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ハザマの世界  作者: 柴崎菖蒲
【第1章 出会い編】

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第3話 アナタはだれ?


どうして。いつの間に、背後に居たんだろう。


何も言えず、見上げることしかできない私と相反するように、彼の口元は弧を描いていた。





「今、つまらないこと考えてるでしょ? 僕には分かるよ」





トンッ、と私の額に、彼の人差し指が当たる。






すると、身体が金縛りに合ったように動けなくなった。


その小さな衝撃で私の瞼は閉じたまま。

ただ、彼の気配だけを、すぐそばで感じる。


私の戸惑う様子を見ているのか、前からくすくすと可笑しそうに笑う声が聞こえた。




「君は弱いんだね。これじゃあ、僕を助けてくれないか」


「……貴方は、だれなの。管理者さんなの? それとも、私を追いかけてきたナニか?」


「どちらも違うよ。それより、君みたいな人がずっとこのままだと死んじゃうけど、大丈夫?」





その問いが投げかけられたと同時に、身体の底からどくんと、何かが迫り上がってくるものを感じた。


咄嗟に吐き気を感じ、手で口元を抑えかける。

だが、その手はまだ動かせずにいた。


代わりに、身体の感覚が歪み、視界が回るような浮遊感を感じる。




「……ッ!」


「少し我慢して。僕が君の魂をちょっといじって、時間稼ぎしてあげるから」





苦しい。息が、うまくできない。





でもその感覚は一瞬で、何かが身体から抜けたと同時に、私は椅子から床へと倒れ込んだ。


すぐに息苦しい首元を抑えた。咳が止まらない。

俯く私の視界に、汚れひとつない白靴が見えていた。




「手荒な真似してごめんね。でも、時間がないから急いでいたんだ」




私の右肩に、彼の手がそっと置かれたのが分かった。


その手は、服越しでも分かるぐらいに温かいのに、指先が凍るほどに冷たい。


彼は、今も何かに急いでいるようだった。




「君に提示できる選択は2つ。1つは、君がいた《生の世界》に戻って、ひとときの間を幸せに過ごし、死を迎えること」




視界には白くて細い指が、軽快に数字を示していた。




「……もう1つは、この《ハザマの世界》管理者の助手になって、とにかく頑張って生きること」




顔を上げる暇もないまま、彼は矢継ぎ早にそう言い、私から離れる。


その選択の意味も分からないままに、私はやっとの思いで顔を上げていた。


彼はもうすでに私に背を向け、扉のドアノブに手をかけている。


足音も、扉に手をかける音も、気付くまで何ひとつ聞こえてこなかった。


風だけが、彼の髪をくすぐるように揺らしている。


そんな彼が、ほんの少しだけこちらを見るように振り返り、笑った。




「僕がここに居たこと、そして話したこと。これは、君と僕の秘密にしてね」


「……秘密?」


「うん、絶対遵守の秘密だよ」




その言葉を最後に、突風が外から建物の中へと入り込む。


目を瞑った私がゆっくりと瞼を開けると、そこにはもう、彼の姿はなかった。





その曖昧さと名残惜しさに声をかける時間もなく、瞬きの一瞬で、今の状況は変化する。







床にしゃがみ込んでいた筈の私は、なぜか椅子に座っていたのだ。







息苦しいこともなくなり、目の前に置かれたココアは湯気が立っていた。


そして、座る私の前に、先程まで建物の奥に行ってしまっていた彼が、座ってこちらを見ていた。







彼の透き通った黒色の瞳が、私だけをずっと映している。







「お前は、これからどうしたい?」






もう一度、瞬きをする。






目の前にいる彼の、胸元にあった黒色のリボンへと視線を向けて、また顔を上げていた。


時間が戻ったように感じた。

ただ、それは違うような気もした。





2つの選択。絶対遵守の秘密。





白色のリボンを胸元に付けた管理者さんのそっくりさんは、私にそのことを伝えてきた。


管理者さんのこちらを覗き見るような目が向けられる。私は、開きかけた口を一度閉じる。


言いかけた言葉を飲み込み、自分にとっての最善の選択を考えていた。




「私、は……」





短い一瞬の間に、私は思考を巡らせる。





何に追いかけられて、ここにやって来たのかなんて私には分からない。


この管理者さんのことも知らないままだ。突然現れたそっくりさんのことなんて、もっと理解できない。


魔法みたいなものも、禁書も、時間が巻き戻るように感じる現象も、何もかも知らない。


でも、それを分からないままでいる自分が、理解できずに死ぬと言われて、それで本当にいいの?






“とにかく頑張って生きること”。






私は、今まで頑張って生きてた。

生きていたから、死にたくない。




「……い」


「……? すまない。もう一度言ってくれ」




私は両手を机につき、勢いよく立ち上がっていた。


マグカップに入っていたココアが、波立ってしまったのも構わなかった。




「私、管理者さんのそばで頑張りたいと、思っているんです」




自分の意志を表立って言うのは、久しぶりのことだった。




「私は、これからどうすれば良いか分からなくて。帰り方も、分からなくて……。でも、帰り方が分かるまで、雑用でもなんでもやるつもりでいます。この世界のこと、全然分からないので」





言葉を区切る。私は、提示された選択の1つを、自分の意志として受け入れていた。




「私を、助手として、一時的にでも良いので置いてくれませんか?」




お願いしますと、そう言って私は深く頭を下げていた。




私にとって、この世界は情報不足だった。もっと、詳しく説明してほしいと今も思ってる。


でも、このままだと死ぬのだと、そう言われた私には時間がない。


頭を下げたままで、管理者さんから返事がない。不安になった私は顔を上げていた。




すると、私の言葉に驚いているのか、管理者さんは呆気に取られたように私を見上げている。




「本気で、言ってるのか。助手というのは……」


「本気です。大変だとは、思うんですが」




管理者さんは私の言葉を聞いてか、両手を組み、何かを考える様子でいた。


だけど、ほんの少しだけ。

彼の印象が柔らかく感じる一瞬があった。





私には、それが少し微笑まれたような気がしたんだ。





「そうか……お前は、そういう選択をするんだな」





私の前に、左手が差し出される。彼が目配せしたので、私は同じように左手を差し出した。


すると、彼は私の左手の甲を天井へ向き直らせ、そこへ彼の顔が近付く。


伏し目がちの目が私の手の甲に向けられたとき、今から何をされるのか。それは、私にでも分かった。


そっと触れられた瞬間に、目の前の光景がなぜか輝いて見えた。


彼が離れ、私を見上げたその瞬間。私は不思議なほどに身体から力が溢れ出るのを感じる。





「……これで契約は完了した。今日からお前は、《ハザマの世界》管理者の助手だ」





そう言って、彼が立ち上がってこちらへと手を差し伸べる。







「ようこそ《ハザマの世界》へ」







その手を、今の私は迷うことなく掴んでいた。



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