第3話 アナタはだれ?
どうして。いつの間に、背後に居たんだろう。
何も言えず、見上げることしかできない私と相反するように、彼の口元は弧を描いていた。
「今、つまらないこと考えてるでしょ? 僕には分かるよ」
トンッ、と私の額に、彼の人差し指が当たる。
すると、身体が金縛りに合ったように動けなくなった。
その小さな衝撃で私の瞼は閉じたまま。
ただ、彼の気配だけを、すぐそばで感じる。
私の戸惑う様子を見ているのか、前からくすくすと可笑しそうに笑う声が聞こえた。
「君は弱いんだね。これじゃあ、僕を助けてくれないか」
「……貴方は、だれなの。管理者さんなの? それとも、私を追いかけてきたナニか?」
「どちらも違うよ。それより、君みたいな人がずっとこのままだと死んじゃうけど、大丈夫?」
その問いが投げかけられたと同時に、身体の底からどくんと、何かが迫り上がってくるものを感じた。
咄嗟に吐き気を感じ、手で口元を抑えかける。
だが、その手はまだ動かせずにいた。
代わりに、身体の感覚が歪み、視界が回るような浮遊感を感じる。
「……ッ!」
「少し我慢して。僕が君の魂をちょっといじって、時間稼ぎしてあげるから」
苦しい。息が、うまくできない。
でもその感覚は一瞬で、何かが身体から抜けたと同時に、私は椅子から床へと倒れ込んだ。
すぐに息苦しい首元を抑えた。咳が止まらない。
俯く私の視界に、汚れひとつない白靴が見えていた。
「手荒な真似してごめんね。でも、時間がないから急いでいたんだ」
私の右肩に、彼の手がそっと置かれたのが分かった。
その手は、服越しでも分かるぐらいに温かいのに、指先が凍るほどに冷たい。
彼は、今も何かに急いでいるようだった。
「君に提示できる選択は2つ。1つは、君がいた《生の世界》に戻って、ひとときの間を幸せに過ごし、死を迎えること」
視界には白くて細い指が、軽快に数字を示していた。
「……もう1つは、この《ハザマの世界》管理者の助手になって、とにかく頑張って生きること」
顔を上げる暇もないまま、彼は矢継ぎ早にそう言い、私から離れる。
その選択の意味も分からないままに、私はやっとの思いで顔を上げていた。
彼はもうすでに私に背を向け、扉のドアノブに手をかけている。
足音も、扉に手をかける音も、気付くまで何ひとつ聞こえてこなかった。
風だけが、彼の髪をくすぐるように揺らしている。
そんな彼が、ほんの少しだけこちらを見るように振り返り、笑った。
「僕がここに居たこと、そして話したこと。これは、君と僕の秘密にしてね」
「……秘密?」
「うん、絶対遵守の秘密だよ」
その言葉を最後に、突風が外から建物の中へと入り込む。
目を瞑った私がゆっくりと瞼を開けると、そこにはもう、彼の姿はなかった。
その曖昧さと名残惜しさに声をかける時間もなく、瞬きの一瞬で、今の状況は変化する。
床にしゃがみ込んでいた筈の私は、なぜか椅子に座っていたのだ。
息苦しいこともなくなり、目の前に置かれたココアは湯気が立っていた。
そして、座る私の前に、先程まで建物の奥に行ってしまっていた彼が、座ってこちらを見ていた。
彼の透き通った黒色の瞳が、私だけをずっと映している。
「お前は、これからどうしたい?」
もう一度、瞬きをする。
目の前にいる彼の、胸元にあった黒色のリボンへと視線を向けて、また顔を上げていた。
時間が戻ったように感じた。
ただ、それは違うような気もした。
2つの選択。絶対遵守の秘密。
白色のリボンを胸元に付けた管理者さんのそっくりさんは、私にそのことを伝えてきた。
管理者さんのこちらを覗き見るような目が向けられる。私は、開きかけた口を一度閉じる。
言いかけた言葉を飲み込み、自分にとっての最善の選択を考えていた。
「私、は……」
短い一瞬の間に、私は思考を巡らせる。
何に追いかけられて、ここにやって来たのかなんて私には分からない。
この管理者さんのことも知らないままだ。突然現れたそっくりさんのことなんて、もっと理解できない。
魔法みたいなものも、禁書も、時間が巻き戻るように感じる現象も、何もかも知らない。
でも、それを分からないままでいる自分が、理解できずに死ぬと言われて、それで本当にいいの?
“とにかく頑張って生きること”。
私は、今まで頑張って生きてた。
生きていたから、死にたくない。
「……い」
「……? すまない。もう一度言ってくれ」
私は両手を机につき、勢いよく立ち上がっていた。
マグカップに入っていたココアが、波立ってしまったのも構わなかった。
「私、管理者さんのそばで頑張りたいと、思っているんです」
自分の意志を表立って言うのは、久しぶりのことだった。
「私は、これからどうすれば良いか分からなくて。帰り方も、分からなくて……。でも、帰り方が分かるまで、雑用でもなんでもやるつもりでいます。この世界のこと、全然分からないので」
言葉を区切る。私は、提示された選択の1つを、自分の意志として受け入れていた。
「私を、助手として、一時的にでも良いので置いてくれませんか?」
お願いしますと、そう言って私は深く頭を下げていた。
私にとって、この世界は情報不足だった。もっと、詳しく説明してほしいと今も思ってる。
でも、このままだと死ぬのだと、そう言われた私には時間がない。
頭を下げたままで、管理者さんから返事がない。不安になった私は顔を上げていた。
すると、私の言葉に驚いているのか、管理者さんは呆気に取られたように私を見上げている。
「本気で、言ってるのか。助手というのは……」
「本気です。大変だとは、思うんですが」
管理者さんは私の言葉を聞いてか、両手を組み、何かを考える様子でいた。
だけど、ほんの少しだけ。
彼の印象が柔らかく感じる一瞬があった。
私には、それが少し微笑まれたような気がしたんだ。
「そうか……お前は、そういう選択をするんだな」
私の前に、左手が差し出される。彼が目配せしたので、私は同じように左手を差し出した。
すると、彼は私の左手の甲を天井へ向き直らせ、そこへ彼の顔が近付く。
伏し目がちの目が私の手の甲に向けられたとき、今から何をされるのか。それは、私にでも分かった。
そっと触れられた瞬間に、目の前の光景がなぜか輝いて見えた。
彼が離れ、私を見上げたその瞬間。私は不思議なほどに身体から力が溢れ出るのを感じる。
「……これで契約は完了した。今日からお前は、《ハザマの世界》管理者の助手だ」
そう言って、彼が立ち上がってこちらへと手を差し伸べる。
「ようこそ《ハザマの世界》へ」
その手を、今の私は迷うことなく掴んでいた。




