚いて、私は思わずその場で固まってしまった。
「お、おはようございます。あの、お仕事ですか、それ」
「……ああ。上が面倒なものを回してきた」
管理者さんは降りてくる私を手招きして、その書類を見せてくれた。
読めなかったはずの文字が、頭の中で変換されて読めるようになっている。
ただ、まだ私には理解できない仕事内容が記されていた。
「すみません。内容が難しくて、まだ理解できなくて」
「簡単に内容をまとめると、お前がもといた《生の世界》でタチの悪いものがいるらしい。それを回収してこいというのが上からの依頼だ」
「上っていうのは、管理者さんより立場が上の方がいるんですか?」
「…………」
その問いに管理者さんがすごく嫌そうな表情をしたので、私は咄嗟に口をおさえた。私に対して初対面から面倒見の良い管理者さんが、これほど険悪な表情をするのは初めてだ。
今の表情は、立場がどうこうと言うより、話題そのものを嫌っているように感じる。
「えっと、今は、私が何をするべきか教えてもらった方が良いですよね……?」
話をすり替えることも、また大事なこと。
私がそう聞くと、管理者さんは頷き返した。
「そうだな。初めてであれば仕事は……」
管理者さんが私のことを上から下までじろじろと見始める。
彼の目は一点を見つめては別の場所へと移り、また私の目を覗き込むように見た。
それを見て、何を思ったのだろうか。
管理者さんの表情が、段々と微妙なものに変わっていく。
「なんというか、平均以下だな」
淡々と紡がれた言葉に、配慮というものは一切なく。
面倒見の良い管理者さんという優しいイメージが、このとき崩れ去った。
「いくらなんでもひどすぎません!? 管理者さんって、容姿に点数をつける感じの……」
「は?」
管理者さんが素っ頓狂な声を出している。
しかし、言葉の意味を理解したのか、彼は私の両肩を急に持ち出した。
「おまっ、そんな訳あるか! 誰がそんな下品な戯言を!」
「貴方が言い出したんですよ!」
「誤解だ、どう考えても! 俺はお前の適正を見ただけで」
「適正?」
私の問いに、管理者さんは言葉を詰まらせる。
それから私を見て、また書類の文面に目を凝らし、そして観念したように額に手を当てていた。彼は、私に対して人差し指を向けて、渋々という感じに口を開く。
「……全てを、その場で示せ」
私と管理者さんの間に、丸い球体がふよふよと浮かぶ。
泡のようなそれは白く弾けそうで、行き場をなくして彷徨うかのようだった。
割れないどころか、照明に反射して輝く様子に、私は引き込まれるようにして見つめる。
「それを見て感じた、お前の第一印象は?」
管理者さんの問いに、私はもう一度浮かんだそれを見つめた。
繊細でありながら今にも弾けそうな見た目をしている。
「ふわふわで、弾けそう?」
「そうだ。今のお前の、適正を測った際の状態がそれだ。無理をするのは禁物ということでもある」
管理者さんは、そう言って私から目を逸らした。
「術の効力を言葉に乗せるのは、あまり好んでないんだが。まあ、お前もやってみろ」
「私もですか? どうやってすれば……」
「俺が先程やったことと、同じようにすれば良い」
促された私は、慎重に人差し指を管理者さんへと向ける。
管理者さんは私のことを一瞥すると、静かに目を瞑って、こちらに背を向けてしまった。
それでも、言われたとおりに管理者さんの真似をする。
「全てを、その場で示せ!」
「……!」
ぱちん!
風船の弾けるような音が、耳のすぐそばで聞こえた。
ただ、私はその音に驚いたのではなく、目の前に浮かぶ無数の泡に目を奪われていた。
色とりどりの泡が花弁のように変化して、最後は赤に染まって消えていく。
その様子から目が離せない私に向けて、静かな拍手が聞こえた。
「お見事。それだけできるのなら、現段階で適正が低くても大丈夫だろう」
管理者さんの目が少しだけ柔らかく見えた。
それは、契約したあのときと、同じもの。
私は椅子に座った管理者さんと同様、前の椅子へと腰掛ける。
目の前に座る管理者さんの雰囲気が、切り替わったようだった。
「さて、確認ができたところで仕事だ。場所は西の繁華街。正直、初仕事にしては危険な場所だろう」
書類に書かれていた地名は、私の知る場所で、まだ行ったことのない場所でもあった。今月行くはずだった修学旅行で、誰もが知る観光地。
西の繁華街。京の都。
「菫。助手として覚悟はできているか」
契約時と同様に、管理者さんは再度私に尋ねる。
私は彼の言葉に、大きく頷いていた。




